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女一匹50代、ひとりもんの暮らしなんてこんなもん

【本】H・G・ウェルズ「宇宙戦争」とその前日譚「水晶の卵」~映画よりも原作の方が面白い~

 


題名 宇宙戦争
作者 H・G・ウェルズ
出版 創元SF文庫 ほか多数
出版年 1898年 
出版国 イギリス
ジャンル SF、古典

 

①小説「宇宙戦争」

 

「都市、国家、文明、進歩。そういったものはすべて終わりだ。勝負はついたんだ。われわれは負けたのだ」  砲兵のセリフ


19世紀末。まだ馬車がメインだった時代。上空から火星人が飛来し、人類に攻撃してくるという話。近代SFの父、H・G・ウェルズのあまりにも有名な小説。火星人といえばタコ型のイメージを決定付けた作品でもあるし、ラジオ・ドラマがパニックを引き起こしたエピソードも超有名(後述する)。


小説冒頭の書き出しがリアルかつドライで、じわっと身体に染み込んでくる。
 

「この地球が、人類よりもすぐれた知能を持ち、しかも人類と同じように生命にかぎりがある生物によって、熱心に、綿密に観察され、人類が自分たちのいろんな利害にあくせくしているとき、人間が顕微鏡でひと滴の水に群がり繁殖しているはかない生物を調べるのと、おそらくはほとんど同じように精密に、丹念に調べられ、研究されていたということを、十九世紀の末ごろ信じていたものは、おそらくひとりとしてなかったろう」


私たちはまさか今この瞬間、得体の知れない誰かが地球を観察しているなんて思わない。でもありうることではある。

今、まさに今、見られてるかも。

そして火星人が地球に向けてやってくるのだが、最初は夜空にキラッと輝く光が観測されて、翌日の同じ時刻にまたキラッと輝いて、また翌日にキラッと輝く。どうやら火星と地球が一番近づく時に宇宙船が打ち出されているのだが、それがまるでルーチンワークのように、淡々と時間通りに作業されている感じが怖い。

そして最初の光から6年後、イギリスのロンドン郊外にそれが着地する。宇宙船と言ってもただの「巨大な筒の形」で、発着陸という感じではなく打ち込まれる感じ、まるで隕石が地面にぶつかるように激突してくる感じが、戻る気が全く感じられなくて怖い。

来るだけ。

そして対話する気も全くなく、筒状の宇宙船から這い出てきて、無言でこちらを無視して淡々と武器を組み立てていく様が怖い。火星人自体の大きさは、もしかすると地球人よりも小さいかもしれないが、その彼らが組み立てる戦闘用機械が巨大かつ不自然ですごい。

三本足のアメンボのように細くて長い足で、その上に乗っている箱に火星人が搭乗していて、アームの先についた箱から熱線がほとばしるというもの。熱線だけでなく、そのうち黒い煙を吐き出して、その煙が地を這うように低く低く充満して人類を死に追いやっていく。

想像してみて。

見上げると、街を巨大な三本足のアメンボが、急ぐわけでもなく移動して、箱から熱線を出して町を焼き払い、黒い煙を出してゆっくりゆっくり這ってくるの。その巨大なアメンボの向こう側には、もう一体のアメンボがいて、海の中にもいるの。

ロンドン市民はフランスへ避難しようと港に殺到するけど、海にもちゃんとアメンボはいて、海軍の軍艦を沈めていく。熱線の熱で海からは蒸気が上がる。人類は一矢をむくいて何体か倒すけど、基本的には全く歯が立たない。

だいたい円筒が打ち込まれているのがロンドン郊外だけとは限らないと思うけど(トム・クルーズ版の映画『宇宙戦争(2005)』では、確か世界中に打ち込まれていたと思う)。


さらに火星人は植物を持ち込むのだが、それが赤い草で、地球の景色が一変していく。こわい。

私が出勤する途中のバスから見えるお宅の生け垣が真っ赤で、たぶん「ベニカナメ」という植物なのだろうと思うのだが、私にとってはこの『宇宙戦争』を思わせて怖いなあと思うのだった。赤い植物って他にもあると思うんだけど、やっぱり基本的には「植物は緑」といった先入観があるし、もしこの植物が世界中に広がっていったらと想像するとすごく怖いなあと思うのだった。



こういった状況の中を主人公の「私」は、基本的にはひとりで、途中で砲兵や牧師などと合流したり別れたりを繰り返しながら馬車や徒歩で火星人の攻撃から逃げ惑う。

この牧師があっという間に精神的に追い詰められてしまって足手まとい感が半端なく、火星人がすぐそばにいるというのに泣くはわめくわ、少ない食料を無計画に食べてしまうわで、「私」も精神的に参ってしまう。

砲兵の方はといえば、たとえ今回は負けようとも人類が絶滅することはありえない、たとえ原始的な生活にいったんは戻ってしまったとしても人類は必ず立ち上がって火星人を倒す。自分はそのための計画を持っているし、準備も怠らないのだ、といった格好いいことを言っていて、「私」もいったんは希望を持つが、ほんのしばらく彼と行動を共にしただけで、彼が口先だけの怠け者であることがわかってがっかりする。

極限状態のなかで否が応にも人間性がむき出しになったり、自分の限界を超えてしまって崩壊していく人々の中で、「私」はなんとか持ちこたえていく。



結末に関しては読んでもらうか、映画を見てもらう(原作通りに終わるので)のがいいと思うのだが、非常に現実的なあっけない結末を迎える。

この小説は今まで2回映画化されていて、ジョージ・パル制作の『宇宙戦争(1953)』とスティーヴン・スピルバーグ監督の『宇宙戦争(2005)』があるが、どちらも結末はおおむね原作通りで、私は非常に好感を持った。この結末がすごく大事なのでね。

ただ火星人の戦闘機械に関しては、ジョージ・パル制作の方は普通に円盤っていう感じで、宙に浮いて、全然三本足ではないのだった(残念)。

ちなみに映画などでは主人公に名前が当てられているけど、原作は「私は・・・」「私が・・・」と一人称で語られるので、彼の名前は出てこないのだった。そして戦闘用機械は「トライポッド(三脚)」の愛称で世界中で呼ばれているが、こちらも私が読んだ版では「戦闘機械」とだけ出てきてトライポッドとは呼ばれてはいなかった(翻訳の問題かもしれない)。


あ、『宇宙戦争』は「まんがで読破シリーズ」でも出ているので参考までに。

 
 

②ラジオ・ドラマに関して

 
H・G・ウェルズ原作の『宇宙戦争』は、最初はアメリカのラジオ・ドラマとして放送されたのだが、それがあまりにもリアリティがあったため全米中がパニックになったらしく、伝説として語り継がれている。

どのような演出だったのかというと、番組はまるで音楽番組として始まり、途中で「火星人が攻めてきていること」を臨時ニュースとして差し込み、また音楽番組に戻る、という形式。俳優にアナウンサーのような口調をまねさせ、「火星から宇宙船が発射されました」、「どこそこに着陸しました! 中から火星人が出てきます!」といった具合にニュース番組の実況中継のように流したらしい。面白そう。

でも番組冒頭などで「これはフィクションである」ときちんと説明していたらしいが、聴取者は番組開始直後は他の局をザッピングする習慣があることから、おそらくこの説明を聞かないだろうと計算していたらしいから頭いい。周到。このラジオ・ドラマ聴きたいなあ。

これを演出したのが、アメリカの伝説の怪優オーソン・ウェルズ。原作者と苗字が一緒なのは偶然。





でも「全米中がパニックになった」は言い過ぎらしくオーソン・ウェルズ自身による誇張が含まれているらしいが、実際騒動にはなったみたい。

このラジオドラマあるいは出来事について詳しく知りたい方は、レトロ・ハッカーズ・シリーズの『火星人の襲来と市民ケーン 偉大なるB級、オーソン・ウェルズ』がおすすめ。基本的には『宇宙戦争』についての書籍ではなく、あくまでもオーソン・ウェルズに関しての本だけど、中に『宇宙戦争』のラジオドラマ放送時の様子が詳しく書かれています。

Amazonのkindle(電子書籍)でしか読めないが、別にkindle を持っていなくてもスマホにAmazonの「kindleアプリ」をダウンロードすれば読めるし、短いし、100円です。


 

このレトロ・ハッカーズ・シリーズはページ数が少ないからか、わずか100円で、それにも関わらず読みごたえがあってどれも大変面白い。初期のものは特に面白いです(だんだんネタ切れ感がある)。「どこがハッカーなんだ」と思うものも多いけど、科学に興味があってマニアックな性格だったらぜひ Amazonで検索してみてほしい。本当におすすめ。


③ 前日譚『水晶の卵』のこと

 
実はこの『宇宙戦争』には前日譚と思われるものがあって、それが『水晶の卵』という短編で、ロンドンの骨董屋の男がショーケースに並べていた卵形の水晶の玉が実は火星とつながっていて、覗き込むと「向こう側が見える」という内容。『宇宙戦争』出版の前年の1897年に発表されているらしく、その内容から言って火星人が地球に攻める準備をしていると思われるところがアツい。

主人公のケーヴ氏の可哀想さは置いておいて(ほんと可哀想なの)、彼は何気なく手に入れた卵形の水晶が不思議な光を発していることに気が付いて覗き込むと、そこにはなにやら ”何か” が見える。それで夢中になってのぞいているとだんだんとはっきり見えるようになってくる。どうやらこの水晶と同じものが「向こう側」にもあって、二つの水晶がつながっていてその「どこかが」見えるらしい。そしてそれはこの地球ではないらしい。やがてその水晶から見える夜空に浮かぶ星が、地球から見える星座とおなじであることから、それが火星であることがわかる。

まだTVとかない時代だから。そういう時代に書かれたものだと思うとさらにアツい。

そしてその映像が、ブルーレイとか4Kとかそういうのじゃなくて、はっきりよく見えないところがまたアツい。

いやー、『宇宙戦争』も『水晶の卵』も、19世紀末の自動車もTVもない時代に書かれた古典SF。ノスタルジックで胸がアツくなる。

絶賛おすすめです(映画もいいけど活字で読んでほしい)。




『水晶の卵』は、このH・G・ウェルズ短編集『タイム・マシン』に収録されています。 

 

 

 

~痩せますよ~ 一日一食にして4年が経過したのでその報告とおすすめの本

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私は「なんちゃって一食主義」

mです。

聞きなれない方もいるかと思いますが、私は「なんちゃって一食主義」です。一日一食にして5年目に入りました。

 「主義というものはなんちゃってなどというファジーなものではないわ!」とお怒りの方もいらっしゃるとは思いますが、全然厳密ではないので「まあ一日一食」です。

① 仕事のある日(平日)は夜だけしか食べない
② でも職場でおやつを貰ったりすれば、ありがたく頂いて食べる
③ 休日は適当(基本は夜だけだけど、お腹がすいていて気が向けば食べる)
という感じで徹底はしていません。

きっかけは、職場にそういう人がいて、彼が「夜しか食べない。お米は食べない。どうしても食べたい時は、小さーいおにぎりをつくって1個だけ食べる」と言っていて、「え!」と驚いたのがきっかけです。そんなことがあるの?と。「なぜ?」と聞いてみたところ、彼の目的は「ダイエット」でした。昔は太っていたんだとか(今は痩せてます)。

その後すっかり忘れていましたが、ある時、私にしては珍しく「図書館」なるところに出かけていきました。普段、図書館は全く利用しないです(購入派です)。そしたらたまたま「一食主義系」の本が何冊も並んでいるコーナーを発見しました。

「こんな本が出てるんだ・・・しかも何冊も。そういえば〇〇さんが一食だって言ってたっけ」と思い出し、俄然興味が出て、その場で2冊ほど読んだ結果、目からウロコが落ちました。

読んで、なんか励まされましたねー。「なんだ、食べなくっていいんだ」と。
「超ラッキー」とさえ思いました。読んでてワクワクした。

だって、食費がかからないうえに、時間が節約できてずっと働けるんですよ!!(今は違うけど、4年前はやる気に満ちていた)。

そのうえ「健康になる」みたいなことが書いてある。
願ったり叶ったりじゃないですか!!。



「1冊購入してみよう。買うなら古典で」と考えて、ルイジ・コルナロさんの「無病法」を購入(コルナロさんは「一日二回、極小食」ですが)。

私はKindleで買いましたが、普通に本屋で売っている所も見ました。

ちなみに記事も書いてます。 

www.mlog1971.com

 
そして早速「一日一食。夜だけ」を開始。

たぶん私に「僕は夜しか食べない」と教えてくれた方は「栄養とかも考えた一日一食」をやっているのだと思いますが、私は「栄養とかをほとんど考えない一日一食」です。

コルナロさんは「何を食べてもいい」「質より量が大事、とにかく少なければいい」みたいなことが言っているので、特に食事の内容に気を遣うことなく、とにかく夜だけにしました。

フランスパン1.5cmくらいのを3枚、サラダ(普通にドレッシングあり)、スープ、目玉焼き、お肉系をちょっと、とか。

あるいは、ご飯軽く1膳、焼き魚、サラダ、おみそ汁、とか。


まあ、一食としては普通ですかね。でもそれまでは、夕飯にお米だけで1合くらい食べていたので、私にしてはすごく少ないです。
カロリーなどは全く気にせず、栄養も全く気にしていません。

とりあえず、みるみる痩せていきました。
53~5キロあったのが2か月もしないうちに47キロになってしまって、ちょっとびびって食べる量を増やしたりして。

でも、身体はなんともないし、疲れるという事もない。
一言で言えば「なんてことはなかった」です。

ノープロブレム。ただ痩せただけ。

 

健康に影響は?

今のところ無害です。

ただ私、病気らしい病気をしたことがなくて、いたって丈夫な性質なんですよね・・・だから、本にあるように「みるみる健康になった!」というような体験はありません。「悪くなってはいない」ということが言えるだけです。

とはいえ、世の中は「3食ちゃんと食べましょう」「栄養には気をつけましょう」とやたらと言ってくるので、最初は多少心配でした。

なので「一年後の職員検診の結果を見て、その後の事は考えよう」と思い、1年間つづけましたが、健診結果は全然問題なし。
なんなら改善してる項目があったくらい。

でも、まだ4年ですから。
今後どうなっていくかはわかりません。
一日一食を続けながら、自分の体の様子を見つつ、考えていきます。

「一日一食」のメリット・デメリット

一日一食を、「なんちゃって」であっても実践している私が、実際に実感しているメリット、デメリットをあげたいと思います。

【メリット】
① 朝はその分ゆっくり寝られる
② メニューを考えなくていい
③ その分、仕事ができる! ( ゚Д゚)オマエシャチクカヨ
④ お金がかからない
⑤ 眠くならない
⑥ むしろお腹がすかない
⑦ 栄養が足りないのかもしれないけど、取り過ぎると体に悪いものも減る(塩分とか)
⑧ 晩ご飯が楽しみになる
⑨ みるみる痩せていく(しかし下げ止まる)

など。ぱっと思いつくだけでもこれくらいある。ラッキー。


【デメリット】
・・・うーん。思い当たらない。
驚かれたり、変わってると思われることくらいかな。
痩せていったから心配されたかな。

たまに体調が悪いと一食のせいと思われるんだろうなーと思うこと。
でもそのくらいで、デメリットらしいものは今のところないです。

痩せますか

痩せます。食べないので。

最初は一日一食にする行為が新鮮だから、食べる量をほんとうに少なくしていたこともあるんですが、もともと53~55kgくらいをウロウロしていた体重が、みるみる2ヶ月くらいで47kgになりました。

体重って壁がありますよね。それが私の場合53kgで、そこまでは食事に気を付けるくらいで割とすぐに落ちるんですが、53kgからは一向に減らない。

これ以上体重を落としたかったら、運動するしかないな、という感じです(運動キライ)。

それが労せずして47kgに。さすがに46kg台に突入したときはさすがにビビッて食べる量を増やして、47kg~49kgくらいをキープするようにしました。

我慢しているか(ストレスはあるか)

すごく我慢してるんじゃないかと思われそう。でも全然そんなことないです。
たぶん向いていたんだと思う。

私、もともと朝は食べない習慣で、高校生の時にはもう、朝抜き、昼は菓子パン1個とコーヒー牛乳でした(毎日300円くらいもらってて、浮かしたお金で本を買っていた)。でも痩せてはいなかったです。ふつう?

仕事するようになってからも、朝はもちろん抜きで、コンビニで調理パン1つと菓子パン1つを買って仕事に行っていました。
でも今考えるとその理由は、ただ「みんなが食べるから」「食べるものと世の中がなっているから」「そういう習慣だから」「食べないという選択肢がなかったから」だけです。結構おざなりな感じ。


仕事中って割とずっと緊張しているから、味わって食べるとかいう精神的余裕がなかったです。

食べるのも遅いから、時間が少なかったりすると余計に焦っちゃって、食べ物がのどを通らないし、リラックスどころかプレッシャーを感じるくらい。

一生懸命お腹に入れて「ただカロリーを摂取しているだけ」の気分でした。


いつも一杯一杯なんでしょうね。ダメだって思われたくない、って思ってる(仕事に関しては)。というより、思ってた(今は思っていない)。

そういう具合だから、「なんだ、食べなくてもいいんじゃん。今まで騙されてた。」と思って、なんのストレスもなく一食化しました。

というわけで、全然ストレスに感じていません。習慣に縛られず、割と本能で食べている感じですね。自分との相談というか、対話というか(なんか恰好いい)。

ただ、連休が長いと太ります。
やっぱり暇だと食べちゃうんですよ。やることがないから。

暇が敵ですね。

不安だったこと

一日一食を開始した当初はみるみる痩せて行ったので、「このままいったら拒食症の人みたいになってしまうのでは」という不安がありました。

でも、まったくそうはなっていません。

拒食症はやっぱり、メンタルがやられているんだと思います。
そうではなく、精神的に健康であれば、拒食症の人のようにはならないと思います。


それに正直、そうひどくは痩せないですw コントロールできるから。

私の場合、甘いものを食べないようにしていると、みるみる46~47kgくらいにあっという間に落ちます。

でも私はそんなに痩せたいわけではないので、「やべ、これ以上痩せたくない」となって甘いものを食べ始める。
するとすぐに50kgくらいになる。

で、「あ、ちょっと調子に乗って甘いものを食べすぎちゃったな」と思って控えると、また47kgくらいになる。
これを繰り返しています。

私の場合、自分が47~48kgくらいだと気分がいいので、そこをベスト体重として目安にしています。

一食にしても「意外と平気だよ」と言っておきます。

まず「本を読むこと」をお勧めします

「一日一食」は一部で話題にもなっていますので、興味のある方はまず本を読むことをオススメします。

そういう人たちがいて、意外と平気ということは知っててもいいのかな、と思います。


読むと、「病気が治る」とかも書いてありますが、繰り返しになりますけど残念ながら私にはそこのところは証明することができません。

だけど、例えば透析とか、「やったらおしまい。もう後戻りできなくなる。それよりも食べないこと」を推奨していたりするのを読むと、「そうか、そういう選択肢もあるのか」と思いました。

だからもし私だったら、西洋医学で治療することももちろん検討するけど、本を出している医師のいる病院にもセカンド・オピニオンとして当たると思います。

一度は断食とかの方法を試して、それでダメだったら西洋医学を考えると思う。

「そういう選択肢もあるんだ」と思っていれば、少しは気が楽になるというもんです。

私も大概いろんなことを知らずに生きて来たし、いまも信じられないくらい色々なことを知らずに生きていますけど・・・
「知っている」「知識がある」「選択肢がある」っていうことの重要さを感じます(最近特に)。

おすすめの本 

「食べない系」の本は一日一食とかファスティング(断食)とか、色々な流派みたいなのがあって、本もたくさん出ていますが、たぶん3~4冊くらい読めば、まずは十分かな、と思います。

内容も難しくはありません。


【極小食系】 

ルイジ・コルナロ 「無病法」 こちらは古典すぎるので、最初に読むには昔の人すぎるかも。でも現代人がきちんと解説してくれているので、勉強になります。

 


☟ 記事も上げています。本の内容はこちらから。

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 【一日一食系】

このあたりは読みやすくて、種類もたくさん出ているので一例ですが、入門としておすすめです!

 

 



【全く食べない系】~上級者向け~


これはかなり上級者向け。普通に三食食べている人がいきなりこの本を読むと、胡散臭く思うかもしれません。ちょっと宗教とかスピリチュアル系の匂いがするので。

でもすでに「一日一食」の人は読んでみてもいいかも。

私は一食にして4年経過したころに読んだので、「案外いけるかも」と現実的に思いました。自分でも驚きです。

この本についてはそのうち感想文をあげるつもりです。

思い込みを捨てると楽になりますよ。

 



 

 

 

 

【関連記事】一食系の記事

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【本】ハインリッヒ・シュリーマン著「シュリーマン旅行記 清国・日本(1869)」シュリーマンのフラットな目線

シュリーマン旅行記 清国・日本 (講談社学術文庫 (1325))


題名 シュリーマン旅行記 清国・日本
作者 ハインリッヒ・シュリーマン
出版社 講談社学術文庫
出版年 1869年
出版国 フランス
ジャンル 旅行記、日本史、江戸時代、人物 
評価 ☆☆☆ 読む価値あり


トロイの遺跡を発掘したことで知られるシュリーマンが日本に来ていたことを今回初めて知って「あ、日本に来てましたか」と思い、10代の頃に「古代への情熱」を読んだことを思い出した。いたく感銘を受けた気がするが、その後すっかりシュリーマンの事を忘れていた。子供の頃は考古学に興味を持っていたのに、大人になったら失ってしまった。

シュリーマンはわずか1か月ほどしか日本に滞在していないにも関わらず、とても冷静かつ公平な目線で日本(横浜・江戸)のことを書き記していることに驚いた。シュリーマンの記述がどこまで正確かは私には分からないし、滞在期間も短いことや文化の違いから誤解もあるだろうが、あの時代の白人(キリスト教徒)たちの「有色人種完全植民地化計画」の真っただ中で、尊大さや優越感、差別意識が全く感じられないのは率直に感心した。見聞きしたものをただひたすら正確に描写しようとしているようで、「観察者の目線」っていうのかなあ。クール。クールだけど江戸の人々に対する視線には好感も感じられて、不愉快さゼロ。これはシュリーマンの人柄をしのばせて、好感度UP間違いないやつ。


1865年4月から清国(今の中国)から記述がはじまる。まず上海→天津→北京→万里の長城→上海へ戻って江戸に向かっている。


【清国編】
清国は当時すでに4億人を超えていたらしい。世界中で不潔な国を見てきたシュリーマンにとっても清国は特に汚かったようで、行く先々で不潔さについて筆を割いている。中でも天津はひと際汚かったんだとか。

辮髪(べんぱつ)と纏足(てんそく)のこと。女性の美しさは足の小ささが重要なので、纏足をしていて皆ヨロヨロとまともに歩くこともできない。

シナ人は賭け事が大好きで、どの通りにも賭博場がある。屋台で食べ物を買う時もくじ引きをして、当たればいくつも手に入り、負ければひとつももらえない。

 

紫禁城について。

『宮殿付きの第一位階の高官以外、何人もこの中へ入ることはできない。だが、この館は、宮殿というよりもむしろ、君主の牢獄と呼んだ方がふさわしいものなのである』

【本】 エドガー・アラン・ポー「黒猫・黄金虫」~ダークロマンの人~

黒猫・黄金虫 (新潮文庫)

題名 黒猫・黄金虫
作者 エドガー・アラン・ポー
出版年 1830年代~1840年代
出版国 アメリカ
ジャンル 短編集、推理、幻想
 

※ これはただの覚書。忘れてしまうので。

推理小説の開祖、かのエドガー・アラン・ポーの短編小説集。幻想小説系&推理小説系が収められている。

 

「黒猫」・・・子供の頃は優しく動物好きの慈悲深い性格だった主人公が、長じてからは酒のために(酒のせいにして?)性格が一変、残虐な性格になってしまう。まずは一番可愛がっていた黒猫を木につるし、罪悪感から飼い始めた別の黒猫を斧で殺そうとして誤って妻を殺し、その妻を壁に塗り込めて隠蔽するが、警官隊がやってきた時不思議な心理状態に置かれてベラベラと余計なことを口走り、そこへ壁の中から奇妙な声がし始めて警官隊が壁を崩すと、壁に塗り込められた妻の死体の頭の上に、主人公が死体と一緒に塗り込めた黒猫が目を光らせて座っていた、という話。


「アッシャー家の崩壊」・・・呪われた家系もの。古い由緒ある家系で、呪われた一族アッシャー家の最後の生き残りであるロデリック・アッシャーの元を、主人公である友人(私)が訪ねて数夜を共にする。ロデリックはすっかり死にとりつかれており、やはり病んでいる妹のマデリン嬢が死亡したために柩に入れて放置するが実はまだ死亡してはおらず、どうにか柩から出てきたマデリン嬢が血だらけで現れ断末魔の叫びととともに絶命する。思わず屋敷から逃げ出す主人公の背後で、満月の凄まじい月明かりの中アッシャー家の大きな屋敷が崩れ、跡形もなく沼に飲み込まれてしまう。


「ウィリアム・ウィルソン」・・・二重人格もののはしりか。主人公は金持ちの子息で、傲慢で我が儘な悪い性質の持ち主であるが、同姓同名で誕生日までが一緒の同級生がおり、その自分そっくりのもう一人のウィリアムが自分を嘲笑っているかのように思われて子供の頃から頭を悩まされていた。オックスフォードの学生となった主人公の邪悪さはあからさまとなりつつあったが、そこへもう一人のウィリアムが現れ主人公の悪行を暴露する。その時もう一人のウィリアムは、実は自分自身であったことを自覚する。


「メールストロムの旋禍」・・・「私」が「老人」から彼の恐怖体験を聞く。彼は、自分の頭が真っ白で老人に見えるだろうが実は決してそうではなく、ある恐ろしい出来事に見舞われたために一夜にして総白髪となってしまったと語る。その出来事とは、兄とともに船で海へ出た際、巨大な大旋禍(メールシュトローム)に見舞われたことであった。命からがら自分は助かった、その出来事を語る。


「黄金虫」・・・暗号解読物の草分け的作品。語り手の友人ルグラン君は、ある日黄金色に輝く虫を手に入れる。その虫の背中には黒い模様が書いてあり、さらに別のところで手に入れた羊皮紙は、偶然熱にさらされたために文字が現れてくる。この暗号と黄金虫がキャプテン・キッドの財宝のありかを示すものであると気づいたルグラン君は、語り手と黒人の召使ジュピターを伴い財宝を探し当て、そこに至った推理を明かすのでった。


【本】「アーブル美術館 大贋作展」 ~むしろこちらを飾りたい

 
題名 アーブル美術館 大贋作展
作者 アーブル美術館
出版社 ユナイテッドヴァガボンズ
出版年 2015年
出版国 日本
ジャンル 美術


ひょんなことで手に入れた、アーブル美術館展のカタログ(でいいのかな)。画集なのかな。
 
もう一目ぼれでした。
 
2015年に開催されたらしいのですが、私は情報弱者なので知らなくて・・・知っていたらなあ。ぜひ行きたかったなあ。
 
どうやら、お母さん(アーブルさん)と子ども二人の三人組によるアート制作集団らしいです。
 
お母さん指導の元、二人の子供たちが世界の名画を模写して、「贋作」として発表しているんだけど、この出来が目を見張るほど素晴らしいのです。
 
もし知らなない人がいたら、「ぜひ知ってもらいたい!」と、強く思う。
 
「贋作」って言っちゃうあたりもユーモアがあるし、知的。皮肉すら感じれらる。お母さん自分で言ってて「にやっ」みたいな。
 
とにかく理屈はいらない。見てもらえればその素晴らしさがすぐに分かる。
 
きっと、嬉しい気持ち、楽しい気持ち、わくわくする気持ちになること請け合いです。
この作品集でとりあげられている絵画たちは、ライトな美術ファンでも「知ってる!」「見たことある!」となるであろう、有名な作品ばかり。中学や高校の美術の教科書に必ず載っているような、初心者でも安心のチョイスです。
 
そして・・・もう笑っちゃうくらい味わい深い。にやにやする。
 
なんか、ずっと見ていると本物がどんなんだったか分からなくなってきて、「元々これ・・・なんじゃない?」と思っちゃう。
 
キャンバスも、段ボールとかお米の袋とかを使用しているそうで、その凸凹感もぬくもりがある。
 
そして、カタログの最後に載っている、各贋作に関するアーブルさんの解説がまた興味深い。制作の背景や想いを、短く、だけど丁寧に綴っているのですが、親と子の関係や子供の教育といったものさえ考えさせられる、すばらしい名文です。
 
どこかの美術展とかに行って、名画のレプリカを買って部屋に飾るくらいなら、私はこちらをもう一冊購入して、バラして額に入れて飾りたい。これを飾りたいよー。
 
もう一冊買うか。でも額がいい大きさのがあるかな。
 
すでに中古でしか手に入らないから、金額はややお高いですが(現在4000円~1万円くらい)、その価値があると思うなあ。
 
クラシックCDのジャケ写とか、カレンダーが毎年出ているみたいなので、魅力を伝えるためにいくつかリンクを貼っておきます。
 
ぜひ、みなさんもアーブル美術館のとりこになって頂きたいです。
 
きっと、このわくわく、にやにやを誰かに伝えたくなると思いますよー。


 
【補足】アーブルさんは「アーブル美術館の、ひ・み・つ」というブログをやっていて、活動報告を随時おこなっているみたい。そちらもおすすめです。
 
 

【本】 ルイジ・コルナロ「無病法」~極小食主義~ 食べない系の人たち

 無病法

 

題名 無病法
作者 ルイジ・コルナロ
出版社 PHP研究所
出版年 不明
出版国 イタリア
ジャンル 健康

 

 (節食の大切さに気付いている人たちにしても)
「我慢して長く生きるより、短くても好きなように生きる方が良い」などと言い訳している。食欲を律すると、いかに幸福な生活を送ることができるのかを、かれらは知らないのだ」
 引用:ルイジ・コルナロ「無病法」

 


どうやら世の中には「食べない系の人たち」がいて、おおざっぱに分類すると3パターンぽい。
① 超小食の人
② 一日一食の人
③ 全く食べない人(水も食べ物も一切摂らないらしい)


私は「一日一食」だけど、コルナロは「一日一食」ではなく「一日二回、極小食」の人。


本書はコルナロが書いた小冊子(パンフレット)に、翻訳者の中倉玄喜氏が現代の最新情報をたくさん交えて大幅に加筆、補足し、コルナロの正当性を補強した構成。「講話」と題された4篇がコルナロさんの筆。

コルナロは15世紀半ばから16世紀半ばに生きたルネッサンス時代の人で、ヴェネツイア共和国出身。その家柄は4人の国家元首やキプロスの女王を出すほどのいいとこの出らしく、同時代にはレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロがいて、コルナロは彼らよりも有名人だったそう。享年102歳。

コルナロは貴族だから有名で当たり前、二人はただの雇われ画家ですからね。当然でしょう。

いいとこのボンボンにありがちな、若い時に親の財産で放蕩しすぎて体を壊し、45歳で医者に「死ぬよ」と脅かされてから「極小食」にした結果「超健康」になり、「102歳まで超健康で快活、そして長生きした」という体験談、極小食の勧めです。年を取っても元気いっぱい、死ぬ時も「午睡をするように」死んでいったと。

一度、周りにいろいろ言われたのでわずかに食事の量を増やしたら、病気がぶり返した、と書いてある。

乗っていた馬車が転倒して、かなりの距離を引きずられて全身打撲や傷を負った時も、特別な処置はせずに固定程度で完治したとも書いてある。それは「極小食」だからなせる技だと。


本によると、コルナロが実際に食べていたものは「パン」「卵の黄身」「少しの肉」「スープ」 を合計約350g、ワイン400cc。
これを2回に分けて摂っていたとのこと。すると1回の食事が175g+200ccのワインになる。

子どもの茶碗一杯のご飯が100g(一合が350gらしいので3分の1以下)。コンビニのおにぎり1個が110g。マクドナルドのハンバーガーが109g。卵の黄身は20g。インスタントのカップスープ1杯が200g(具にもよるが)。

すると、コンビニおにぎり半分で55g、カップみそ汁は半分で100g、卵の黄身20gで・・・もう175gだ! 「少しの肉」の入る余地がない! カップみそ汁を1/3にするか? いや、コルナロさんは「パン」だから、食パン6枚切り1枚が63gらしいから、おにぎり半分の代わりに食パン半分にしよう。

【結論】食パン6枚切り半分 31g、カップスープ半分100g、卵の黄身20g、焼肉一切れ15gだから1~2枚か。それを1日2回。

うん、確かに少ない。

だけどコルナロは、350gとかその種類とかは、コルナロにとってそれが一番良いのだと言っていて、みんなも350gにしましょうとは言っていない。自分で自分に合った食べ物をよく見極めましょう。そしてその食べ物を「できるだけ少なく」摂取することが最も重要、と言っている。

「質よりも量の制限が大事」と。
できるだけ、できるだけ少なく、体が必要とする最小限を狙う感じ。



もしかするとコルナロが書いている部分は、いわゆる体験談でしかないのかもしれない。
それに、コルナロはすごく楽観的なのか、自画自賛の無邪気ぶりがすごくて、

 

なんの助けもなく馬に乗ることが出来るし、階段はいうまでもなく、山にもやすやすと昇ることができる。気分はいつも陽気で、心が曇るようなことは一時もない。生への倦怠や生活の疲労など、私にはまったく無縁である。一日の内かなりの時間を見識ゆたかな人びととの間の楽しい会話で過ごし、それ以外のときには、良書を友としている。そして読書を味わった後は、ペンをとっている。執筆こそ世の中にもっとも役に立つことだと思っているからである。
 以上のようなことを、私は高貴な都市パドヴァのもっとも美しい地区にある快適な邸宅において行っているのである。ちなみに、私はこの邸宅のほかに、自分が造った庭園をいくつか持っているが、そのひとつ一つには小川が流れていて・・・(略)。         

「同、講話(一)より」

眠りも快適である。どこであろうとすぐに熟眠でき、しかも見る夢はすべてどれも楽しいものばかりだ。  

「同、講話(一)より」

 私の声は人生で今が一番大きく、非常に朗々としている。
「同、講話(一)より」

 私の声はたいへん力強く、また非常に甘美です。
「同、講話(三)より」 

 私は、自分の死について、このような平和な臨終を確信しています
「同、講話(三)より」

 

80代で、一事が万事、こういう感じ。ゼロか100。ぐいぐいアピールしてきて、さすがイタリア人。日本人とは違うなあ。言いきっていて全然ブレない。

でもこのキャラクターが、「かわいいけど、ちょっと大げさかも」という気が、しなくもない。

だって、コルナロは若い頃の不摂生で「生きる望みを絶たれるほど」とか言ってる割には、書いてある自覚症状がしょぼいんだよね。「胃、痛風、微熱、のどの渇き」くらいしか書いていない。

まあご愛嬌ということで、「無邪気だなあww うらやましい」って思って読んだけど、実際、コルナロの講話だけで構成されて出版されていたら、何度も読み直そうとは思わないかも。やっぱりエビデンスがないんだよね。


そこで活躍するのが現代の客観的データを担った解説部分。かなり具体的だし、読みごたえがある。

科学的根拠や、過去の偉人の同様の発言などを引用して、コルナロさんの「極小食」という選択が、人間の体にとっては最善である証拠をいろいろと並べて紹介してくれる。

例えば、消化に関わる問題として、

 「消化には莫大なエネルギーが必要である。つまり、消化は内臓にとって大きなストレスなのだ。そのため、内臓の休息に必要な睡眠時間は、およそ食べる量と回数とに比例する。

「同、解説(一)より」

 

これは実感として分かる。私が「一日一食」にしたばかりの頃は、なんか嬉しくってかなり量を減らしていたのだが、食べると心臓の鼓動が早くなって「ドキドキドキドキ」してるのを感じて、「超負担かけてる!」って思った。


砂糖は、食べると「胃が止まる」らしい。

それで私は、「お腹がすいているときに少しだけ食べると逆に強い空腹感を感じるけど、甘いものを食べた時って空腹感がなくなる。それは満腹感とかじゃなくて、胃が止まってるだけなんじゃないの?」って理解した(間違ってるかもしれないけど)。

あと興味深かったのは、太平洋戦争で長崎に原爆が落ちた時、現地の医者が「砂糖は厳禁。放射能には塩がいい。玄米にたくさん塩をつけてむすべ。塩辛い味噌汁を作って食べさせろ。砂糖は絶対にダメ」と言って実行させ、自分の病院の職員から一人も犠牲者を出さなかった、というくだり。

極小食とはテーマは違うけど、これはこれで印象深いエピソードだ。

これは欧米でも知られることになって、チェルノブイリ原発事故の時には日本から援助物資として味噌が送られたらしい。知らなかった。


こういった解説部分がコルナロの生き方の正しさを裏付け、コルナロの生き方が、解説部分の正しさを裏付けるというすばらしい相乗効果。

とはいえ、解説部分だけで構成されていても、人間性に欠けるから、心に響いてはこないだろう。なんかお勉強している感じがしてしまう気がする。

やっぱり、コルナロさんのキャラは親しみやすい。

それに「極小食でも、いや極小食だからこそ、健康で活発なまま長寿を達成した実践者である」という事実が重要なのだと思う。



私が自然と一日一食になって間もなく4年になるけど、やっぱり気が付くと徐々に量が増えてしまっていたりする。だから時々、2年置きくらいには読み返そう。 

 




 

 

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【本】 アイラ・レヴィン「死の接吻(1953)」~すべてがずり落ちてゆく~ これも映画化できない系 



題名 死の接吻
作者 アイラ・レヴィン
出版社 ハヤカワ・ミステリ文庫 
出版年 1953年
制作国 アメリカ
ジャンル 小説、ミステリー

 

以前とりあげたアイリッシュの『幻の女』と同様、「映画化できない系」の作品(されてるけど。2回も)。

ドロシイ、エレン、マリオンの3姉妹と、彼女たちを狙う「逆玉サイコ野郎」の話。全部で三部に分かれていて、第一部が「ドロシイ」、第二部が「エレン」、第三部が「マリオン」と、主人公のターゲットになる三姉妹の名前が付けられている。


主人公は若くてハンサム、女にモテて、頭もいい。彼は貧しい生い立ちと複雑な家庭、第二次世界大戦での日本兵との対決などを経て、野心家へと成長する。成り上がる事しか頭にないが、自分の実力ではなく、金持ちの娘をモノにして金や地位を一挙に手に入れようと画策する。

最初の標的は、製銅会社社長の娘ドロシイ。彼にぞっこんの彼女は、彼が自分の家の財産目当てとは思いもしない。そのうえ彼女は19歳の学生の身でありながら、彼の子供を妊娠してしまう。結婚を望むドロシイだが、主人公は望まない。このままでは彼女の父親に逆鱗に触れて、自分の野心が叶わないと考え、甘言を弄してなんとか堕胎させようとする。そして失敗したと知るや、彼女の殺害を実行。ドロシイ相手の玉の輿に失敗した彼は、次にドロシイの姉エレンをターゲットにする。



アイラ・レヴィンの処女作。アイラ・レヴィンは結構好きでいくつか読んでるけど、寡作なのに駄作が少ない(ひとつ「やっちまった」のがある)。

この作品の面白さは、後半に至るまで犯人が誰なのかが分からないところ。

推理小説やミステリーは、犯人が最後まで分からないの当たり前じゃん?って、思いますよね。

そうなんですけど、この作品の場合、作者は最初の「ドロシイ」の時は主人公目線(倒叙法)で書いていて、しかも三人称の「彼」「彼女」の使い分けで小説を書き進めていくんです。ドロシイの方は主人公が名前を呼ぶから「ああドロシイっていう名前なんだな」って分かるけど、ドロシイは「あなた」とか言って、主人公を名前で呼ばないわけ。だから読者は「主人公なのに『僕』が誰だか分からない」という仕組みになってる。しかもほとんどその二人しか出てこなくて、他の登場人物がほとんどいない。

そして第二部の「エレン」では、第一部が主人公視点だったのに、急にエレン視点に代わり、男性が3人出てくる。しかも「彼」「彼女」の書き方をやめて、固有名詞で登場人物たちを描き始める。「エレンが・・・」「✖✖は・・・」って。

読み始めは主役が犯人だから、感情移入・・・はしないかもしれないけど、犯人目線で読み始めるでしょう。ところが第二部ではその犯人がどっかに行っちゃう。もちろん出てきてるんだけど、どれが彼だか分からないんですよー。良く出来てるなあと思った。こんなことが出来るのは小説だからこそ。

そして最後に訪れる主人公の運命。序盤に出てくる伏線が生きて、なんとも・・・悲しい。

ばかなやつ(哀)。

主人公は本当にクズなんですよ。人の命なんてなんとも思ってない。ドロシーにした仕打ち見た?(見てないです。読みましたけど)
あれだけのことをしていても何とも思ってない。もうゼロ。反省はおろか、感傷に浸る事すらない。悪魔ってこういう感じかなと思う。

だけど、作者の筆力なのかなあ、わびさびすら感じられる。こんなにクズなのに、最後は同情するっていうか、なんか・・・抱きしめたい気持ちにすらなる。

こういう時、「作家ってすごい」って思う。

みなさんはどうでしたか?(まだちょっと下につづく)





一度読み終わって、もう一度最初の方に戻って「僕」の生い立ちを読み返すと、あらたな感情が起こって興味深い。レヴィンはすごくさりげなく書いてるけど、お母さんが「僕」をそういうふうにミスリードしている感じがあるし、「僕」はお母さんの期待に応えてるふしがある(マザコンとかじゃなくて。なんでもかんでもすぐに「マザコン」とかって単純化するの、雑すぎて嫌い)。中年女との交際のあとで故郷に帰っていくとき、色々質屋に入れたりしている描写とかを読み返すとなんだか・・・やっぱり・・・可哀想なやつ(哀)。  



映画はこちら ⤵  

 

 

 

【本】 エドモン・アロークール「原人ダアア(1914)」~空想科学小説の異色作~【絶版】

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題名 原人ダアア
作者 エドモン・アロークール
出版社 潮文社
出版年 1914年
出版国 フランス
ジャンル 小説、空想科学、絶版 
 
 
これは当たり。とても興味深く、心に残る作品。こういう本は今まであまり読んだことがないように思う。

空想科学小説の一形態で、人類の進化がテーマ。手法は神のごとき作者が、ある原人夫婦の行動を観察し、彼らの感情や思考を想像するという描き方。原始の人類の進化を、ひとりの原人ダアアの体験としてぎゅっとまとめる、という描き方をとっている。

すでに絶版なので、詳しめにあらすじを書いておく。


****** あらすじ ******
原人ダアアは物心ついた時から単身で生き延びてきた。自分よりも大きく強い猛獣とも互角に戦って食料にし、自分に対して強いうぬぼれや自尊心を持っている。しかし孤独であった。言葉は持たず、愛も知らず、まだ知恵と呼べるほど脳は発達していない。

ある時、ひとりの女の原人と出会う。二人は共に生きることになり、「ダアア」「オック」と呼び合うようになる。なんとなく名前がついたのだ。

やがて彼女は子供を身ごもり出産するが、ダアアはそれがなにでどういうことなのか分からず、空腹のダアアはその子を食べようとしたりする。初めての子は失ってしまうが、次々と子供が生まれ、ダアアは別の種族の女とも交わるようになり、彼女は「タア」と呼ばれるようになる。

ダアアとオック、タアは三人で(+次々生まれる子供も)集団生活を営むようになり、ダアアは大家族を養っていることに満足する。

西へ西へとヨーロッパ大陸をひたすら歩き続けながら、家族は増えたり死んだりするが、ダアアは特に感慨にふけることもない。

旅の途中で彼らは棍棒を発明したり、子供を背負う革袋を発明したり、僅かずつではあるが進化の兆しのようなものが見えてくる。

やがて西のどんづまりにやってきて、彼らは初めて海を見、魚を食べる。燦々と降り注ぐ太陽を発見。タアは寿命が近づいており、弱った体を温めてくれる太陽に宗教心のような感情を持つ。すぐに雪が降り始め、彼らは初めての雪に驚く。氷河期が始まろうとしていたのだ。元の森へ戻ろうとする一行だが、タアは動けない。死期を悟るタア。その時オックがタアに対して憐憫とも愛情とも言える感情を現す。ダアアも今までにない感情を覚え、一生懸命過去を思い出し、思いだせるとそれが楽しい思い出ばかりで笑う。

一行はタアを置いて、元いた森へ旅立つ。タアはしゃがみ、両膝を両腕で抱えて彼らを見送る。タアはもう二度と人間を見ることはない。

やがてダアアは初めての地震と山火事にあい、火を発見する。そこでダアアは力尽き息絶え、ダアアを置いて更なる旅に出る子供たちにオックはついていかず、ダアアの亡骸のそばに身を横たえる。
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私はオックとタアの方に感情移入して読んだ。特にタアの最期、宗教心の発見と死の発見、それから死を受け入れていくくだりが感動的で印象に残った。時間をあけて再読したい。