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女一匹50代、ひとりもんの暮らしなんてこんなもん

【本】星新一著「ようこそ地球さん」(新2) 初期の名作、傑作集 part2



題名 ようこそ地球さん
作者 星新一
表紙・挿絵 真鍋博
出版社 新潮文庫
出版年 1972年 
出版国 日本
ジャンル SF、ショートショート



*星新一自身によるあとがきによれば、すごく初期の単行本『人造美人』『ようこそ地球さん』の中から星新一自身が選んで文庫化したのが、先に出版されている『ボッコちゃん』。その『ボッコちゃん』に入らなかったもの+他の短編で構成されたのが、この文庫版『ようこそ地球さん』らしい。

*星新一の作品の中でもかなり昔の作品が詰まっていて、初期の名作、傑作集になっている。

*今回も挿絵は真鍋博。


 
全42篇。特に心に残った作品は5篇。その覚書。


 


『愛の鍵』(4ページ)

星新一には珍しいラブロマンスのひとつ。ドアや金庫などのあらゆる鍵が、自分が決めた「合言葉」によって開く世の中。ある男女が些細なことで喧嘩別れしてしまうが、その合言葉によって仲直りできるほっこりと可愛らしい小品。


『小さな十字架』(6ページ)

作品の出来がどうのこうのというよりも、時事風俗を排除した作風の星新一にしてはとても珍しい、「戦前戦後」という時代設定がされている作品。さらに「ですます調」で書かれているのも珍しい。舞台は戦前、戦中、戦後を経て、主人公が外国から持ち帰った十字架が主人公の再起に役立ち、さらには貧しい少女をも救う。最後キリスト教色が強い一文で終わるが、それも星新一にしては珍しい。珍しいづくしのレアな一作。
 
 

『開拓者たち』(9ページ)

人類が移住したはるか遠くの開拓星。作物などを育てるすべを失った人々は人工食料ばかりを食べて数世代が経ち、謎の病気が蔓延していた。死を防ぐ手立ては天然の食料を食べることだけ。人々は ”唯一の天然食料” を子供たちに与えて生き延びていたが、世代を重ねるごとに効果が薄まり、人々は焦っていた。そこへ地球から7人の乗組員がやってくる・・・という話。結構ブラックというかディストピア感のある、わりと絶望的な作品。

 

『最後の事業』(9ページ)

地球。人口が増え、あまりのうるささに嫌気がさした大企業の重役たちは、人工冬眠の技術を開発し、静かであろうと思われる未来へ向けて眠りにつく。ところがそれが事業として大成功。人々は次々と人工冬眠に入り、値段も下がり、誰もかれもが人工冬眠に入り・・・最後の一人になった時、宇宙人がやってくる。

 


『殉教』(21ページ)

ある男が死者と会話できる機械を発明する。呼び出された死者たちは口々に「こっちはいいところだ」と皆が言う。生きているより死んだ方がいいらしいとなった途端、人々は皆あの手この手で命を絶っていく。最後に男女二人が残る。後半までカラッとした文体で話が進むが、最後の最後でガラッと雰囲気が変わり、物悲しい感じになるところが ”わびさび” というか、「吾輩は猫である」の終わり方的なというか、チェスの後半に盤面がさみしくなっていく感じというか、とにかくさみしい感じで良かった。



*全体的に割と寂しげというか、ディストピアっぽい作品が目立った一冊だった気がする。
 

 

 

 

参考:星新一サイト

www.hoshishinichi.com




【関連記事】星新一ワールド

www.mlog1971.com

 

 

【本】ビュルガー編「ほらふき男爵の冒険」 暇つぶしに古典をどうぞ【笑えます】



題名 ほらふき男爵の冒険
作者 ビュルガー
出版社 岩波文庫ほか
種別 本
媒体 紙
ジャンル ファンタジー、冒険、古典、文学、英国、ドイツ

 



① どんな本か簡単に紹介しますゾ

古典というと、「古典かあ。興味はあるけど時代性がよく分からないし、文体とかも馴染みがないし、分かりにくくて難しく感じるからなあ。めんどくさい」と思うもの。大学でレポートを書くとかいう特別な目的があるとか、よほどの本好きとかでないと、とても読もうなんて気にはならない。敷居が高い!

でも! これは大丈夫!!

言わずと知れた超有名なミュンヒハウゼン男爵が、ほらに次ぐほらを吹かしまくる。途中で男爵の「極めて真面目な父親」というのも出てくるがこれがまたとんだほら吹きだし、男爵の従者の話も差し込まれてるけどこの従者までもがほらを吹くという有様で、とにかく最初から最後までほら話がこれでもか。

翻訳も振るっていて、男爵の話しぶりは「ワガハイ、~であります」「~ですナ」「~でありまずゾ」といった具合でまあ軽いこと、軽いこと。

ほら話というものは軽いに決まってると思うかもしれないが、重たいほら話というのも実はある(怪談とか)。あるけれどもやはり「ほら話」と聞けば「あはははは」と笑える話を想像するわけで、重たいほら話では笑えない。ほら話は笑えなければならない、というわけで、ほら話は軽めのタッチであるに決まってるのでありますゾ(おっと、うつった)。

あとがきによると原題は『ミュンヒハウゼン男爵の奇想天外な水路陸路の旅と遠征、愉快な冒険』というものらしいが、本の内容はまさしくその通り。題名に偽りはない。


とはいえ、古典の名作だけあってもの凄くたくさんの出版社から出ている。私が持っているのは岩波文庫版(上記写真の表紙)。出版社ごとに翻訳者が違うので、この記事はお持ちの本によっては趣が違うかも。この記事はあくまでも岩波文庫版をベースにしていることをご了承いただきたい。



② 中のエピソードの一部はこんな感じですゾ

本書の構成は、小さな小さな小話が延々と続くのだが、ミュンヒハウゼン男爵の話しぶりが旨いせいか、物語としてそれなりにつながっているからか、割と読みやすいし世界に入りやすい。

有名な挿話も多いから、知ってるものもたくさんあると思うけど、


ミュンヒハウゼン男爵曰く、

雪の中で、尖った木の先に馬を繋いで一晩寝たら、雪が溶けてはるか頭上高く、教会の塔の尖端に馬がぶら下がっていた、とか、

馬橇(そり)で走っていたら狼に襲われて、「ウマがウマくやってくんないかな」とか思っていたら、狼が自分を飛び越えてウマの尻から食べはじめて、それでもウマが走り続けていたら、そのうち狼がウマを食べ終わってウマい具合に馬具が狼にスッポリはまって、そのまま狼橇(そり)として走り続けただとか、

野ガモ猟に行った時、銃の発火装置がうまく作動しなかったので、自分の目を拳でガツンとぶん殴って、目から出た火花でうまく着火させて野ガモをたくさん仕留めた、とか、

ベーコンの塊を糸で結んで野ガモに食わせたら、お尻からベーコンがつるんと出てきて、そのベーコンを別の野ガモが食べ、またお尻からつるんと・・・で結局野ガモが数珠繋ぎになったのでぐるぐるお腹に巻いていたら、野ガモが飛んじゃったのでうまくカモを操縦して家に帰っただとか、

鹿の眉間にさくらんぼの種を撃ち込んだら、1年後に再会したその鹿の眉間に木が生えてさくらんぼが実ってた、とか

熊退治の時、火打石しか持ってなくて、口と尻にめがけて投げたらうまく入って、お腹の中でカチンとぶつかって火花が出て熊が爆死した、とか

背中にも四本脚が生えているウサギがいて、逃げ疲れるとくるっと回転して背中の方の脚を使い、また疲れるとくるっと回ってお腹の方の足を使い、つかれたらまたくるっとなって、延々と逃げ続けるウサギの話とか、

馬に股がり水を飲ませていたら、その馬がまあ飲むこと飲むこと、あんまり飲むので後ろを振り返ったら馬の胴体の後ろ半分がなくって、飲む先から水がドバドバ流れていた、と。で、後ろ半分をさがしたら、なんと雌馬と ”いいこと” をしていた。そりゃあ、頭はいらないよね、とか。

そういう話が延々とw いやあイマジネーションですナ。



もちろん有名な家来五人衆もでてくる。

1.あまりに足が速すぎて、スピードをコントロールしようと両足に鉛の玉をつけている韋駄天男。
2.草が生える音まで聴こえる地獄耳男。
3.遠すぎて見えない雀を撃ち落とすほど恐ろしく目がいい、射撃の名人の鉄砲男。
4.森全体の木を一度に引き抜く怪力男。
5.鼻息で7基の風車をぐるぐる回すカゼ吹き男。

の五人。

でも・・・そんなに言うほど活躍していたわけではなかったですナ。思ったほど出てこない。

特に射撃名人とか風吹き男とかは地味に感じましたゾ。もっとこの五人にフィーチャーして、「ミュンヒハウゼン男爵と五人の家来」みたいな感じでたくさん外伝をつくってもいいかもしれませんナ。



③ ミュンヒハウゼン男爵は実在の人なのでありますゾ

実在なだけでなく、注目を集めるために病気を装ったり、自分を傷つけたりする行為を「ミュンヒハウゼン症候群」というけれど、これもこのミュンヒハウゼン男爵からとられておりますゾ。


このほら男爵であらせられるミュンヒハウゼン男爵は実在の人物で、1700年代に生きたプロイセンの貴族だった。とは言っても男爵クラスで、しかも5番目の子ということで、もっと偉い貴族のロシア帝国の大元帥ブラウンシュヴァイク公子アントン・ウルリヒに15歳で仕えはじめる。下級貴族はそうやって、見聞を広めたりしていたらしい。羨ましい話だ。

それでそのままロシア軍の騎兵少尉に就任して、30歳で大尉になって、その後妻と共にプロイセンに帰ってそのままロシアには戻らなかったそう。なので34歳くらいの時にロシア軍からは除籍されている。

その後は77歳で死ぬまで地元で生活していたが、話し好きでお客を呼んでは自分で創作した話を聞かせるという優雅な生活で、話もすごく面白かったらしい。

で、その話を聞いた人の一人がミュンヒハウゼン男爵に内緒で話をまとめて、こっそり出版してしまった。それを知ったミュンヒハウゼン男爵は、怒りのあまり憤死したんだとか。

その後、大幅に加筆された英語版がイギリスで出版されて有名になり、あらためてドイツに逆輸入されるという経緯だったらしい。


以上、主にWikipediaによる ☟参照

ja.wikipedia.org




私は「憤死した」は信じないけど、実際怒ったんだろうね。でもまさか自分がこのような形で有名になるとは思わなかっただろうし、有名になり方も「ほら吹き人類代表」っていうのは、実際どういう気持ちになるもんかしら。

でもまあ、悪くはないな。みんなを面白がらせて楽しませて笑わせて、その嘘も罪のないものばかり。愛されてるんだから悪くない悪くない。



④ 映画化もたくさんされておりますゾ

というわけで世界中に愛されたミュンヒハウゼン男爵の物語は、あちらこちらに引用されているだけでなく、子供向けも含めてたくさんの版が出ている。

映画にも何度かされていて、なんとあのカレル・ゼマンも映画化していた。知らなかったー。私、ゼマンのファンなので・・・今度買っちゃうかも(ボーナスとかで)。

おまけにあの『飛ぶ教室』のエーリッヒ・ケストナーが脚本で参加した版もあるらしい。これが「ほら男爵」映画化の初映画化作品なのだとか。見たいなあ。しかしこれに関してはどうやら手に入りそうにない。AmazonではDVDは売ってないし、VHS版も入荷見込みなし。くうう。残念。

でも、80年代にあのテリー・ギリアムが映画化した版の『バロン(1988)』は持ってるので、近日記事にする予定。


ま、映画はともかくとして、本の方は終始軽く読めるし、エピソードの羅列だから、「なんだったっけ、忘れちゃった」などとストーリーや登場人物を忘れちゃって前に戻って読み直す、いう必要もないので、通勤や通学の電車の中とかで読むのにうってつけ。

おススメです。


 

 

☝ この私が持っている岩波文庫版は、版が重ねられていないみたいで古本扱いのよう。

 

☟ ほかの出版社の方が手に入りやすそうだけど、訳者が違うのでご注意を。この記事とは雰囲気が違うかもしれません。

 

 



【関連記事】 映画化作品はこちら

www.mlog1971.com

 

 

【一日一食】 で、結局痩せるのか、痩せないのか【経験談】

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① どうでもいいご挨拶と、私は痩せたという話

mです。

私は一応、基本的には夕飯しか食べない、一日一食実践者です。一日一食にするようになって、5年以上が経ちました。

そんな中、たまたま「超古い映画感想ブログ」を立ち上げるという自分でもシンジランナイ行動に出たのですが、映画を観て感想を書くという行為はなかなか大変でですね・・・記事数稼ぎに苦し紛れに書いた「一日一食記事」が当ブログ的には大ヒット記事になりまして、オドロキと共に「ほほう」と興味深く捉えているわけです(あくまでも当ブログ比です)。

 

www.mlog1971.com

 


この記事が、なんだか分からないけどそこそこアクセスを稼ぎ出していることに気が付いた私は、「なぜだろう」と思いました。

そして思う。

大した考えもなしに、ただなんとなくつけた「痩せますよ」が、偶然にもSEOというやつに合致していたのではないかと。

一日一食に反応しているというよりは、「痩せる」という文言にみなが引き寄せられているのでは、と。



そこで他の方が書いている「一日一食系の記事」を読んでみると(あるいは題名を眺めていると)、「痩せない」という主張がいくつも見られることに気が付きました。

私は「痩せる」と言っているのに、「痩せない」あるいは「太る」と言っている人たちがいる!! 
\(゜ロ\)(/ロ゜)/アタフタ


これは由々しき問題です。

だって私は嘘を書いてはいないのです。

だってだって(必死かw)一日一食にする前は、161cmで55kgを中心に行ったり来たりしていたのが、今現在は50kgを超えることはないのですよ。今は大体47kgから50kgの間を行ったり来たりしています。

これは一食にする前、53kgから57kgを推移していたことを考えれば、6~7kgほどは痩せていることになります。

それもそれほどの期間を経ず、2か月もしたころには46kg台に突入してしまって、「みるみる痩せた」という印象です。それこそ職場でまわりが心配するほど。自分でもびっくりして「怖い」と思って、慌てて食べる量を増やし、それ以上痩せないようにしているくらいです。

ただこれに関しては記録していなかったので証明はできません。まさかブログを立ち上げたり、一日一食の記事を書く未来が待っているなんて、思いもしなかったものですから(ザンネン無念)。



② 一日一食は「痩せない」あるいは「太る」という意見に思うこと

ところで、一日一食にしても「痩せない」あるいは「むしろ太る」「リバウンドする」などと書いている記事を読んで、私はあるひとつの違和感を感じました。

このような記事を書く方々は、どうやら「一日一食」を「ダイエットの手段」として考え、実践しているのだなあ、という違和感です。


そして、おそらくダイエットを目的としているためと思われますが、ある一定の期間だけ一日一食にして、痩せたらまた元の三食生活に戻ろうと考えているようです。

それから一日一食にしてはいるものの、その一食で大量のカロリーを摂取していたりしている様子もうかがえます。


私の経験から言って、確かにそれだと痩せないと思います。

まず、一日一食は「腹八分目」が上限です。もっと言えば「腹五分目」でもいいくらいで、そんなにたくさん食べていたら、あるいはカロリーが高いものばかり食べていたら、一食だろうがなんだろうが太ります。

そして一定期間だけ一食にして、その期間が終わったら三食にする、みたいな感覚だと、太りやすくなるかどうかは分からないですが、太るだろうなと思います。太るというより元に戻るだろうと思います。

一食にして減った体重が、三食に戻したら体重も元に戻るのは当然のことのように私には思えます。

さらに、我慢していた分、前よりたくさん食べてしまい、元の体重より増えるということは、いかにもありそうな話に聞こえます。

たぶん思っている以上に食べているんだと思います。人は自分に都合よく考えるところがありますから、食べたものを記録につけてみると、そんなに食べていないつもりで、実は意外と食べていたりします。食べたことを都合よく忘れているのです。



・・・などと偉そうに言っていますが、私は「なんちゃって一日一食主義」なので、土日とか、いわゆる仕事が休みで家にいると、やることがないから平日より食べちゃうんです。暇が理由で食べてしまう。

なので連休が五連休みたいなことになると、若干太って50kgになってしまい、平日にまた少し体重が落ちて48kgくらいになる、ということを繰り返してます。

それで最近、2週間くらいですが、食べたものを記録につけてみました。するとやっぱり自分で思っている以上に食べていました。特におやつを食べすぎだなと思います。

私だって太っているよりは太っていない方がいいので、「ちょっと気を付けよう」と思うわけです。



③ 一日一食の目的とは

でも私はダイエットを目的として一日一食にしているわけではないのです。

ダイエットに興味はなく、それとは別の、大したことはない理由で一日一食にした結果、性分に合っていて継続でき、その副産物として痩せた、という感じです。


そもそも「一日一食にする」という選択は、「一日一食にしたりしなかったり」を前提にしている考え方ではないのです。「一日一食にしたら、ずーーっと一日一食にする」のです。そういう ”生き方” なのです。

ダイエットとかではなくて、そういうライフスタイルなのです。


おそらく世に数多出ている「一日一食系」の本、あるいは「一日二食」でも「断食系」の本だとしても、これらの本は基本的に「美容やダイエットを目的として一日一食を勧めている本ではない」と思います。

たいていは「健康になる」と言っていて、体重が多いと成人病などの病になりやすく、病院に行ってしまって薬漬けにされると薬の副作用で更なる病気を抱えることになるので、そうなる前に「飽食」をやめましょう、と言っていると思います。

そして「一日三食きちんと食べなければならない」や「一日に必要な摂取カロリー」や「一日に必要な栄養素」などのいわゆる ”常識” は、たかがここ数十年の「戦後の常識」にすぎず、昔の人はそんなにたくさん食べなかったし、摂取カロリーや栄養なんて関係なく生きていて、それでもちゃんと生きて偉業もなしとげてきたのだということを知り、そういった先入観から自由になることを勧めていると思います。

常識だと思っていることが、実は常識でもなんでもないということです。


要するに、すでに病気の人は「食べ過ぎ」を改善すれば病気が治ったり、軽快したりすることを期待できるし、まだ病気ではない人は病気になる確率を減らせるだろう、と言っていて、「でも栄養が足りなくなるんじゃないの」という不安に対しては「意外と大丈夫ですよ」と言っているわけです。

「美容やダイエット」がどうとかいう話ではないのです。


私はちゃらんぽらんではありますが、それでも「一日一食にする」と思ってるし、そしてそれは人生が続く限り一日一食にすると思っているのです。そして「一日一食、それも腹八分目、腹五分目で大丈夫。元気に生きていける」ということを知っているのです。

だから、時々食べ過ぎたり、食べ過ぎた期間が続いたり、甘いものなどをたくさん食べてしまったりして体重が増えても、特にショックを受けたり悲しんだりすることもなく、自己嫌悪に陥ることもなく、ただ「おっといけねえ、ちょっと食べすぎちゃったな。気を付けよう」と軽く思うだけで、また一日一食、腹八分目を心がけるだけのことです。

そうすれば体重だってまたすぐ落ちることも知っているので、この点ではかなり気楽に生きていると思います。



④ 一日一食が向いている人

一日一食にすることにストレスを感じない人だと思います。

ダイエット目的に一日一食を試みている人のブログを読むと、「一食しか食べられないというストレスで」その一食を暴飲暴食していたり、自分で定めた一日一食の期間が終了したあと、その反動でたくさん食べてしまったりするようですが、そういった方はたぶん向いていないんだと思います。

食べることが何よりも好きだったり、グルメだったりすると、辛いと思います。



私なんて「一日一食で問題ない」と知った時、「え、いいの? 超ラッキーじゃん」と思った人間です。私には「朗報!」としか思えませんでした。それこそ「空から天使がラッパを吹きながら降りてきた」くらいの朗報でした
(´▽`*)ワーイ



えらく楽観的ですが、以前の記事にも書いていますけど「なにを食べるか考えなくていいし、準備する手間が省けるし、お金もかからないし、片づけもしなくていいし、職場で1時間多く働けてうれしい!」と思いました。「その上健康になって、しかも痩せるというおまけつき! いいことばっかりじゃん!!」という感じです。

なので、何のストレスもなく一日一食に入っていけましたし、一食になってからもなんのストレスも感じていません。本当にラッキーだなって思ってる。

今では職場のお昼時間に食堂で、大勢の職員がお昼ご飯を食べている姿を見ると、「なんでみんなお昼食べてるんだろう。(゜-゜)フシギダナー」って思ってるくらいです。


というわけで、「一食でいいと知って、気が楽になった」という方は向いていると思いますし、「一日一食と聞いて気が重くなるようなタイプ」の人は向いていないか、一日一食にするにはまだ早いのだと思われます。



⑤ まとめ

ということで「一日一食にすると痩せるのかどうか」について強引に言い切りますと、

痩せるか痩せないかと言えば痩せるけど、一日一食は生きている間ずーっと継続する必要がある 
( `ー´)ノ by m


以上です(けんもほろろ)(*´з`)ゴメンネ




 

 

 

 

 

【関連記事】 一日一食系 過去記事

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【本】ディクスン・カー「不可能犯罪捜査課」 密室殺人小説の達人、ディクスン・カーの短編集





題名 不可能犯罪捜査課
作者 ディクスン・カー
出版社 創元推理文庫
出版年 1940年
出版国 アメリカ
ジャンル 短編集、推理



密室殺人小説の達人、ディクスン・カーの短編集。あらすじと覚書。なるべくネタバレにはならないように、でも後でどんな話だったか思い出せるように。

前半の六篇の名探偵は、ロンドン警視庁に設置され、奇怪な事件ばかりを扱うD三課のマーチ大佐。肥満型の大男で、そばかすだらけの顔、青い目、赤毛の口ひげ、短いパイプ。現場に出かけてはいくのだが、D三課の部屋で被害者から話を聞いただけで犯人とトリックの当たりを付けてしまう。
 
 

『新透明人間』

気取った紳士面した男が隣人夫婦の家をのぞき見していると、そこで殺人事件が起こる。空中に手袋が浮かび、銃の引き金が引かれ老人が殺され、二発目の弾丸が自分の方へ飛んできてあやうく自分も死ぬところだった。男はさっそく隣人夫婦の家へ押しかけるが、なぜか死体は跡形もなくなっており、事件の痕跡すら見当たらない。そこで男は警察へ行き捜査を依頼する。殺人のトリックは? 殺された老人はどこへ? 犯人はどこへ行ったのか? そこで男はマーチ大佐や隣人夫婦に痛烈にやっつけられる。

口先ではそれらしく善人ぶった口調で自分は紳士だと饒舌にアピールしながら、悪びれもせずに他人の家を覗く男の描写が皮肉が効いていてユーモアたっぷり。

 
 

『空中の足跡』

氷の張った湖、スケート、降雪、山荘。主人公のドロシーは父親と従兄と一緒にスケートに来ている。向かいの家には死んだ母親の友人である老婦人が住んでいて、ドロシーは彼女を嫌っている。二人が喧嘩した晩、その老婦人が殺され(撲殺)、母の形見でもある貴金属がなくなっていた。老婦人の山荘からドロシーの山荘まで、行きと帰りの足跡二筋だけついていて、しかもその足跡は明らかにドロシーのものであったことからドロシーが疑われる。おまけにドロシーは日頃から夢遊病の気があり、その晩の記憶があいまいだった。ドロシーは自分でも自分がやったのだろうと思うが、マーチ大佐が真相を暴く。


『ホット・マネー』

銀行強盗が起り、犯人たちは大金を持って逃亡するが、行員のジョン・パリッシュの耳元で「ありがとよ。お前の分け前はあとで届ける」と耳打ちして行ったことからジョンが仲間として疑われる。犯人たちは逃走中に捕まるが、肝心の金を持っていなかった。すぐ近所にある屋敷が、犯人たちの弁護士の屋敷であることから仲間の一味として疑われる。しかもその屋敷にはジョンの許嫁であるミス・ドーソンが秘書として働いていた。彼女はその弁護士の部屋で確かに大金を見たのだが、次に警察と一緒に入ったときには金は跡形もなく消えていた。マーチ大佐は金のありかを簡単に突き止め、ジョンの無実を晴らす。

作中でも語られる、オーギュスト・デュパンの『盗まれた手紙』型の着想。



『楽屋の死』

ナイトクラブの年増の踊り子がハサミで刺されて殺される。クラブのオーナー、大金の入った男物の長財布を持った若い女、踊り子の付き人の3人が容疑者になるが、若い女以外の二人には確固たるアリバイがあり、若い女に疑いがかかる。しかしマーチ大佐は今夜の踊り子のダンスが1秒早く終わったことから真犯人を導き出す。


『銀色のカーテン』

カジノで大負けしたジェリー・ウィントンは同じテーブルにいたデイヴォスから、ある場所に今からちょうど一時間後に行くだけで一万フランになる話を持ちかけられる。その場所に約束の時間ぴったりにウィントンが向かうと、目の前でデイヴォスが背後を刺されて殺され、そばには大金の入った財布が落ちていた。容疑者となったウィントンだが、マーチ大佐が現れ真犯人を暴く。


『暁の出来事』

海辺である金持ちが突然倒れ死亡が確認される。容疑者は4人。金持ちの姪、金持ちに呼ばれて訪ねてきた新聞記者、金持ちの昔の恋人の息子、金持ちの友人である博士。状況から殺人事件と思われ、姪が容疑者として連行されるが、実際は金持ちの狂言だったことをマーチ大佐が見破る。


『もう一人の絞刑吏』

19世紀末のペンシルバニアの町で男がひとり殺される。被害者も容疑者も町の嫌われ者だったことから、容疑者はあっという間に絞首刑が決まる。しかし絞首刑当日、前日からの大雨でギロチン台の木が水を吸って膨張し、落し蓋が開かず、絞首刑は延期になる。その延期の決定が正式に下る直前に容疑者は何者かに絞殺される。しかしその犯人は「法の通りに刑を執行しただけだ」と、法の隙間を利用した完全犯罪を主張し、実際に刑をまぬかれる。


『二つの死』

事業家のトニー・マーヴェルは体調を崩し、外科医である弟の勧めに従って豪華客船で8ヶ月間ほどの療養に出ることを決める。ところが乗船すると自分そっくりの男が下船を命じていたり、自分の船室のベッドの上にピストルが乗っていたりと不可解なことが起こる。しかし予定通りの船旅を終えロンドンに戻ると、自分の死が報じられていた。驚いて自宅に向かうがその途中で毛皮の襟がついた外套の男を何度も見かける。自宅へ戻るとベッドには自分そっくりの男の死体があり、トニーの姿に驚く弟がいた。そして弟は自室に閉じ籠り拳銃自殺をするが、トニーはその直前に毛皮の襟のついた外套の男の姿をみる。トニー殺害の計画を立てていたのは弟だったのだが、弟の自殺には疑問が残る、という話。


『目に見えぬ凶器』

17世紀、裕福な家柄に生まれた娘メアリーが、広大な土地をもつ裕福な男オークリーと婚約する。二人は年齢も離れ、気性も違っていたが、お互い愛し合っていた。ところがそこへ新大陸から戻ってきたもう一人の男ヴァニングがメアリーを気に入り横恋慕する。有利な方へ嫁がせたいメアリーの両親は色々迷うが、最終的には元の通りオークリーと結婚することが決まる。するとヴァニングが屋敷を訪れ、オークリーが斬殺される。かなり大きな剣で殺されたとみられるが凶器が見つからない。ヴァニングは一旦逮捕されるが釈放され、結局メアリーを妻とする。幸せに暮らしていたと思われた二人だが、数年後ヴァニングが喉元を切られた状態で発見され、事故死として扱われる。ひとりになったメアリーは、その後ひとりで長生きをして往生する、という話。意外な凶器と隠し場所、メアリーによる復讐が読みどころ。


『めくら頭巾』

怪談風の一編。とあるクリスマス。友人に招かれた夫婦が屋敷につくと、友人ではなく得体の知れない若い女がひとりいた。その不気味な女は、夫妻が聞きもしない昔のクリスマスに起こった事件の話を一方的にしはじめる。

19世紀、この屋敷にはウェイクロスとジェインという夫妻が暮らしていたが、ある晩ウェイクロスが仕事で屋敷を留守にしている晩にジェインが焼死してしまう。屋敷はすべて鍵がかかっており、屋敷のまわりは一面雪で覆われ密室状態だった。屋敷に向かってついていた足跡はウィルクスという男の足跡で、しかもウィルクスがジェインにあてて書いたラブレターが発見される。しかしウィルクスには完ぺきなアリバイがあり、事件は迷宮入りになる。それから数年後、別の住人の手に渡ったこの屋敷で催されたクリスマス・パーティに招かれたウィルクスが不可解な死を遂げる。

この話を夫妻に語った不気味な女は、「最後まで聞いてくれてありがとう」と言って姿を消した、という話。


感想

個人的に好きだったのはマーチ大佐ものではなくて、『もう一人の絞刑吏』『二つの死』『目に見えぬ凶器』の三篇。

やはり私は論理的思考が欠けているんだろう。理詰めの数学的な内容よりも、感傷的かつロマンチックな作品が好き、ということらしい。
 
 
 
 
 
 

【本】星新一著「ボッコちゃん」(新1)読んでないなんて信じらんない、星新一の代表的短編集(のひとつ)



題名 ボッコちゃん
作者 星新一
表紙・挿絵 真鍋博
出版社 新潮文庫
出版年 1971年 
出版国 日本
ジャンル SF、ショートショート



参考)星新一サイト
https://www.hoshishinichi.com/



星新一、大好きです。小学生の頃に父にもらった『悪魔のいる天国』を皮切りに、ずーーーっと読み続けて幾星霜。かなりの本を読んできた。

この記事をいきなり星新一のサイトのリンクで始めたけど、このサイトの「刊行順」から作品一覧を眺めていると、相当数読んでいると思う。


で、星新一と言えば、簡潔、クール、透明、感情を完全に廃した文体、エス氏、エヌ氏、そっけなさ、テンポの良さ、無駄のなさ。センス・オブ・ワンダー。何度読んでも面白い、古くならない、大傑作ばかり。

自分の頭で考えることの面白さを教えてくれた作家のひとり。わずか数ページにすぎない小説なのに、すごく深くて考えさせられて、ほとんど哲学。



その数ある文庫の中でも『ボッコちゃん』は、星新一自身による自薦短編集で全50篇収録されている。

本人があとがきで「初期の作品が多い」と言っているが、このあとがきが書かれたのがS46年(1971)なので、デビューから大体10年間くらいの間の作品から選んだ自薦短編集ということになる。

そしてこの頃はイラストが真鍋博(感慨深い)。のちに担当する和田誠のまあるくソフトな画風に対して、直線的かつポキポキした画風の真鍋博。好きです。


以降は特に心に残った作品の覚書。50篇も収録されているので、もちろんごく一部。()内はその短編のページ数。


  

『ボッコちゃん』(5ページ)

簡潔で無駄のない文体、なのに情景が目に浮かぶ。全く無駄口を叩かないボッコちゃんは超クールで乾いている。後半はハードボイルドさえ感じた。わびさびを感じるラスト。


『おーい、でてこーい』(6ページ)

ユーモアがあって、皮肉が効いていて、深くて、怖い。「ニヤっ」とした後、深く考えさせられる。キーワードは、天につばする、因果応報。先送り的な感じもある。


『月の光』(7ページ)

混血の少女をペットとして飼っている男の話。会話があるために人間は不幸になるとの考えのもとに、一切の言葉を教えずに育ててきたことが最後に不幸をもたらす。

不幸かもしれないが ”美しい” 作品。情景が目に浮かぶし、控えめな描写で、悲哀を感じて、美しかった。


『冬の蝶』(9ページ)

今で言うところのオール電化のように、すべてが機械でコントロールされた世界に住む男女の話。ある日町中の機能が止まってしまうが二人は無知でなすすべがなく、気温が低下していく中、町の機能が回復するまでゆったりと待っていると二人に死が訪れ、傍らではペットの猿が火を発明しようとしている、という話。

機械に頼りすぎた人類への警鐘。


『鏡』(10ページ)

主人公は13日の金曜日に鏡を向い合せにして、その奥からやってきた悪魔を捕まえる。ところがその悪魔が期待に反して役立たずであることを知ると、男は悪魔をいじめはじめ、妻も一緒になっていじめるが、いじめると気分がスッキリして人生が好転し始める。二人のいじめはエスカレートしていき、悪魔は妻の隙を突いて鏡の中へ戻ってしまう。楽しみを失った二人はお互いの責任を責め立て、次第に殺し合いへと発展していく。

いつもの感情を廃した乾いた文体なので ”さらり” としているが、人間の残酷さが描かれていて恐ろしい。


『妖精』(6ページ)

若くて美しい少女の元に妖精が現れ、願いを叶えてくれると言う。ただし少女がライバルと思っている別の少女にも同じ効果が表れ、しかも相手には2倍の効果があるという。「美しくなりたい」と思えば、ライバルは倍美しくなってしまう。少女は考えて、ライバルの少女に取りつくよう願う。しかし相手は自分をライバルとは思っていなかったのか、自分には一向にいいことは起こらなかった、という話。

『鏡』のように、こちらも皮肉が効いた人間論。


『ある研究』(4ページ)

人類にとってある重要な発明をしようとしている男がいるが、それがあまりにも新しすぎる発明なために自分でもそれが意味するところが分からず、説明できないために周囲の理解も得られず断念してしまう。彼が発明しようとしていたものは「火」で、人類が火を獲得するにはまだまだ時間がかかることになってしまった、という話。

いつの時代の話なのかが分からないように表現が工夫されていて、ラストで「はっ」と思う、うまくオチが効いている作品。


『肩の上の秘書』(6ページ)

あらゆる人が肩にロボットのオウムを乗せている世界。セールスマンの男が訪問販売し、ぼそっと「これを買え」と言うと、肩のオウムがありとあらゆる装飾を施した言い方で相手に伝えてくれる。相手が「いらないわ」と言うと、その肩にとまったオウムが華麗な表現でやんわりと断ってくれる、という話。

人がいかにオブラートにくるんでいろいろなことを喋っているかが分かる、無駄なような、大事なような・・・そういう作品。


『なぞの青年』(5ページ)

莫大な資金を持っているらしいある青年が、子供たちのために公園をつくったり、働きづめだった真面目な老人に旅行をプレゼントしたり、海外に流出しそうな古美術品を買い戻して寄付したり、生活困窮者に生活費を提供したり、遺跡の修理費用を用立てたり、とにかくとても良いことにお金を使っていたが、彼は単なる税務署職員で国民の税金を勝手に使い込んでの行為だったため、税務署の上司によって精神病扱いされて病院送りにされてしまう、という話。

極めて正しく理想的に税金を使っていた青年がキ〇ガイ扱いされ、正しく税金を使っていない国や国家権力の理屈が通るという、痛烈な皮肉が効いた社会批判的な作品。


『最後の地球人』(10ページ)

人口が爆発的に増え200億人を突破して地上を埋め尽くし、地球上の動植物は消滅、科学文明は極まって人々は働く必要もなくなった未来。ある時期から一組の夫婦からひとりしか子供が生まれなくなり、急激に人口が減っていく。最後に残された男女も死に、いよいよ最後のひとりである幼児が取り残される、という話。

ラストで幼児が「光あれ」と言っているところを見ると、同じことがもう一度繰り返されそうなオチ。物悲しい空気が流れて何とも言えない寂しさ、虚しさが漂う作品。

 

解説は筒井康隆。

印象に残ったところを引用する。

「傷つきやすいハートを持つ星新一は、彼自身の最も恐れる複雑な人間関係の醜悪さを、そのストイシズムによって彼の文学から締め出そうとする。一方実生活の上では、他人を傷つけることのない自己の完成へ向かっている。もし星新一によって傷つけられた人間がいるのなら、それはよほどの悪人であろう。星新一は、しばしば他人からひどく傷つけられる人間は、意識せずして他人をひどく傷つけている存在であるということを、むろん知っているのだ。」




もし、今まで星新一を読まずにきた方がいたら、まずはこの『ボッコちゃん』から。

ぜひ、おススメしたい一冊です。
 
 
 

 

 

【本】「江戸川乱歩傑作選」 乱歩の脳の中を散歩する、衝撃短編集 【グロい怖い】

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題名 江戸川乱歩傑作選
作者 江戸川乱歩
出版社 新潮文庫
出版年 昭和三十五年(1960年)
出版国 日本
ジャンル 短編集、推理、怪奇、猟奇、エログロ


この短編集は、乱歩のデビュー作である『二銭銅貨』(大正12年の作品)が読めて、初期の明智小五郎が出てくる『D坂の殺人事件』『心理試験』『屋根裏の散歩者』の三篇が読めて、乱歩の変態的グロテスクさが発揮された『人間椅子』『芋虫』が読めるという、推理から怪奇、エログロ(のエロ抜きかな)と、まんべんなく読めるかなりお得な一冊。

明智小五郎といえば、私の小学生時代のイメージでは割と粋な白い上下の背広の男前イメージなのだが、この頃はまだ木綿の着物で、モジャモジャ頭をかきむしるという金田一耕助タイプ。私は金田一耕助タイプの時の明智小五郎の方が好き(天才っぽくて)。

以下は覚え書き(すぐ忘れるから)。ネタバレあります(あると思います)。
 


****** 注意 ネタバレ 注意 ******

『二銭銅貨』

江戸川乱歩のデビュー作。

どちらの方が頭がいいか、いつも競い合っているような友人同士の2人が主人公。ある電機工場の社員の給料がそっくり盗まれ、犯人は捕まるが肝心の金の行方が分からないという事件をきっかけにお互いを騙し合おうとする、という軽いタッチの作品。
 
乱歩のデビュー作であり、お経のような暗号と、点字を暗号解読の鍵に利用した ”すごく和風な” アイディアが高い評価を受ける作品。

暗号と鍵、隠された大金探しというありふれたアイディアと最後のどんでん返しが特徴で、ユーモア小説なのかもしれないと思うくらいガクンとオチをつけている。「やや強引かな」と思ったが、短編にはありがちなことでもあるから仕方ないかもしれない。
”暗号の縦読み” みたいなのも、最近のSNSなんかで若者たちの間で流行っている縦読みと寸分たがわないから、今流行ってるとはいえ意外と古典的なことなんだなと思った。ところで二銭銅貨の中を空洞にするなんてこと出来るのかしらと思ったが、実際にスパイや犯罪者がコインをくりぬいていろいろな物を隠していた事例があるらしいから無理ではないらしい。
 
 

『二廢人』

ある温泉場で出会った男二人が昔話をしている。主人公は自分の奇異な身の上話を披露する。「自分は夢遊病患者で、子供のころから寝ぼける癖があったが、年齢と共にそれが酷くなっていき、ある時とうとう老人を殺し財産を盗んでしまった。夢遊病だから記憶は全くなく、罪もまぬかれたが人殺しには違いなく、それが元で人生を棒に振ってしまった。その後夢遊病の方はぱったりと止んだ。」ところが実は主人公はまったく夢遊病でもなければ人殺しもしておらず、その当時の友人の仕組んだことであった。その友人というのが聞き手となっている男で、真実を告白する為に偶然を装って主人公に近づいてきたのだった、という話。


『D坂の殺人事件』

かの有名な名探偵、明智小五郎初登場作。明智はまだ貧乏書生だった。

主人公である ”私” と明智小五郎が見つめる先の古本屋で、古本屋の女房の絞殺死体が発見される。表は ”私” と明智が見ていたし、裏の路地にはアイスクリーム屋がいて見ていたし、長屋風の建物なので左右は人が住んでいて一種の密室状態になっていた。犯人はどこから入って、どこへ逃げたのか。また女はなぜ殺されたのか。

わたしが高校生くらいの時に初めて読んだのだと思うが、あけっぴろげの日本家屋での密室殺人という設定も面白いが、古本屋の女房と隣のソバ屋の主人が姦通をしていて、その二人がマゾとサドの関係で、性行為の最中の事故死だったという殺人(事故?)の動機が、十代だった私にはインパクト絶大だった。



『心理試験』

自分をものすごく頭がいいと過信している貧しい学生が、小金を貯め込んでいる婆さんを殺して金を奪う。うまいことやったと思っていたが、そのとき講じた策がきっかけで容疑者の一人にあげられる。しかし証拠がない警察は二人の容疑者を ”心理試験” にかける。あらゆる問答を想定して準備万端整えて出頭した主人公だったが、その用意周到さが仇となり、探偵として名を馳せていた明智小五郎によって看破される。
 
ちょっとドストエフスキーの『罪と罰』を思い出した。



『赤い部屋』

怪奇クラブもの。部屋中を真っ赤な布で覆った赤い部屋にメンバーが集まり、毎回趣向を凝らした話をして楽しむ。そのクラブに新メンバーのT氏が入ってくる。T氏は「何をやっても退屈にしか感じなかった自分だが、ある時自分が夢中になれる娯楽を発見した。それは絶対に捕まらない殺人、偶然を装っていながら完全に計算された殺人だった。そして自分は99人を、いたって安全に殺害することに成功した」 T氏はその事例の数々を披露して、最後の100人目として自分が銃殺されるように仕向けるが、すべてが冗談だったという話。

例えば、線路を横切ろうとしている老婆に列車が突っ込んでくる。老婆が何も気づかずに歩いていればもしかしたら助かるかもしれないのに、T氏が「危ない!」と声をかけたせいで老婆が立ち止まり列車にひかれた場合、これは殺人か否かといった、盲点をつく話が多数披露される。


『屋根裏の散歩者』

これも有名な、暗い屋根裏を這い回る男の描写と、それをする男の心理描写がなんとも恐ろしくなる、乱歩の傑作のひとつ。

中庭をぐるっと囲んだ形の長屋に住む主人公が、ある時押し入れの中に天井裏への抜け道を発見する。その屋根裏をゆけば同じ長屋の住民の生活を覗き見ることができ、主人公は ”覗き” という行為に興奮し毎晩のように屋根裏を這いまわる。ある日、屋根裏の隙間から下をのぞくと、そのちょうど真下に熟睡する男の大きく開いた口があって、そこから毒を垂らせばうまく口の中に落ちることに気づき、どうしても実行したくなる。うまくやったと思うが、これもまた明智小五郎によって看破されてしまう。


『人間椅子』

乱歩の変態趣味が炸裂した傑作。思い付きが変態すぎて怖い。
 
ある女流作家の元に見知らぬ男から告白文が届く。原稿用紙に書かれた告白によると、男は生まれつき醜く生まれついた孤独な家具職人だが、ある時頼まれた椅子を作っている最中ふとその椅子の中に隠れることを思いつき実行してみると、自分に座る女性の身体の柔らかさなどに得も言われぬ快楽を感じてしまう。そして自分に座ったある女性に恋をするが、それがあなたなのですよと、あなたが今座っているのが私なのですよ、という話。
 
ぎゃー。最後は「冗談でした」的な終わり方なのだがちょーーーーう怖い。ほんと怖い。ああ怖い。こうしてあらすじをまとめていても怖い。あー。思い付きがほんと変態。



『鏡地獄』

鏡の魅力に取りつかれた男が、いよいよ鏡の魅力に取りつかれて行って、鏡だらけの鏡マニアになって、自分の家でも鏡工場を作って変わった鏡を作るようになる。最後は球体の内側に鏡を張り巡らした球の中に入り、どういうわけか分からないが発狂してしまう。二枚の鏡を向かい合わせにした鏡と鏡の間に入ると左右に無限の自分が見えるが、それが球体になった場合、いったいどういう像を結ぶのかという興味が、倒錯した男の異様な生活のぶきみさと相まって、異様さが増幅されていく感じ。
 
嵐の櫻井翔がTV番組の企画で球体の鏡の中に入ったところ、もう一人の自分が3D状態で立体的に表れたらしい。鏡に映った像が、自分の目の前で焦点を結んで立体的に見えたということか(???合ってるかな)。すげえな。そして発狂はしなかった(発狂する感じではなかった)。


嵐 櫻井翔が球体の鏡の中に入ったら自分がどう見えるのか?体験



『芋虫』

グロの頂点的作品。「人間椅子」同様、一度読んだら忘れられない。トラウマ確定の傑作。
 
戦争で両手両足を失い、聴覚も発声も奪われ、まるで芋虫のようにゴロンところがっているしかなくなった男と、その妻(ぶくぶく太った三十路の)の間の、情欲を描いた作品。ほぼ文学。そのような状態になってしまった夫の看護をし続けるうちに、サディスティックな自分がむくむくと芽生えてきて、旦那を虐めるのが楽しくなってくる。でも愛情はある。そういった背反する気持ちを描いている。ラストは、悲しいが美しくもあるような、一種救われるような結末。



以上、9編収録。



全体の感想

変態的悪趣味の双璧『人間椅子』と『芋虫』だが、読後感は悪くない。乱歩は変態だと思うけど、どこまでも嫌悪感が続いていくような作風ではなくて、最後でふっと救いの手を入れるようなところがあって、どの作品を読んでも人間に対する独特な愛情が感じられる。それがあるからこそ昭和を代表する人気作家になったんだろうと思う。
 
とはいえ、乱歩自身は本格派の推理作家になりたかったのに、『人間椅子』みたいなグロい作品の方が人気があったというから・・・。うーん、そうか、大衆の支持があったのね。異世界をちょっと覗いてみたい、みたいな感じかな。
 
実際わたしも小学生の時に少年探偵もの(ポプラ社のやつ)を読んでいて、なんの作品かは忘れたが、死体を隠すのに死体に石膏を塗ってマネキンにしていたやつがあって、子供心にびっくりして、「なんじゃこりゃ」と思って忘れられないもん。なんとも言えないモヤモヤがあった。その後かなり読んだけど、でも『孤島の鬼』くらいで、それ以外はぶっちゃけあんま全然覚えてない。全集持ってる(!)から、また読み直してみようかな。
 
異世界に脳を飛ばしたい方にお勧めです。楽しい気持ちにはならないので、万人向けではありません。

 


最近の表紙はこれっぽい ☟ 

 

 

【一日一食 】 健康に影響は?一日一食にして5年が経過したので9年分の採血結果を公表します

①私は「なんちゃって一食主義」

mです。

私は「なんちゃって一日一食主義」です。一日一食にして5年が過ぎました。

そんな私が1年ほど前のこと、なんとなーく、ただの記事数稼ぎくらいの軽ーい気持ちで「なんちゃって一日一食です」という記事を出しました。

 

www.mlog1971.com

 

簡単に言うと「私は夕飯しか食べませんが徹底してはいません。結構ちゃらんぽらんです」という内容なのですが、驚いたことに、公開して3ヶ月くらいしてから、少ないながらもアクセスが集まり始め、そして1年経った今でもある程度のアクセス数をキープしています。

そしてこの記事を読んでくださった方の中には、その記事に私が貼った「一食系の本」のリンクから、実際に本を買ってくれている方がいらっしゃるわけです。するとその方たちがそれらの本を読むと、「一日一食(あるいは二食)にすると健康になる」と書いてある。一食系の本はほぼすべてがそういう内容なのです。

私は、読んだ人は「本当に健康になるの?」と思うだろうな、「一日三食が常識の中、たとえ痩せたとしても健康を害したら元も子もないな」と思うだろうな。健康に不安がある方であればなおの事そう思うだろうな、と思いました。


一日一食にして5年が経つ私は、それを証明したい。

したいけどできない!! なぜか。


② 基本、丈夫だという話

前回の 

~痩せますよ~ 一日一食にして4年が経過したのでその報告とおすすめの本 - エムログ

 でも書いているのですが(以下引用します)、
 
②健康に影響は?

今のところ無害です。

ただ私、病気らしい病気をしたことがなくて、いたって丈夫な性質なんですよね・・・だから、本にあるように「みるみる健康になった!」というような体験はありません。「悪くなってはいない」ということが言えるだけです。

とはいえ、世の中は「3食ちゃんと食べましょう」「栄養には気をつけましょう」とやたらと言ってくるので、最初は多少心配でした。

なので「一年後の職員検診の結果を見て、その後の事は考えよう」と思い、1年間つづけましたが、健診結果は全然問題なし。

なんなら改善してる項目があったくらい。

でも、まだ4年ですから。

今後どうなっていくかはわかりません。

一日一食を続けながら、自分の体の様子を見つつ、考えていきます。



と書きました。

そうなんです。わたし丈夫なんですよね・・・

この生涯で既往歴らしい既往歴といえば、突発性難聴(両側いっぺんになった)とパテラ骨折くらいしかしたことがなくて。突発性難聴は「原因が分からないもの」と相場が決まっているのですが、実感としては間違いなく「ストレス」だと思ってますし(いつか書いてみようかな)、パテラ骨折は骨折ですからね・・・ころんだだけです。トホホ。

おたふく風邪もやってない。弟がなってたのに私には来なかったです。

インフルエンザにも罹ったことないし、その他の流行病も周りで罹る人がいても私のところには全く来ない。目の前で罹ってる人がいるのに!! 昨日喋ってたのに!!! こんなにいいこともないのだけど、ちょっとだけ「なんかなあ」と思う時があります。誰からも心配してもらえなくてさみしい(健康あるある)。

風邪も年に一回なんてひかないし(2年に一回くらい?)、まれに風邪ひいても微熱と鼻水とかで終了してしまうのです(仕事は休めたら休みますが)。

ちなみに母も丈夫です(病気したことがないと言っていい程に)。


もちろん今後どうなるかは分かりません。”今のところ丈夫” ”今まで丈夫だった” という話です。今後どうなるかはお釈迦様にも分かりません。


③ 2012年からの採血結果を公開します


とはいえ、前回の 

~痩せますよ~ 一日一食にして4年が経過したのでその報告とおすすめの本 - エムログ

でも書きましたが「職員健診の結果は悪くなってはいない」ので、それを示せれば「一日一食でも大丈夫」という信頼性というか、みなさんの安心感も多少は高まるのではないかな、と思いました。

そこで、今年の健康診断も終わったことだし、結果もいただいたので、それを公表しようと思います。

一食にして5年以上たつし、ここらで2012年から2020年の9年分の数値を公開して、一日一食にする前と一日一食にした後の数値を見比べて、一体どのよう影響があったのかを見てみたいと思います。

ただし、さすがに過去の分までは原本を取っておいてはいないので、原本は今年のだけです(まさか自分がブロガーになるなんてねえ)。それ以前の分はマメな私が Excel に残してきたものがあるのでそれで許していただきたい。

では早速、これが今年の結果です。

         f:id:msan1971:20200812212039p:plain



・・・ちょっと貧血傾向ですが、低いといってもギリギリアウト、みたいな数値ですし、立ちくらみがするとかいった自覚症状はまるでないのであまり気にしていません。

その他の項目は、まあ普通・・・ですよね(ですよね)。


次に、9年分の採血結果をExcelにまとめたものがあるのでそれをお見せします。2019年のセルに平成31年と書いてありますが、正確には令和元年ですね。間違ってましたね。でもあまり気にしないで進めます。


f:id:msan1971:20200812212121p:plain



うまく見られるか分からないですが(スマホだときつそう)、真ん中の太線から左が一日一食にする前、太線から右が一日一食後です。日付が赤く塗ってあるところが一日一食後の採血結果です。さらに高めの数値を赤で、低い数値を青で塗ろうと思っているのですが、今のところ高い項目はありません。

ぱっと見でも分かりますが、「一日一食にする前後で見比べても、あまり変わらない」です。

なんなら中性脂肪とか改善してるくらい。

元々、昼と夜に食べていた頃は中性脂肪が毎年低くて、看護師さんに聞いたことがあるんですけど(職場の)、「良いものを食べてないから」と言われましたww「お肉とか食べてる?」って聞かれたwww 別に普通に食べてたと思うんだけどなあ。

でもちょっとマシになって基準数値内に入ってきてません?  



とはいえちょっと見づらいし、数値だけだとよくわからないので、ここからひとつひとつ見て行こうと思います。


※ 以降は

『健康診断結果の読み方:病気の話』http://wwwmiyoshikai.org/sickness/2.html  

を参考にさせていただきました。
ただし基準値に関しては、画像を添付した(株)サンリツの検査結果に書いてある基準値と、上記サイトの基準値が違う項目がありますし、基準値は病院によっても違うことがあるらしく、実際いくつかのサイトを見てみたのですが、結構微妙にバラつきがあるようです。
以上の理由と、(株)サンリツの基準値は男女の違いが書いていないので、ここから先は上記サイト『健康診断結果の読み方:病気の話』の基準値を転記しています。
でも添付画像の(株)サンリツの基準値も参考にしてください。


また、以下の私の数値は2012年から今年の2020年までの9年分が、左から並んでいます。さらに一日一食にしてからの採血結果を赤文字にしてあります。

④ 貧血検査

*貧血検査 血色素量(ヘモグロビン)(g/dl):基準値;男13.5~17.5 g/dl、女11.5~15.0g/dl

赤血球内のヘモグロビンは酸素を身体の細胞組織に運び、代わりに二酸化炭素を受け取って肺まで運んで放出し、再び酸素と結び付いて各組織に運ぶという重要な働きを担っています。ヘモグロビンが少なすぎると貧血に、多すぎると多血症になります。『健康診断結果の読み方:病気の話』より


私の 貧血検査 血色素量(ヘモグロビン)(g/dl)の 検査結果は、

12.1→12.5→12.9→12.4→12.7→12.3→12.8→12.1→12.4 と推移しています。

基準値内ではありますがやや低めで推移していてやっぱり貧血寄りですが、でも一食にしたからといって下がったということもなく、「一日一食 前後」で大きな変化は見られないなと思います。


*貧血検査 赤血球数(万/mm3):基準値;男430~570万/μL、女380~500万/μL

赤血球の数が減ると貧血になりますが、増えすぎるのは多血症で、血液の流れが悪くなります。『健康診断結果の読み方:病気の話』より


私の 貧血検査 赤血球数(万/mm3)の検査結果は、

L 377→L 374→390→L 375→L 374→L 365→L 370→L 362→L 359 と推移しています。

L は Low ですね。 赤血球、ちとすくない (゜-゜) やっぱり貧血気味の結果ではありますけど、今のところ自覚症状はゼロ。

そしてやはり「一日一食 前後」で大きな変化はないようです。とはいえ年々、地味に低下傾向にあるみたいなので鉄分を意識して摂った方が良さそう。あとビタミンも・・・。サプリでも飲んでみようかなあ。


*貧血検査 ※白血球数(個/mm3):基準値;3,300~9,000/μL

身体を外敵から守る働きをしています。体内に細菌やウイルスなどの異物が侵入した時、これを取り込んで破壊したり、免疫抗体を作ったりして細菌、ウイルス、がん細胞を殺したりする大切な働きをしています。炎症が起きると骨髄で盛んに作られて数を増やしますが、少なすぎる場合は感染症に罹りやすくなります。『健康診断結果の読み方:病気の話』より


私の 貧血検査 ※白血球数(個/mm3)の検査結果は、

5000→4900→4600→4500→6000→4500→4900→5000→4700 と推移しています。

基準値内なので良いでしょう。やはりこちらも「一日一食 前後」で特に変化はみられません。


*貧血検査 ※ヘマトクリット値(%):基準値;男39.7~52.4%、女34.8~45.0%

血液を遠心分離して、全血液に対する赤血球成分の割合を調べます。貧血だと少なく、多血症だと多くなります。『健康診断結果の読み方:病気の話』より


私の 貧血検査 ※ヘマトクリット値(%) の検査結果は、

38.7→38.1→40.6→37.3→39.2→39.1→39.9→L 36.6→37.3 と推移しています。L は Low です。

サンリツさんの基準だと低い結果になるのですが、『健康診断結果の読み方』の基準と照らし合わせると大丈夫そう。 

こちらもやはり「一日一食 前後」で大きな変化はなさそうです。


ここまでの結論としては「やや貧血傾向!」でも「一食前後で大きな変化なし!」ということですね(笑) 

でも気を付けよう。 テツ(^_^)/テツブンネ

⑤ 肝機能検査

*肝機能検査 GOT(AST)(IU/I) :基準値;10~40U/L

体の重要な構成要素であるアミノ酸を作る作用があります。体内のいろいろな細胞、特に肝細胞や心筋細胞内の酵素で、細胞が破壊されるとその程度に応じて酵素が血液中に漏出してきます。肝疾患のほかに、心筋梗塞でも増加します。『健康診断結果の読み方:病気の話』より


私の 肝機能検査 GOT(ALT)(IU/I)  の検査結果は、

15→13→11→14→12→14→13→16→15 と推移してます。

基準値内だからいいと思うし、やっぱり「一日一食 前後」で特に影響はなさそう。


*肝機能検査 GPT(IU/I) :基準値5~45 U/L

ASTと同じようにアミノ酸を合成する酵素で、特に肝臓に多く、肝疾患で増加しますが、心筋梗塞では殆ど上昇しません。『健康診断結果の読み方:病気の話』より


私の 肝機能検査 GPT(IU/I) の検査結果は、

6→L 3→L 4→5→6→6→5→5→6 と推移してました。

一食にする直前は基準値より低かったけど、「一日一食後」に少しだけ持ち直してますね・・・・低いことは低いのでどう考えたらいいか分かりませんが、良かったんじゃないでしょうか。中央に寄ってきているので。


*肝機能検査 γ-GTP(IU/I):基準値;男80 U/l 以下、女30 U/L 以下

たん白質を分解する酵素で、種々の肝障害やアルコール摂取で増加します。いわゆる酒飲みのための肝機能検査としても知られています。また、胆管がんなどで胆道系に障害があると高値になります。『健康診断結果の読み方:病気の話』より


私の 肝機能検査 γ-GTP(IU/I) の検査結果は、

14→13→18→12→20→22→18→15→11 と推移してます。

真ん中あたりの、数値が20越えでやや高めの時期は、月に2回くらいだけど ”家飲み” していた時期で、その前後は職場の飲み会などの年数回以外はまるで飲んでいないので、それで上下しているのかもしれません(わかりません)。

いずれにしても基準値内のほぼ中央での上下ですし、「一日一食 前後」で見ても大きな問題はなさそう。

⑥ 血中脂質検査

*血中脂質検査 LDLコレステロール(mg/dl)(悪玉コレステロール) :基準値;65~139ml/dl

脂質成分のコレステロールは水に溶けないので、たん白と結合して血液に溶けやすいリポたん白になります。その中で脂が多くてたん白質が少ないものを低比重リポたん白といいます。このリポたん白は中性脂肪などと一緒に動脈壁に沈着して動脈硬化(熟状硬化=アテローム硬化)を促進する悪い作用があります。『健康診断結果の読み方』


私の 血中脂質検査 LDLコレステロール(mg/dl)  の検査結果は、

100→90→90→85→94→92→96→81→90 と推移しています。

うん、大丈夫そう。基準値内だし、「一日一食 前後」でも特に数値があがっているとかいった変化もないようです。ほぼ横ばい。


*血中脂質検査 HDLコレステロール(mg/dl) (善玉コレステロール):基準値;男40~85 ml/dl、女45~95ml/dl

脂質成分のコレステロールは水に溶けないので、たん白と結合して血液に溶けやすいリポ蛋白になります。その中でたん白質が多くて脂が少ないものを高比重リポたん白といいます。このリポたん白は血管壁に付着しているLDLコレステロールや中性脂肪を肝臓や筋肉へ運ぶため、別名、血管の掃除人とも呼ばれ、動脈硬化を予防するという良い作用を発揮します。HDLコレステロールが少ない人に心筋梗塞が多いという統計があります。『健康診断結果の読み方:病気の話』より


私の 血中脂質検査 HDLコレステロール(mg/dl) の検査結果は、

80→78→76→75→76→79→85→78→75 と推移してます。

うん。やっぱり平気そう。ほぼ中央値をキープしてる。「一日一食 前後」でも数値の変動は特にみられません。


*血中脂質検査 中性脂肪 トリグリセライド(mg/dl):基準値;30~149ml/dl

身体が利用するエネルギーで臓器や組織維持のために利用されますが、利用されなかった分は皮下脂肪や内臓脂肪などとして蓄えられます。中性脂肪が多すぎると肥満や脂肪肝になり、また、LDLコレステロールも増加させて動脈硬化症など様々な生活習慣病の誘因になります。『健康診断結果の読み方:病気の話』より


私の 血中脂質検査 中性脂肪 トリグリセライド(mg/dl) の検査結果は、 

L 39→L 40→L 44→53→61→64→L 48→65→54 という結果。

きたー、中性脂肪。先ほども書きましたけど、昔から低くて「私の食生活は貧しいのだろうか」と思うほどだったのですが、だいぶマシに!!
なぜかは全然分かりませんが、元々普通にお肉も食べてたと思ってるんですけど、考えてみるとここ数年は特によく食べてる気がします。昔は個人的に魚ブームだったのですがここ数年は肉ブームで、牛肉とラム肉をちょいちょい食べてます。それかしら?(分かりません)

でもとりあえず「一日一食にした後」に基準値内に入ってきて安定してきているので、「一食」が悪影響になっているということはなさそうです。

⑦ 血糖、Hb-A1c

*血糖検査(mg/dl) :基準値;空腹時は70~109ml/dl。随時血糖140 ml/dl以下

血糖とは血液中のブドウ糖のことで、生命活動を維持するエネルギーとしてインスリンの作用で利用されます。インスリンの作用が足りないためにブドウ糖を利用できないのが糖尿病です。特に、脳細胞はブドウ糖と酸素しか利用できません。空腹時血糖を調べて糖尿病の有無を判断します。『健康診断結果の読み方:病気の話』より


私の 血糖検査(mg/dl) の検査結果は、

83→89→95→84→89→86→87→92→96 と推移しています。

言うまでもないことですが、私は朝ごはんを食べないので常に「空腹時」の採血結果です。なのに少しずつ上がってるのかな・・・ これ以上上がりたくないな・・・

確かにこの2年ほど、お酒を飲まない代わりに毎日おやつを食べる習慣ができてしまいました。それが原因かもしれません。基準値内なのでいいかなと思いますが、少しおやつを控えつつ、来年の採血結果次第では真剣に改めた方がいいかもしれません。


*Hb-A1c (%)  :基準値;4.6~6.2%

赤血球内のヘモグロビンとブドウ糖の結合したものをいいます。糖尿病のコントロールが悪く血糖値の高い状態が続くと高くなり、逆にコントロールが良くなると下がってきます。赤血球の寿命は約3カ月で、その赤血球とともに存在するので、過去2~3か月の血糖値のコントロール状態を把握するのに用いられる指標です。『健康診断結果の読み方:病気の話』より


私の Hb-A1c (%)  の検査結果は、  

/ → / →5.4→5.1→5.3→4.9→5.2→5.2→5.1 と推移。

職場健診で Hb-A1c の検査が始まったのが2014年からです。結果は基準値内ですし、基準値内でも中央をうろうろしている状況なので、問題なさそうです。
良かった (*^^)v 糖尿病なりたくない。「一日一食」の影響も特になさそう。


⑧ 結論:一日一食にしても採血結果に大きな変化はなかった

いかがでしたか? この結果どう思われます?(と呼びかけながら当ブログはコメント欄を閉じているという矛盾)

私は「一日一食にしても採血結果にはほとんど変化がないんだな」という感想を持っています。一日一食にした前と後で、明らかに悪くなった検査項目もないですし、明らかに改善した検査項目もありません。良くなるわけでも悪くなるわけでもないという、無風状態。

私は元々、健康に大きな問題を抱えていなかったので、良くも悪くもならなくていいのです。でも、健康状態が良くない方が一日一食にしたら別の結果がでるのかもしれません。

一日一食にして5年経ってほぼ影響がないということは、一日一食にすること自体に悪い影響はないと考えてよいのではないかと思ってます。一日一食でも大丈夫なんですよ。もし今後私の採血結果が悪くなるとしたら、それは一日一食のせいじゃないと、私は思います。別の原因があるのではないかと。


結論:一日一食にしても採血結果に大きな変動はなかった。ほぼ無風状態だった。


⑨ 感想(余談)

となると、「一日三食が健康に良い」という ”アレ” はなんなのかな、という気がしなくもない。

常識っていうんですか。朝は食べないといけないとか、バランスよく食べなければいけないとか、一日30品目がどうのとか。一日一食で30品目なんて、私にとっては至難の業。30個考えてたらノイローゼになる。塩分すら、カロリーすらあまり気にしていません。ちょっと気にするくらい。だって一食なんだもん。


個人的には ”政府の陰謀” だと思ってますね(笑)  国は「一食で大丈夫」なんて、口が裂けても言わないでしょうね。経済がガタガタになるもん(コロナ関係なく)。それくらいなら 「飽食」→「成人病」→「本格的な病気」→「病院」→「薬漬け」→「出たり入ったり」→「エンドレス」→「儲かるところは儲かる」→「死ぬ」 というこの図式をキープしたいでしょうね。本音はね。食品業界も儲かり、製薬会社が儲かり、病院も儲かる。万々歳ですね。

私は性格が悪いので、政府の言うこと、世間の常識、周りが言うこと、簡単には信じないですね。TVで言ってることなんて特に信じないです。かなり冷ややかに見てる。世間やTVが騒げは騒ぐほど冷ややかに見始める。

特に「最新の研究結果によると~」とかいうのが大嫌いです。「またはじまった」と思って、どちらかというと大昔からの先人の知恵を信じます。ここでいえば「腹八分目」とか、そういうやつです。


とはいえ、今回この記事を書くにあたって、それまでは検査結果を受け取っても ”さらっと” 軽く見て終わりにしていたのを、今回じっくり見た結果、
1)私は貧血傾向なので鉄分をよく摂った方がよさそうなこと、
2)血糖値がこれ以上あがらないようにした方がいいかもしれないこと、そのためにはやはり ”おやつ” の類を控えてみようと思えたこと、
この2点は収穫でした。

これからも一日一食を継続していこうと思っています。



【参考図書】実行前に一冊は読もう( `ー´)ノ

 

 

 

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【本】「日本沈没(1973)」災害に備えたくなる、今こそ読みたい日本が誇る傑作SF小説【いまさらベストセラー】

日本沈没 上 (小学館文庫 こ 11-1)



題名 日本沈没
作者 小松左京
出版社 光文社 カッパ・ノベルス
出版年 1973年
出版国 日本
ジャンル SF、パニック、ベストセラー


いまさらながら、往年のベストセラーである『日本沈没』を読んでみたら、小説の最後で日本人1億人中7000万人もの大勢が国外に難を逃れて助かるのに、「ああよかった!」と思えるような作品では、ぜんぜんなかった。

題名だけだとまるでよくあるハリウッドのアトラクション・ムービー系の、「わー」とか「きゃー」とか、そういう体育会系パニック映画みたいに思えるかもしれないけど、まるで違う。

骨太の、シミュレーション小説だった。


この作品は1973年にカッパ・ノベルから書き下ろし上下巻で出版され、最初はあまり期待されておらず初版は3万部ずつ程度の発行にとどまったが、みるみる版を重ねていき、ふたを開けてみれば上下巻合わせて385万部を売り上げる大ベストセラーになった作品らしい。

その背景には、科学技術の発展に伴う未来への不安や、オイルショックなどの現状の社会不安がベースにあったのだとか。

そういった意味では、平成になってからの阪神大震災や東日本大震災、気候変動、そして経済不安や世界情勢不安、AI化への不安、リストラや年金制度の崩壊、コロナウイルスなど、いま私たちの日常は十分すぎるほどの不安に囲まれている。

特に私たちはこの小説の主題である地震だけでも阪神大震災や東日本大震災を経ているし、未来の大地震の噂や予言も絶えないし、昨年(2019年)に頻発した台風などの自然災害は「これからの日本は毎年こういう気候になるんだろうか」と思わせる一年だったから、昔から気にはなっていた『日本沈没』を、今更ながら読んでみるのも乙かと思った。

そうしたら傑作だった。 

 


主な用語と登場人物

D-1計画・・・田所博士が提唱した「日本沈没の可能性」を探る調査プロジェクト。D計画とも呼ばれる。
D-2計画・・・日本国民の国外脱出計画のこと。

小野寺俊夫・・・ベテラン深海潜水艇乗り。わだつみ号。D-1計画に参加。
田所博士・・・地球物理学者。天才だが理解されずに学会から疎まれている。日本沈没を予想。調査チーム「D-1計画」のキーマン。
幸長助教授・・・海洋地質学者で田所博士の右腕。のちのD-1計画の責任者。
中田・・・情報科学者。D-1計画の一員。
結城・・・小野寺の仲間。深海潜水艇の操縦者。小野寺に誘われてD-1計画に参加。
山崎内閣調査室調査員・・・D-1計画の一員。
穂積・・・D-1計画の一員。情報操作を担当。
渡(わたり)老人・・・100歳を越えるフィクサー的謎の大人物

ほかにもヒロインとか首相とか、多数の登場人物が出てくるがここでは割愛する。


出来事・時系列(197X年)

① 夏。測量しても測量しても測量結果がずれ、新幹線の基礎工事が進まない現象が起こる。
② 小笠原の北で小さな無人島が静かに、あっという間に消失する。調査の結果、2日間で地面が160mも沈んでいたことが判明。
③ 愛知県で橋が落ちる。伊豆では小さな島が出現する。海底が大きく沈んでいることが発覚。東京では日に2~3度も有感地震が頻発。
④ 7/26 伊豆の天城山、続いて大島の三原山が噴火。
⑤ 7/27 浅間山噴火(長野県)
⑥ 京都大地震。死者4,200人、重軽傷者13,000人を超える。
⑦ 秋。三陸地方に2度、北海道根室に1度、津波が襲う。九州地方の噴火は継続、桜島が活動開始。日本全国で有感地震が毎回何百回と起こり、建物が崩壊したりしていたが、人々はすっかり慣れて気にしなくなっている。
⑧ 夕方5時。のちに「第二次関東大震災」「東京大震災」と呼ばれるM8.5の大地震が発生。東京は震度6~7。死者・行方不明者 250万人、被害総額10兆円、日本人口の2.3%が一瞬で死ぬ。
⑨ 冬。八丈噴火。富士火山帯が一斉に噴火を開始。三宅島、大島三原山噴火。東日本でも地震発生、新潟、富山地方にM7.0、震度4。
⑩ 富士、宝永火口噴火。日本沈没まであと10ヶ月の予想。
⑪ 3/12 二百年ぶりの富士山大噴火。美しかった山容を失う。
⑫ 3/15 浅間山大爆発。続いて群馬県武尊山、燧(ひうち)岳、日光・白根山、那須・大佐飛岳も活動開始。房総半島、三浦半島、伊豆半島は一日数センチから十センチ沈降、一日数センチ南東方向へ垂直移動開始。
⑬ 北海道・十勝岳、熊本・阿蘇山がほぼ同時に活動開始。
⑭ 4月上旬、北九州、中国地方にM7の地震。九州・霧島、桜島が噴火。中部地方・焼岳、立山が噴火開始。
⑮ 日本国民、海外移住開始。空路、海路、一か月で350万人が退避。
⑯ 4/30 AM5:11 のちに「中央構造線大地震」と呼ばれる世界の地震観測史上未曽有の「超広域震源地震」が起こる。近畿、四国、九州に震度7の激震が同時発生。中央構造線に沿って、日本列島が数十メートルずれる。一瞬で死者・行方不明者200万人と予測。直後、四国南部と紀伊半島南部が1時間に2mのスピードで太平洋に向かって動き始める。続いて東海地方に大地震、長野、岩手で噴火開始。

そして最後は、
⑰ 九月下旬。
引用:「四国はすでに百キロも南に動いて完全に水面下に没し、九州は裂けた南の端が、同じく何十キロか南南西に動いて、これも水没、中九州の阿蘇と、雲仙の一部が、辛うじて水面から出て、爆発を続けていた。西日本は、琵琶湖のところで、竜の首がちぎれるようにちぎれて、東端が南へ、西端が北へ回転するように動き、ずたずたに切れた断片となって、なお沈下をつづけていた。-------東北も北上山地は、もう数百メートルの海面下にすべり、奥羽山脈は、これまた四分五裂して、爆発をつづけていた。北海道は、大雲山だけがひょっとすると海面下にのこるのではないか、といわれていた」
という状態に。
⑱最終的に7000万人が国外退避を完了。


備考:
⑥と⑦の間に「美術品(絵画、彫刻、仏像、工芸品など)」の国外避難が秘密裏にはじまっている。
また、どのイミングで始まったかは分からないが、⑧が発生するあたりではすでに海外の未開拓平野部の買い付けも始まっている。
⑨の時点で政府は秘密裏に、世界各国に100万人単位の移民交渉を開始。
⑭のあとに「D-2計画」が実行されて、日本国民の退避が開始されていた。

⑫くらいの時期。こんな状況なのに、政府首脳は超高層ビル最上階の会議室で会議していた。


雑感

この小説『日本沈没』では日本が消えて、なくなる。そして日本人は世界中に散らばる羽目になる。冒頭にも書いた通り、1億人中7000万人が国外に難を逃れるけど、「ああよかった!」というカタルシスが得られるような作品では、ない。

最初は静かに、じわじわと日本に異常現象が現れてきて、後半に向けて怒涛のごとく日本列島が崩壊していく。それが限られた登場人物たちの目線で描かれ、名もなき市井の人たちがどう感じ、どう行動していたのかはあまり描かれないところが不思議と効果的だった。

この、「日本列島が消えてなくなる」というかなり大胆な設定は、その大きすぎるスケール感が荒唐無稽で「そんなことある?!」「SFでしょ?」と思うかもしれないが、出版当時「修士論文に匹敵する」と言われたらしい科学的かつ詳細な内容は説得力バツグン。

たとえば、①現実の軍艦の写真 ②日本海溝などの地図 ③地球の内部構造の図 ④ヴェーゲナーの大陸移動説の説明 ⑤気象学とマントルの対流の比較 などが、写真や図入りで掲載されてるけど、そういう小説って、あまりない。事実に裏付けされていますよ、これは科学に裏打ちされた作品なんですよ、と言っているのだ。


その掲載されている海底地図などでもわかるように、広大な太平洋の端に細長く儚げに浮かび、かつすぐ右側には世界最大の日本海溝が「ぱっくり」と待ち受ける、恐ろしいほど心細い立地にある私たちの国「日本」。海底地図を見ているとなんだか吸い込まれそう。あの奥には「永遠の無」があるような気がする。私は宇宙よりも海が怖い。

そういう、日本人ならいちいち言うのも当たり前すぎて誰も言わないけれど、日本人なら誰もが本能的に感じているであろう恐怖に真っ向から挑んだ『日本沈没』は、日本人なら読んでおいていい作品だと思った。


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特に上記時系列で言うところの ⑧「第二次関東大震災」「東京大震災」をめぐる描写はリアリティがあって恐ろしかった。たぶん、2011年より前に読んでいたら、あまり身に詰まされることなく「SFの絵空事」的に読んでしまったかもしれないが、東日本大震災を経験した2011年以降の私たち日本人は、それ以前の私たちとは違う。

日本中の、特に真ん中あたりから上の方に住んでいた人たちは 2011年3月11日に「人生初の、未曽有の大地震」を経験したはずだ。

もちろんその経験には大きな差がある。津波や原発の影響をもろに受けた人たちと、私のように関東平野に住んでいる者の経験を同じに語るわけにはいかない。

でも、もっと個人的な視点で、「自分にとって人生初の、未曽有の経験だったかどうか」という基準で考えれば、確実にみな「そう」だったはずだ。

そしてあの時もっと西側に住んでいた人たちにとっては、1995年1月17日の「阪神大震災」がある。私がいる関東はまったく影響がなかったが、「来ない」と言われていた地震が来てしまった後のニュース映像は衝撃的だった。


そしてここのところ日本は、他にも自然災害がめきめき増えている。日本人は、平成の30年の間に、それぞれ各自が置かれた環境なりの「大震災」や「台風などの自然災害」を経験してしまったから、この『日本沈没』はとても絵空事には思えないはずなのである。

読め!(急にww)

 

日本沈没 決定版【文春e-Books】

日本沈没 決定版【文春e-Books】

  • 作者:小松 左京
  • 発売日: 2017/07/26
  • メディア: Kindle版
 

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話を小説に戻す。

物語は三人称のスタイルで語られて、小説開始直後からしばらくの間は潜水艦乗りの小野寺を中心に物語が進んでいくから、「小野寺が主役かな」と思って読み進めていったら違っていた。彼は途中で行方が分からなくなって、だいぶ経って戻ってくる。その間は他の登場人物にスポットが当たって、視点が複数人を行き来する系の小説だった。

そして作者の視点が色濃いのが特徴だと思った。作者の存在が強く感じられる。というか自己主張が激しい(笑)。

普通は小説を読んでいると、その作品の世界にどっぷり浸かって作者の存在なんて忘れてると思う。そうやって没頭できる作品が「いい小説」なのだと思っている。でも、この『日本沈没』は・・・作者が前面にガンガンでてくるスタイルww。


本書は小説の形を通して日本論や日本人論、日本近代史論などが存分に語られていくのだけれど、そういう時、急に小松左京を感じた。

たとえば、

「一つ一つを見れば、これも大したことはないのだった。台風国であり、地震国であり、大雨も降れば大雪も降るという、この小さな、ごたごたした国では、自然災害との闘いは、伝統的に政治の重要な部分に組み込まれていた。だから多少不運な天災が重なっても、復旧はきわめてすみやかで活発におこなわれ、国民の中に、災害のたびにこれをのり越えて進む、異国人から見れば異様にさえ見えるオプティミズムが歴史的に培われており、日本はある意味では、震災や戦災や、とにかく大災厄のたびに面目を一新し、大きく前進してきたのだった。----災厄は、何事につけても、新旧のラジカルな衝突をいやがる傾向のあるこの国にとって、むしろ人為的にでなく、古いどうしようもないものを地上から一掃する天の配剤として、うけとられてきたようなふしがある。」(本文より)



これなどは日本論&日本人論としては的確だと思う。わかる。

自分たちで波風立てて改革していくなんて、そんな攻撃的なこと、日本人はしにくい。できればやりたくない。すると問答無用で訪れる自然災害は、有無を言わせず改善や改革を迫られるから、日本人にとっては重要な成長のチャンスなのだ。「とにかく何かをしなくっちゃ」と、急にみんな力を合わせて一つになったりなんかして。

今現在猛威を振るっているコロナ・ウィルスだって、ポジティブにとらえれば、成長や改善、意識変革のチャンスなのかもしれない。そして日本は決して負けないだろう(希望)。


それから小説内では、日本沈没に向かう一連の自然災害に対しての海外の反応についても書かれていたけれど、

「(海外の反応が同情だけではなく)もう一つの、奇妙に執拗な関心と好奇心が---これによって日本はどうなるか、この先長期的に、この大災害が、日本にどういう影響をあたえてゆくか、ということを知りたがっていることがほの見えてきた。
極東の一角で、ただ一つ、いちはやく近代化に成功し、二つの対外戦争に勝ち、世界相手の大戦争をやってたたきのめされながら、戦後たちまち復興して、GNP世界第三位にのし上がってきた日本----その首都が、世界史上類例のない大災害をこうむったことは、ある意味で「いい気味」であったろうし、中には「身から出た錆だ」とはっきり書いたイギリスの新聞さえあった。」(本文より)



この感じも分かる。私は私にもそういう感情があることを認める。それは2001年9月11日の「世界貿易センタービル崩壊」のあの時、私の感情の中にはここで引用したような、似たような感情がはっきりとあった。

当時私は仕事もせずに思いっきり引きこもっていたので、とにかく一日中ずっとTVで事件を見ていた。画面の中では、飛行機がビルに突っ込み、しばらくすると根元の方から滑らかに崩壊していくという、とにかく信じられないことが起こっていた。

でもその頃わたしはすでに「アメリカなんか嫌い!」だったから、「経済の象徴・世界貿易センタービル、軍事の象徴・ペンタゴンと来れば、次は文化的象徴の自由の女神でしょ。ここもやったらアメリカ人は相当こたえるんじゃないか。めちゃくちゃ嫌われてるって気が付いて、少しは反省するかも。」と思って、期待していたことを認める。

だから小説内であろうと現実であろうと、アジア人のくせに生意気にも結構やる日本が沈没すると知った外国人が「ざまあww」的に小気味よく感じたとしても、私はぜんぜん驚かない。私だって清廉潔白じゃないもん。


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世界貿易センタービルといえばこれだった。20世紀の映画とかで見ると郷愁を感じる。



その他にも(おそらく)小松左京の意見として、

「日本人は将来、日本の中だけでなく、世界の中にちらばって生きてゆかねばならないと思うな。」(経企庁長官のセリフより)

 

「日本という国も、企業も、一般国民も、すべてが本格的に海外各国、各民族、各地域文化と宥和(ゆうわ)して行く方向を考えてゆかねばならん、ということだよ。」(首相のセリフより)



といったセリフもある。


こういうセリフがD計画のメンバーたちや首相、政治家たち、海外の政治家たちなどの口を通してたくさん語られるけど、そういうのを読んでいると小松左京が急に目の前に現れる感じがする。

「小松左京がこう思ってるんだろうなあ」とか「小松さんの意見ですね、分かりました」と思う感じ。これほど随所に作者の存在感が感じられる作品っていうのもめずらしい。「ハラハラドキドキ、面白がらせよう!」というよりは、「作者が持論を展開するための小説」なのだなと思った。

小説なのか評論なのか、評論寄りの小説なのか。最初は多少の違和感があったけど、「これはこういうものとして」読み進めて行った。


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ところで小松左京によると「日本が沈没するスペクタクルSF小説を書きたい」というよりも、元々は「日本人が国を失い、ユダヤ人のように放浪の民族になったらどうなるのか」をテーマにしたかったらしい。だから小説の最後には「第1部・完」と書いてあって、第2部では「難民となって世界中に散らばっていった日本人のその後」が描かれる構想だったんだとか(題は『日本漂流』の予定だったらしい)。

けれども結局は執筆されず、2006年になって谷甲州という作家との共著という形で出版されている(近々読んでみる)。


しかしユダヤ人のように・・・(は失礼かもしれない。あの人たちはガチだから)、日本人が世界に散らばっていくと簡単に言うけど、

「皇室はスイスへ、皇族のお一人はアメリカに、お一人は中国に、できればもう一方アフリカにーーーーー」(本文より)


ですよ。いやだなあ。日本人のアイデンティティがあああ(私は右翼ではありません)。


それから私たち市井の人間も、

(日本脱出は3つに分ける計画で)「地域別ではなく、ケース別に分けてあります。一つは日本民族の一部が、どこかに新しい国をつくる場合のために、もう一つは、各地に分散し、どこかの国に帰化してしまう場合のために、もう一つは・・・・世界のどこにも容れられない人々のために・・・・」 そして4つ目の意見として「何もせんほうがいい、という考え方です。(中略)このまま何の手もうたないほうが・・・・」



・・・私はひとつめでお願いします (゜-゜)ナニトゾ  この状況ならば、新しく国造りしたい。どこかの国に帰化したくない。ナントカ人になりたくない。日本人がいい。


そして・・・4つめの意見、「何もせんほうがいい、という考え方です」「何も手をうたないほうが・・・」が泣ける。何もせず、脱出などせず、日本人が全員で日本列島と心中して海の底に沈んでいこうという意見。

一億玉砕。アトランティスやインカ帝国を思い出す。・・・なんてロマンチックなことだろう・・・と私は思う。

思うけど、でもリアルには絶対に選択しない。私はそれほどセンチメンタルじゃあないな。生きる。(でもひとつめを強く希望します)。


そしてこの小説の重要人物にしてそのロマンチスト代表である田所博士のラストの告白は迫力十分。

「最初は黙っていようと思った。日本と心中。愛するこの島と一緒に。日本人全員と」  渡老人への田所博士の告白



彼は誰よりも早く「日本が沈没してしまうのでは」と気が付き、そのあまりの荒唐無稽さにおののき、最初は黙っていようと思った。

でも、田所博士は黙らなかった。日本を救うために「イッっちゃっている学者」と言われようとも、寝食を忘れすべてを犠牲にし、時には奇策に打って出て、日本を救うべく動きまわった。日本人もろとも無理心中はしなかった。


だけどロマンチストだった。ラストの田所博士の選択はそう思う。

私は田所博士の行動は逐一美しく感じて、昔の日本人だなっていう感じがして好きだったし、彼の最後の決断も「こういうのもありかな」と思った。


みなさんはどう感じましたか?






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コロナ禍であぶりだされた、いるもの、いらないもの②【私がいらないと思うw】

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mです。4月も終わりますね。

前回は「コロナが落ち着いた後、すごい不景気が来て、常識が覆されて、もう世の中が元に戻ることはないんだろうなあ」と、そういう予想が毎日の生活の実感として予感できるなあ、という話を書きました。

 

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でも今回はまたそれとは違う、もしかするともっと恐ろしくも哀しいことかもしれないある恐怖が私を襲いそうなのでそれを書いておこうと思います。


③ 職場で「いらない仕事」と「いらない人」がばれちゃいそう(私なんだけど)


私が・・・というか、私の仕事というかポジション、いらないんじゃないかなあ。それがばれちゃいそうだなあ。クビかなあ。人員整理されちゃうかもなあ。

なんかそういうのがバレちゃいそうな方、いません? 実はそう思っている人って案外多いんじゃないかと思うんですよね。



私は現在、とあるちゃんとした病院(コロナ疑いを受け入れるような病院ではないのですが)で、2年前に部署を異動になって「医局秘書」というのをやっています。


これが暇で。


どのように暇なのかというと、医局秘書になる前の感覚で働くと2時間で終わることを8時間かけてやっている感じですね・・・オドロキですよ、ほんと。

最近は多少業務も増えてきたとはいえ、それでも午前中だけ4時間ちょっと真面目に働いて、午後はほとんどふわーっとして、帰るの待ってますね・・・・

年度替わりとか、年末とか、他にも季節ものでそれなりに忙しくなる時期はあるっちゃあるんですけどね。でも忙しいと言っても「1~2週間続くかな」くらいだし、それに17:30過ぎには帰ってますからね(笑) 自分比較で忙しいだけで、他と比べたら全然忙しくない。


そこへこのコロナ禍です。学会という学会が軒並み中止や延期になっているので、出張の手配もないし、休診がでるわけでもないし、ちょこちょことした業務までもがぜんぜん無くなっちゃった。

基本的に暇なのに、さらに輪をかけて暇になっちゃった、みたいな状態。


そのように暇な仕事をするためにいつものように電車で出勤していると、電車が日に日にガラガラになっていくわけです。

私は喫煙者なので、毎朝駅のコンビニ前で一服してから電車に乗るんですけど、吸っている間に目の前を駅に向かって歩いていく人が、激減。

そして改札で定期を ”ぴっ” としてホームに着くと「誰もいない」。いても4~5人。激減。

電車に乗り込むといつもは座れないのにシートはガラガラ。激減。


みんなどこ行っちゃったのー?(゜-゜)  そんなにみんなリモートワークとやらができる職種の人たちなの? ホントに?(疑っている)


・・・なんかなあ。行ってもやることないんですよ・・・電話番とコピーとかファックスとか、せいぜいがデータ入力とかしかないから、リスクを冒してまで行く必要、あるのかなあ。行かなきゃ駄目かなあ。いいんだろうか、こんなに暇で。

*****************

などと思うそんななか、4/7の緊急事態宣言の発令がありました(対象地域です)。

「7割~8割の出勤を減らすよう」安倍信三さんが言っていたのを聞いて、

「うちは病院だから閉めるわけにはいかない。けれども患者数は激減している(半減に近い)。患者だろうが職員だろうが、ひとりでもコロナ陽性が出たらやばいから、休める人は少しでも休ませて、外出自粛の方向にした方がいいのでは。絶対にしなくてはいけない仕事はしなくてはならないが、後回しにできることは後回しにして、みんなが一日でも出勤を減らしていくべきなのでは」

と思いました。


ま、私が休みたいだけなんですけどね(笑) 私を休ませて、って話なんですけどね。ぶっちゃけ週に2~3日出れば仕事、終わりますからね。大義名分ができたなあと。これは堂々と休めるのでは、と。

「週2で出勤を潰したいなあ。理想は火~木で出勤して月と金は有給使いたいなあ。休業補償なんていらないから、有給消化でいいから(売るほど余ってるし)」と思って、「ま、とりあえず今回の緊急事態宣言を受けての職場の出方をみよう」と思いました。


そうしたら、翌日全職員向けにメールでお達しはあったけど、「人込みは行くな」とかいう注意点が羅列されているだけで、私が期待していた「休めるやつは休め」的な内容では全然ありませんでした。しょぼん。


病院的には全然そういう内容ではなかったけれど、我が所属部署は「入職したばかりの若い子たちを交代で休ませようと思う。彼女たちは有給がないから、リモートワークという”体”にして交代で休ませることになった(自宅でできることは実質なし)」とのこと。どうやら部課長で決めたらしい。

その報告を課長から聞いた私は聞いてみましたよ。「私は?」と。「私、今回のことはかなり深刻に受け止めていて、少しでも出勤をつぶしたいって、ちょうど思ってたところでした。行きは良いんですけど、帰りの電車は結構混んでるし」って言ってみましたねー。だって老いも若きも命の重さは同じなんですよね? 地球より重いとも言うじゃありませんか。

そうしたら「管理職はちょっと別」と。あー、まあ、私も一応管理職。そして「でも休めるの?」と聞かれたので、思わず「休めます」と即答してしまいましたよ(笑) 

「おっといけねえ、暇だと思われる」と思って、「私がやっている担当業務っていま絶対にやらなくちゃいけないことは少ないから、後回しにできることは溜めておいて5月以降に一気にやればいいと思うんですよね」と追加説明しておきました。


だってさー、ええー休んじゃいけないのお。むしろ経営陣から「休め休め、仕事工夫して有給とれ」って言ってくれなくっちゃいけないんじゃないのお。今休まなくていつ休むのお。うちで陽性でたらどうするつもりなのお。


そしたらその話が部長の耳に入って「誤解です」という話になりました。そういう意味ではないのだと。要は若い子は有給がない(あるいは少ない)からリモートワークと称して自宅待機させてあげたい、私たちは有給が余っているからそれを使っていいけど、そういう若い子たちへの措置をずるいとか言わずに理解してあげてね、程度の意味だったらしい。

なるほどね、そんなのぜんぜんオッケーですよ。若い子たちのことは善きに計らっていただいて。私はまったく異存ありません。私も休めれば(有給でいいし)。


で、ついでだから部長に、

「私、今回のコロナは結構重く考えていて、日本は今が正念場だと思うんです。それで昨日の緊急事態宣言を見て、これを受けてウチの病院はどう出るのかなと思って出方を見ていたんですけど、さっき送られてきたメールは私が見たい内容ではなかったです。

私は、ウチは病院だから休めない。でも外来患者数は激減している。だから休めるやつは有給使って休めるように所属長が配慮してね。病院(業務)に影響が出ないように、今やらなければいけない事とそうでもないことを整理して、先送りできるものは先送りして、休めるのであれば積極的に休め。職種によって休める部署と休めない部署がでるだろうけれども非常時だから仕方ない。各部署内で判断して積極的に休ませろ、と言ってほしかったです。

たとえば受付なんて、日ごろ全く有給を取らせてもらえていないから、半日有給とか、週一日、10日に一日でもいいからみんなで交代して有給を取って自宅待機しよう、って言ってもらえれば、コロナ対策としては効果ないかもしれないけど、ああ、うちの病院なりに職員のことを考えてくれているんだな、がんばろう、って信頼関係が深まって、帰属意識も高まると思うんですよね」

って言ってみました。私って生意気だなあと思いながら。いつもすみませんね、事を荒立ててばかりいて。


そうしたら部長もいろいろ思うところがあるのか、「俺も言ったんだよ、でも上の判断はそうならなかった。俺だって休みたいもん(かなり遠方からの電車通勤)」と言ってました。

で、有給取得するのは構わないと言うので、「では休みます」となって、本当は週2で出勤をつぶしたいんだけど、やっぱり他の職員とのバランスもあってそうもいかないから、とりあえず週一で出勤を減らすことにしました。

週一くらいじゃコロナ対策としてはなんの効果もないと思うけれど、何もしないよりはマシだし、とにかく自分自身が少しでも納得できればいいかなと思ったので。

コロナ対策としては十分ではないけど、「休めるのに上の人から言ってもらえなくて休めなくて不満でいっぱい」となるよりは、「とりあえず週一でも自分の意志で休んだな」と思えるから精神衛生上はすっきりしました。

職場の人から顰蹙(ひんしゅく)かうかもしれないけど、みんなも自分の事は自分で考えればいいと思いました。とはいえさすがに週2有給は言いだせなかった。

それで4月は週一で有給を消化しました。


そして緊急事態発令から1週間後、ようやく人事部から、

①業務の緊急性を見直して、できるだけ残業しないように。必要最低限にするように。
②半日、一日有給休暇を積極的に取るように。夏季休暇の前倒し取得を推奨する。
③半日有給の出退勤時間は問わない(4時間勤務していればOK)。

などと、ほぼ私が部長に言った通りの内容の通達が出て、「やっときたー」と思って私は溜飲を下げたわけなのですが、それでスッキリ解決、はしないんですね、これが。


我が部署では、上記の人事部の通達を受けて「休む休まないは自己判断」&「臨機応変に対応する」ことにしたんですって。

自己判断かあ。臨機応変ねえ。

ちゃんとトップダウンで「強制してあげること」が大事だと思うけどねえ。こういうのは自己申告制にしたらみんな休まないに決まってるんだから。

下々はさあ、「暇だと思われたら困る」「自分が必要ないと思われたら困る」って思うもん。そう思って忙しい振り、自分は必要アピールしてる人も、多いと思うね。うちの定年退職後の嘱託組なんて、やることないのに毎日出てきてるけど、感染したら死ぬよ。休ましてあげてよ。


そして4月も終わりますけど、結論はやっぱり誰も休まない(笑) 私だけが休んでる(笑) やっぱねー。

でもね! 私は予定通り週一で休みますよ。だって自己判断ですから。私は暇なので休めますから。暇なのにジェスチャーで忙しいフリしてコロナに感染したら、死ぬほど後悔すると思うから。

 

私って馬鹿なのかなあ (T_T) これが原因で「mさん、暇らしい」ってなって、コロナ禍が落ち着いた後、膨れ上がった赤字を解消するために人員整理されちゃったりするのかしら。肩をポンポンと。


・・・人によっては贅沢な話に聞こえますよね。でもこれが私の現実ですから。私だって別に幸せじゃないし、他の人とは時間差で更なる不幸を招き寄せるだけなのかもしれないんだから。

半年後くらいに「mさんの暇さ加減」が問題になったりするかもしれない。あいつはなにやってんだ、と。

そしたらまた報告します。

今回はこんな感じです。

 

 

コロナ禍であぶりだされた、いるもの、いらないもの①【消費社会が終わるかも】

           f:id:msan1971:20200422213351p:plain



mです。

コロナウイルスについて思ったことを、備忘録として書いておこうと思います。

3月に入ったころ、私はまだコロナウイルスに関してすごく甘く考えていて、
「インフルと何が違うの」とか、
「今まで一度たりともインフルにかかったことがないし、周りでインフル患者が出ても私にはうつらなかったから私は大丈夫」とか、
「今までの人生でそういう流行性の病はことごとく私をスルーしていったから今回も大丈夫」とか、
「私はTVをまったく見ないから、鳥インフルにしてもSARSにしても何にしても、いつの間にか流行って、いつのまにか去っていた。だから私は大丈夫」とか、
「花粉症でもないから”マ”をする習慣が全くなくて、インフルの季節だろうと”マ”せずに生きてきたけど今まで一度もかからなかった」とか、
とにかく根拠のない自信を持っていました。


ところが今回のコロナの猛威はそんな甘さを打ち砕き、「これは大変なことになってきた」と思い始めたのが、たぶん3月半ばくらい。

”マ”に関しては「買占め」「品薄」「モノがない」状況が始まっても「買わねば!」とはあまり思わず、でもまあ一応Amazonで検索してバカ高くなっているのを見て「け! 絶対買わない」と思ってタブを閉じました。10枚程度で1万円て。なめんなよ。

ラッキーなことにたまたま医療機関に勤めていることから、10年くらい前に ”付き合いで” 、箱で2箱購入して全く使わずにしまってあったのがあったので良かったですが、これがなければ完全に”マ”難民になっているところでした。これがなければとても困って職場で若干盗んじゃってたかもしれません(しなくてすみました。本当です)。


あの時の私、ありがとう。そして「”マ”買う人~」と取りまとめてくれたWさん、本当にありがとうございました。


とはいえコロナはいつ終息するか分からないし、”マ”も平常通り買えるようになるのはいつになるのかも分からないですから、やっぱり節約しないといけないなと思って、イタリアやスペイン、アメリカなどが深刻化していくデータを眺めつつ、身近(自分の居住圏や通勤圏)に感染者が登場したら”マ”をつけようと「”マ”装着開始時期」を見計らい、近場でひとりめが出たのを合図に毎日”マ”装着を開始しました。

幸いなことに、今のところ職場や近所といった「極めて身近」には感染者はまだでていません(市内には10人くらいいるけれど)。


本題ですけど、日本はたぶん「これからが正念場だろう」と思うのですが、このコロナ禍がひと段落したあとのことに思いを馳せてみると、「コロナ収束後の世界は大きく変わっていくんだろうなあ」という気がしてなりません。

近年まれにみる時代の転換期を迎えるのだろう、と。

「AI化」なんて比較にならないくらいの意識改革がおこるだろうと。

ちょうど100年前、20世紀が始まってしばらくのちに起こった第一次世界大戦や王政の終焉、社会主義の台頭などに匹敵するほどの激変が起こるのだろうと。

そして大不況が来て、ここ50年くらいの間繰り広げられた消費社会は、もう決して戻ることはないだろうと。

コロナが収まった後、経済成長率がマイナス35%になるだの、25%になるだのと、近い将来の大恐慌が示唆されていますが、それもむべなるかな、と思います。


理由はふたつ。
① 人類レベルでいらないものがばれちゃった
② 個人レベルでもいらないものがばれちゃった(気がついちゃった)
からです。


① 人類レベルでいらないものがばれちゃった

というのも、今回の禍(わざわい)で人類は多くの問題・課題を抱えたと思うのですが、その中でも特に「本当に必要なもの」と「そうでもないもの」がはっきり分かってしまったことはとても大きいのではないかと思うからです。

たとえば今回、人々が全く出歩かなくなった欧米では、あからさまに水も空気もきれいになっちゃった(笑)


ベネチアの運河は航空写真で見ると明らかに透き通っているし、

gunosy.com


インドのパンジャーブ州では30年ぶりにヒマラヤ山脈が見えるようになったんだとか。

www.cnn.co.jp



例えば、その要因の代表のひとつと思われる「車」ですが、車が環境汚染の大きな原因であることはみんなが知っていたけど、「でも便利だから」で目をつぶって使い続けていたら、今回「いかに人間が環境を汚していたか」が今回はっきり出てしまったというわけです。それもわずか数週間の都市封鎖というごく短期間で結果が出てしまうという分かりやすさ。

私は免許は持っているけど運転したことがない「純正ペーパー・ドライバー」だから「車なんかなくても大して困らない」ことを知っているけど、今回の出来事で「必須ではないのでは」と世界規模で決定的に気がついちゃったんじゃないかな。

極端に言えば、宅配関係などの流通系運転者のような職業的ドライバーさえいればいいんじゃないかな、と。普通の人で「社会的にどうしても必須ではないけど日常的に車を運転している人」は大勢いるでしょうからねえ。「個人的にあったら便利だから必要」と「社会的に必要」は雲泥の差がありますからね。地理的な問題で「車が必須」地域はあると思うけど、なくてもいい人がすさまじい数いるのではないかな。

健康や環境問題に特にウルサイ欧米の方々ですもの、今回の一件が落ち着けばますます「車社会に物申す!」的に運動が盛り上がって、同じように思う人がいよいよ車を買わなくなって、公共交通機関がますます発達するという方向に加速していくのではないかしら? 時間はかかるだろうけれど。

私の好きなゲーム「Civilization」では、環境汚染を抑えるのに「公共交通機関」の開発は必須ですからね。いいことだと思います。グレタさんみたいな人が跋扈するのはいやなんだけど、そこは目をつむります。


ちなみにこういう時、「人間自体が不要」という極論を言う人が必ず出てくるけど、それは全く子供の発想で、長編ドラえもん(どれだったか忘れたけれど)の中で誰かがそのような正論を吐いて「じゃあお前死ね」とジャイアンに言われていた作品がありますが、まったく同感です。私も「じゃあまずお前死ね」と言っておく。


また、ロックダウンを決行した欧米では、最も必要な施設以外はシャットアウトしたものだから、「絶対必要」と「そうでもないもの」がくっきり、はっきりと。

イギリスだと、開いていいお店はまずは言うまでもなく「病院」ですが、他に「スーパー・食料品店」「薬局」「ガソリンスタンド」「自転車店」「ホームセンター」「コインランドリー・クリーニング店」「レンタカー」「コンビニ・キオスク(コーナーショップ)」「郵便局」「銀行」なんだそう。

逆に閉じることを命じられたお店は、「レストラン・カフェ(出前やテイクアウトはOK、店内飲食はNG)」「パブ・ナイトクラブ」「カーディーラー」「テーマパーク」「図書館」「ジム」「衣料品店」「教会や礼拝堂等の宗教施設」「映画館」「美術館」「温泉」「結婚式場(結婚式自体が禁止)」
とのこと。

パッと見、よく分からないものもあるけれど、まあざっくり言えば「命と生活に係わるものはやっていてOK、娯楽はぜいたく品だから今はNGね」という、いたって当然の結果に。

現代の結婚式なんて正直、友人かもしれないけど所詮は他人の自己満足ですからね。そんなものが必須なはずがない、と。そんなものに付き合わされて感染した日にゃ地獄で恨みますよ。呼んだ方も寝覚めが悪い。

宗教施設がNGになっているのも興味深いですね。「必要、なかったんだね」という気になる。100年くらい前なら「救いを求めて神様にお祈りしましょう、祈ればコロナで死んでも天国に行けますよ」とか言って、神様の方が人を集めそうなものだが、現代はそうはならないのね。「3密だからNG」となって閉店です。信者も「神様にお祈りしても助けてはくれない」って気づいているってことなんでしょうか。それとも「3密を避けてお祈りするのが天国への道なのです」「3密を避けてお祈りすると神様が救ってくれますよ」的な発想なんでしょうか。


いずれにしても、欧米は「ロックダウン」という強硬措置を取ったから、割とスパッと気持ちよく線引きできているように感じました。「基本的に全部だめ! 命や生活にかかわるものは例外としてOKね」っていう感じ。

日本は・・・なんだか・・・うやむやと、「自粛を促す」と言いながら、後になって「百貨店はダメだけどデパ地下はやってて欲しかったんだよねー」みたいなぐずぐずした感じが・・・

「自粛っていうのはこっちで考えてやるやつなんじゃないの?」「じゃあ先に言えよ」って思われても仕方ない。なんか煮え切らない印象なんだな。きらい。

This is Japan.っていう感じ。


② 個人レベルでもいらないものがばれちゃった(気がついちゃった)

そして個人レベルでも、20世紀後半の「超消費社会」に慣れきった私たちは、「不景気だなー」なんて言いながらも相当な物欲の中で「あれも欲しい」「これも欲しい」と思って様々なものを買いあさり、それを自分では「必要な物」として位置付けていたと思うのですが、「それって本当に必要?」って気が付いてしまったと思う。


私はどうかというと、日常的に「休みの日は一切出掛けない」をモットーとしているため、「スーパーやコンビニで買える食品や日用品以外はすべてAmazonで買う」というほどのAmazonユーザーです(たいした金額ではないにせよ)。

そして今までの購入履歴の7割くらいが「CD、DVD、本」で、趣味部門ばかりがずらーーーっと並んでいます。

3月上旬、ここまでコロナが日本で深刻になる前、「4月になったら購入しよう」と思ってカートに入れていた物は、
① Perfumeの過去のシングル3枚(インスト目当て)
② マイケル・ケインのややマニアックな映画DVD3枚
③ アラン・パーソンズ・プロジェクトのスタジオアルバムの1stと2nd
④ ビリー・アイリッシュの昨年の大ヒットアルバム(題は長いから割愛)
⑤ 映画「何者」のサントラCD(中田ヤスタカ目当て)
⑥ アンドリュー・ロイド・ウェーバーの「ジーザス・クライスト・スーパースター」のオーストラリア・キャスト盤
⑦ 洗顔石鹸 ひとつ
でした。

「いまどきCDって、ぷっ(笑)」とか、そういうのは聞きたくありません。私の勝手ですから好きにさせてくらはい。

でも「今買うものではないのでは。今どうしても必要なわけでもなんでもないのに、激務であろう運送会社や宅配業者の方々に運ばせるなんて申し訳なさすぎる。後にしよう」と思って「後で買う」に移動してしまいました。


おととしかなあ、超大型台風が上陸して、未曽有の大惨事になると言われて強風が吹きすさぶ中、「出前を頼む」という猛者もいると聞きました。そしてその注文を届けようとする猛者もいるんだとか。どっちもシンジランナイ。ツイッターか何かで「暴風雨の中、出前に向かうべくスクーターのエンジンをかけようと四苦八苦した挙句に、風に飛ばされる出前猛者」の動画を見たことがあります。


【Twitterで話題】台風21号でもバイクで配達してたドミノピザ、控えめに言ってやばい




今のコロナ禍の中でも、シンジラレナイ行動をする強者たちがたくさん現れて全然笑えません。私にはとても無理。真似できない。

上記①~⑥は、しばらくはそっと「今は買わない(後で買うだっけ?)」に置いておこう。


というわけで、私が欲しがってAmazonで買ってきた品々は「特には必要ない物だったのでは」という思いが頭をよぎるわけです。

ていうか、”必要” ではないよ。間違いなく。

すると私の欲しいものはすべてが①~⑥のようなものばかりだから、「これらは必要なものではない」となるともう「買うものが何もない」です。


はー。他に欲しいものがないよー。(ノД`)・゜・。カナシイジンセイ


こうして購買意欲を失って・・・いや、買うよ、買うんだけどね、趣味だから。でも、毎月毎月何かしらを買っていたものが、気持ち冷静に見つめ始めて、「来月になってからにしよう」とか「隔月にしようかな」とか「この前のまだ見てないから買うのやめよう」とか、そんな風に頻度が下がると、消費が落ち込むことになるのでした。


大変な時代が来そう。大きな意識改革が起こる予感がする。ていうか起こるだろうな。不景気+意識改革。このハリケーンに吹き飛ばされないために私は何をしたらいいのだろう。






買い物かなあ ('_')





 

 

 

すべりこみアウト「間に合わない世代」

        f:id:msan1971:20200129225246p:plain

mです。

去年くらいから、
「私の世代って、どんだけ間に合わないんだよ wwwwwwwwwww」と思って仕方がないのですが、そのきっかけは「大企業リストラ問題」でした。

私の身近にはまだ来ないけど、45歳以上がリストラ対象、あるいは早期退職対象なんですってね。

それで「はははーw またかーウケるー」と思ってしまった私は不謹慎なのでしょうが、だって本当に間に合わないんだもの。


ちなみに私は1971年生まれです(早生まれだけど)。では、そんな私が今までどういう感じに間に合わなかったかというと、


① バブル景気に間に合わなかった
(バブルの時は高校生だったから全然恩恵には預かれなくて、「さあ稼ぐぞー、お金持ちになろー」と無邪気に社会に出たらバブルがはじけていた)

② プライベートを優先していい時代に間に合わなかった
(限りなく昭和だから「滅私奉公」で休みも返上して朝から晩まで働いて、「ワークライフバランス」とかいう単語を知った時はとっくに40歳を超えていた。そんな考え方して良かったんだね。はやく言ってよー。)

③ 凡人でも稼げた時代に間に合わなかった
(安い賃金で働いてきたけど、年功序列なら給料が上がるはずの中年になっても全然あがらず、逆に税金とかが上がるから手取りは下がるありさま)

④ 「新入社員」に基本的人権があるとは知らなかった
(若いうちはセクハラ、パワハラ、モラハラ当たり前で、芸はしなければいけないし、仕事ができなければいじめられてきたのに、現在同じような感覚でいると世間に超絶叱られるからめちゃくちゃ気を使って大切に真綿でくるむようにマネージメントしなければいけない。出来ないと若者たちに「昭和w」とか「ブラック」とか言われるの。私を大切にしてくれる時期はどこに行っちゃったの?)

⑤ 子供の頃に憧れ夢見ていた「未来」に間に合わなかった
(インターネットなんて身近になかったのが20代後半くらいから突然ビッグバン的に普及して、自分の生活になじむ頃にはもう40代を過ぎていた)

⑥ 遊んで暮らせる老人になれなかった
(年金払って年寄りを食わせてきたのに、自分は年金を貰えそうもない。親世代は遊んでるのに。)


そしたら今度はお荷物認定でリストラなんだって wwwwwwwワラワラワラワラ 

これって、

⑦ 無能でも自分なりの高給がもらえたシステムに間に合わなかった(自分なりに一番給料が高い期間を喪失した)

ってことでしょう? 団塊世代なんか、無能でも逃げ切ったっていうのに・・・。その上嘱託とか言って大したことせず会社に居続けて、さらに年金までもらいやがって。

いいことないなあ。それにその間に合わなさぶりが、「50年前はこうだったらしいよ」という遥か過去のことなら諦めもつくけど、ついこの間まではこうだったのにさあ、みたいな、絶妙に間に合わない感じがして仕方がない。

しかもたぶん、これだけじゃなくて他にもあるんだと思う。これからもっと出てくるんだと思う。

たとえば、今は定年退職が60歳で嘱託が65歳までだけど、近々5歳延長されて65歳が定年退職になって嘱託で70歳まで働くようになり、だけど私がその年になるころには更に5歳くらい延長されそうな気がする。

年金がもらえる年齢もどんどん引き上げられていくわけだからずっと働き続けなくちゃならない(泣)

すると75歳まで働くのかあ・・・先が長い (-_-;)ヤダナア 

 

私のささやかな夢は、明日の出勤や仕事のことを全く考えず、なんの心配もなく本の世界や映画の世界に没頭できる、そういう子供時代の生活を再現すること。

少し豊かな引きこもり。

それはとても贅沢なことなのだと思うけど、でも今現在、私の親は実現してるもん! 毎日家で寝っころがって、読書にいそしんでるもん! ほら!ほら!今も目の前で!

ずるいよー(泣)私もそれがいいよー (/_;)アアウラヤマシイ


ソウイウ未来ハ、ワタシニハコナイノダ。


ほんと、すべりこみアウト感が半端ない。あーあ、なーんかなんにも間に合わなかった感じするなー。










※「バブル映画」の代表作だけど、厳密に言えば制作当時はすでにバブルははじけていた。そしてDVD化されていない様子でVHS版しかなかった。残念。面白いのになあ。

 

 

 

 

【本】【絵本】レオ=レオニ「スイミー」 これは大人向けの絵本だと思う【解釈】


題名 スイミー ちいさな かしこい さかなの はなし
作者 レオ=レオニ
出版社 好学社
出版年 1963年
出版国 アメリカ
ジャンル 絵本、自己啓発



子供の頃に読んだきりでもうすっかり忘れていたが、最近名作絵本『スイミー』を読み返した。

私は独身・子なしなので、大人になってから絵本に触れる機会はほぼないのだけれど、Youtube とか、ブログとか、ツイッターとかを見ていると、「スイミーみたいな話だな」とか「スイミー的な」といった表現で何かの代名詞的に「スイミー」が使われているのを何度か見かけていた。

そしてその使われ方から推察するに、どうやら「非力な者でも、みんなで力を合わせれば大きなものに打ち勝つことができる。だから力を合わせよう」みたいな文脈で使われているようで、「そんな話だったかなあ、なんか違うような・・・」と、遥か過去に読んだおぼろげな記憶をたどっていたのだけれど、最近になって確認してみたくなって購入した


結論から言えば、「やはりスイミーはそういう話ではない」と思った。

この、薄くて文字数も極めて少ない絵本の物語を、野暮は承知でさらに簡単に説明してみれば、

「赤い小魚の兄弟たちの中で、自分だけが真っ黒なスイミー。ある日マグロがやってきて兄弟の赤い小魚たちをみんな飲み込んでしまうが、泳ぎが速いスイミーだけが生き残る。そして海をひとりで泳いでいると、同じような赤い小魚の群れと出会う。スイミーと赤い小魚たちは、みんなで群れになってマグロよりも大きな魚に見せかけて、襲ってきたマグロを追い払うことに成功する」

というようなストーリーなので、確かに「力を合わせよう」みたいな話に読めなくもないと思うのだけど、やっぱり私はぜんぜん違う話として読んだ。



  ☜日本語+英語版 表紙


【解釈】

この『スイミー』という魚の話は相当大人向けの物語で、レオ=レオニがいいたかったことは、「みんな力を合わせようよ。力を合わせれば大きなことが出来るよ」というような ”善人ぶった牧歌的ないい話” ではなく、「勝ち組になるには」みたいな、集団の中で埋もれて行かないための自己啓発とか、人生観とか仕事観とか、そういう哲学や思想をも含んだものだと思う。

スイミーが所属する赤い魚の集団は「没個性の象徴」であって、しかも彼らは思考を放棄している。だから彼らは搾取されつづける存在として描かれている。そのなかで周りと違うスイミーは、最後にはその赤い魚たちのリーダーとなって、彼らを導く目になっている。

確かに「力を合わせて」はいるのだけれど、あくまでも「”ボクの指導の下” に力を合わせている」というところがポイントだと思う。


では「スイミーは一体どのようにしてそれを可能にしたのか」というノウハウも、この短いうえに文字数も少なく、ひらがなでしか構成されていないシンプルな絵本にはちゃんと書かれている。それは、

① 人と違うこと(孤独)を恐れてはいけない
② 未知を恐れてはいけない
③ 挑戦を恐れてはいけない
④ 思考を放棄してはいけない

そうしなければ、没個性の赤い魚たちのように大勢の中で埋もれてしまい、しかも強力な存在の前では非力で、簡単に食い物にされてしまう。


この作品は「集団の中でリーダーシップがとれる立場になるのに必要な要素」というメッセージ、限られた集団の中であったとしても強者になることを勧めている、冷徹な世界観を持つ作品だと思う。


  ☜英語版 表紙 


作品の流れに沿って時系列に順番に追ってみる。まず、


まずスイミーは「みんなは赤いのに、自分だけは真っ黒である」という、まわりとかなり違う個性を持った魚として登場する。けれどもスイミーは「誰よりも泳ぎが早い」という特徴も持っている。

だけど赤いのも黒いのも、「みんな たのしく くらしてた」とあるところを見ると、みんなと違うことで特にいじめられたりはしていなかったよう。

でも、足が速かったスイミー以外の、いたって普通の仲間たちはみんなマグロに襲われて食べられてしまう。

特徴のない者は敗者となった。

まわりと違うことで、スイミーは生き残る。

⇒ ① 人と違うこと(孤独)を恐れてはいけない



次にスイミーはひとりぼっちになって、広大な海をさまよう。暗くて怖くて寂しくて、悲しかったけど、今まで知らなかったことを知ったり、経験することが楽しくなっていく。

未知の恐怖から逃げ出さず冒険を続けた結果、スイミーは皆は知りえない情報を得て、誰もしていない経験を積んで成長していく。

⇒ ② 未知を恐れてはいけない



その後、昔の兄弟たちのように没個性的な赤い小魚たちが集団で暮らすところに出くわす。

スイミーは、「みんなも出てきて遊ぼう。楽しいよ」と誘うが、赤い小魚たちは「大きな魚が怖いから」と言って慣れた空間から出ようとしない。

⇒ ③ 挑戦を恐れてはいけない



隠れるだけで立ち向かおうとしない赤い小魚たちに対してスイミーは、「ずっとじっとしてるんじゃなく、問題を解決する為に考えなくちゃ」と言って、ひとりで考え始める。

それも「ちょっと考えた」のではなく、いろいろと考えて、うんと考えて、その結果「みんなが集まって大きな魚のふりをして泳げれば、大きな魚よりももっと大きくなること」を思いつく。

そしてスイミーは赤い魚たちに対してリーダーシップを取って指示を出し、最後は「ぼくがみんなの目になろう」と言ってみんなの目になる。

⇒ ④ 思考を放棄してはいけない



そしてスイミーは、みんなと違う特徴を生かした結果、彼らの社会で彼らを導く存在となることができた。


**************

今回読み返してみて、私は「すごく勉強になった」と思って、「これは10代や20代の若いときにしっかりと読むべきだったのでは」と思った。

私は自分の人生を決してまだ諦めてはいないので「今からでも勉強になった」と思うのだが、また「若い人には私よりもうまく生きて欲しい、私よりも幸せになって欲しい」と切に思う年齢でもあるから、もしこの記事をここまで読んでくれたなら、老若男女にぜひ読んでもらいたい。

別に下のリンクを踏まなくってもいいから、ぜひ読んで欲しい。


*************

ところで、絵本というものをテキストだけに注目するのは片手落ち(最近は差別語なのかな)だと思う。

もちろんレオ=レオニの手による絵も素晴らしい。私は絵画にも明るくないのでよく分からないのだが(何にも詳しくないんだな)、何かで作ったハンコみたいなのをペタペタ押しているのかな。

そしてとにかくスイミーの目がすごくかわいいと思う。

びっくりしていたり、ちょっとキリッとしていたり、マグロに追われているときは「わーやばい」って感じだし、

世界を旅して珍しいものをみているスイミーは「なんだこれ、びっくり!」とか「うひゃー、こんなのいるんだ」とか、声が聞こえてくるよう。完全にお上りさんの観光客の顔してる(笑)

そして時々は「キリッ!」として厳しい目つきをしていたりして、とても愛おしい。

それに引き換え、赤い魚たちの表情の無さはまるで規格品のよう。


しかし才能というものは本当にすごい。こんなシンプルな物語の中に、こんなに深いテーマを含ませることができるなんて・・・それも偉そうに大上段に構えて説教くらわすわけでなく、子供向けの絵本の形をとって。尊敬します。


読んで、見て、私の感想が妥当かどうかも含めて、ぜひ確認してみて欲しい。

じゃねー。



 

 

 

【本】ジュール・ヴェルヌ著「海底二万里」~映画版『海底2万マイル(1954)』の原作本



題名 海底二万里
作者 ジュール・ヴェルヌ
出版社 創元SF文庫ほか
出版年 1870年 
出版国 フランス
ジャンル 冒険、SF、海洋
 
 
ディズニーで映画化もされた有名作。12年くらい前にヴェルヌ一気読みしたことがあるけど、あんまり印象に残っていなかった作品。今回、映画を見た流れで再読。改めて読んでみると前半こそ小説らしいとはいえ、途中からストーリーらしいストーリーがなくなる。海底世界一周旅行記で、海底の報告みたいな感じ。

映画とちょっと比較しつつ、本の覚書と感想をまとめておく。

① あらすじ


登場人物はたったの4人。アロナックス教授、その従僕コンセイユ、銛打ちネッド・ランド、そして「潜水艦ノーチラス号」のネモ船長。ネモはマッドってほどではないと思う。

ストーリーは映画とほぼ一緒。

19世紀、数々の船を沈め人々のあいだで話題になっていた海の怪物を探しに行く「エイブラハム・リンカーン号」に乗り込んだアロナックス教授、コンセイユ、ネッドの3人は、怪物との戦いで海に放り出され、潜水艦ノーチラス号に助けられ航海を共にすることになる。怪物だと思われていたものは潜水艦だったのだ。船長のネモから「もうこの船から下ろすわけには行かない」と宣言されて、ネモの気の赴くままに海中を進み、1年弱かけて世界(海底)を一周してしまうというお話。


細かい展開は、エイブラハム・リンカン号で出発、ノーチラス号に乗り込む、インド洋の海底で狩猟、パプア島でイノシシ狩りをして原住民に襲われる、紅海でジュゴン猟、スエズ運河の地下のトンネルで地中海へ。

ネッドの理屈に負けて脱出計画を立てるがチャンスがないまま、難破船の墓場を横目にジブラルタル海峡を抜けて大西洋へ。沈没したスペイン船の財宝、その使い道、ネモとアロナックス二人きりの深夜の海底散歩、沈んだアトランティス大陸、ノーチラス号の母港のある死火山へ。

そして大西洋を南下し、マッコウクジラとナガスクジラの激闘、マッコウクジラの群れを殺戮するノーチラス号、ネッドとネモの確執の本格化、南極探検、南極点到達、閉じ込められた氷山からの脱出劇、南アメリカ沿岸を北上、アマゾン川海域をへて七匹もの巨大タコと斧で対決、危うしネッド。ネッドをネモ船長が救いだし、ネモは失った船員を思い海を見つめながら涙する。

そして謎の船籍の軍艦との遭遇、戦闘、ネモ船長の激しい憎悪の発露、ノーチラス号からの脱出。メールシュトロームに巻き込まれ、見知らぬ漁師に救われる。

② 映画版との比較【年齢編】

 

原作とディズニー制作映画版『海底二万哩(1954)』との主な違いは、登場人物の設定。

まず年齢の印象が違う。映画の方は、アロナックス教授とコンセイユは初老的な感じ、ネッドは40歳くらいかなと私は思った。だけど原作ではアロナックス教授が40歳、コンセイユが30歳、ネッドは40歳前後、という設定。映画よりだいぶ若い。

そこで、演じていた俳優の映画公開時の年齢を確認してみた。
アロナックス教授を演じるポール・ルーカスは1891年生まれだから、63歳。
コンセイユを演じるピーター・ローレは1904年生まれだから、50歳。
ネッドを演じたカーク・ダグラスは1916年生まれだから、38歳。

ということでやはり映画版と比べると、アロナックス教授とコンセイユの方はだいぶ若い。原作+20歳というところ(ネッドは年相応だけれど)。

これはアロナックスの職業が「博物学博士」でしかも「権威」という設定によるところかもしれない。40歳でも権威はいるだろうが、映画的に考えるともっと初老の方が説得力がある。すると従僕のコンセイユも、長年(原作では10年ほど)連れ添ってきた助手だから、自然に同じように年齢を引き上げられたんだろう。

一方、ネッドは体育会系だからもっと若くしても良かったかもしれないが、豊富な経験が強調された役でもあるから、あまり若くするのも違う。ということで原作の設定どおりになったのかな。

あくまでも想像だけれど。

③ 映画版との比較【キャラクター+ノーチラス号編】

 

③-1 アロナックス教授
まずアロナックス教授は原作と映画版と比較して年齢以外は大きな違いはなく、お人柄の印象はあまり変わらない。年齢をいじっただけで、キャラクターに関して言えば映画版はかなり忠実といっていいのではないかな。博物学博士で、権威で、研究熱心で、真面目なお人柄。自由を求めないわけではないが学者としての本能から、未知の世界を知ることのできる唯一の手段であるノーチラス号での生活を割と気に入っていて、ネッドが脱出を提案してきてもそれほど乗り気ではない。学者らしく武闘派ではないが、勇気は持ち合わせており、後半巨大タコとの対決でも自分も参加して闘っている。

③-2 コンセイユ
原作のコンセイユは映画版と比較して、ユーモラスさというよりも忠誠心がとても強調された人物。冷静で几帳面、手先が器用で寡黙。アロナックス教授に10年仕えていたおかげで博物学の分類に熟練。門、亜門、綱、亜綱、目、科、属、亜属、種、変種の全段階を縦横無尽に駆け巡る。極端に礼儀正しく、いらいらするほど丁寧(アロナックス談)。

口癖は「ご主人様のお好きなように」で、アロナックスがリンカーン号から投げ出された際は迷わず追いかけて海へ飛び込み、運命を共にする。「ご主人様を見捨てるくらいなら、わたくしが先に溺れて死にます」と言っていた。アロナックス教授に忠誠を誓っているため大きな決断は自分ではせず、「ご主人様についていきます」と言って判断をアロナックスにゆだねる。

しかしそういった生真面目さが引き起こすユーモアは随所に見受けられる(本人はユーモアのつもりは全くない)。 

③-3 ネッド
映画のネッドは相当ひょうきんもので、ギターをかき鳴らして歌を歌いまくり、所狭しと駆けずり回る陽気なキャラクターだったが、原作ではそういうことは全くない。

原作では「態度は重々しく、人付き合いはよくなく、時には乱暴、人が彼の意に逆らうと激怒する」と描かれている。束縛を嫌い、活動的な体育会系。銛打ちとしての腕前を自負は相当なもので、勇猛果敢で恐れを知らない。航海中に遭遇した巨大なジュゴンや超巨大タコとの戦いも、むしろ血沸き肉躍るといったタイプ。ユーモアの類は一切ない。

銛打ちとしての腕は折り紙つきで、獲物を見つけると狩りたくて狩りたくてうずうずしている。実際ジュゴンやクジラ、巨大イカとの激闘の際に活躍。とはいえラスト近くの巨大イカとの戦いではネモ船長に命を救われる場面も。

魚やカメ、ウミドリなどの肉では満足できず、四足の動物の肉が一切食べられないことに大きな不満を持っていて、島に上陸できるチャンスを逃さず大量の肉をゲットし舌鼓を打った。結果、大勢の人食原住民を引き連れて戻ることに。

ノーチラス号に滞在中、チャンスを見つけて何度か脱出を試みるが天候などに恵まれずその都度失敗。とはいえノーチラス号に一年以上も閉じ込められていても、映画ほどはこれといった事件を起こさない。扱いにくそうな人物に描かれているが、かなり我慢強い性格と思われる。

日ごろはいつもコンセイユと一緒に行動している様子。
 
③-4 ネモ船長
謎。

映画版と比較するとさらに謎。映画版はバックボーンが語られていたけど、原作では謎のままになっている部分が多い。

もともと設計技師で、海底に沈む沈没船の財宝や真珠などを手に入れ、無限の財力を持っている。目的を偽って世界各地から部品を集め、無人島の工場でノーチラス号を建造した。完全に地上や俗世間と決別し、仲間と共にノーチラス号で海底生活を営んでいる。食物や資源などはすべて海のものからしかとらないなど、海底での生活を徹底している。

潜水艦を設計し建造してしまうような技術者で、数字に強い理系でありながら、大量の蔵書や芸術品をノーチラス号に持ち込むインテリかつ芸術家でもある。船内にあるオルガンをよく弾いている。

偶然拾ったアロナックス教授らを船内に閉じ込め、「一生ここからは出られません」と宣言するなどの暴君の一面を持つ。無駄口を一切きかず、何人乗船しているか分からない部下たちと打ち解けた会話をする様子もなく、つねに一人で考え、一人で決断し、迷いも一切ない孤高の人。自分の船室に閉じこもっていることも多い。

アロナックス教授とはよく会話している。無駄口はなく、話題はほとんどがノーチラス号の説明、海底の説明に費やされている。コンセイユとネッドとは、会話することはほとんどない。

冷血漢かと思いきや、部下を失うと静かに深く悲しみ、海底の自分たちの墓場に埋葬するような部下思いの一面がある。また、1794年6月1日に英国と戦って敗北し、降伏を拒んで国旗を船尾にくくりつけてフランス万歳と叫びながら356人の水夫と共に沈んだ「マルセイユ号」を、船が沈没したのと同じ6月1日に探しあてるようなロマンチストでもある。

過去はまったく不明だが、何かに対して大変な憎悪に駆られており、復讐を誓っている。理由は分からないが祖国も妻も子も父も母も失ったらしく、船長の部屋に若い婦人の肖像画と二人の子供の肖像画がかかっていて、ネモ船長はそれを見つめてひざまづきすすり泣いていた。

③-5 ノーチラス号
ノーチラス号のしくみについては、ネモ船長は数字を羅列し、かなりの時間(枚数)を割いてアロナックス教授に懇切丁寧に説明している(難しいし長いし、興味がないからここでは省く)。

建造の際は目的を偽り、部品ごとに世界各地にバラバラに発注し、秘密の無人島で組み立てて建造した。すべて電力で稼働しており、必要な鉱物(石炭など)はすべて海底の鉱床から採取して稼働している(地上のものは一切使っていないとある)。侵入者がいた場合の電気ショック攻撃あり。

建造にかかる費用は全て海底に眠る沈没船の財宝を回収してまかなった。

一万冊の蔵書、絵画コレクション、博物学的標本(めずらしい未発見の植物、貝類、真珠)など、文化的な趣味にあふれている。食事もすべて海底で取れたものを摂取し、地上のものは一切食べない。藻で葉巻を作りハバナ産にも劣らない質を誇っている。

船内で使われる言語はどこの国の言語にも属さない謎の言語(造語)。物語のラストで、命を落とす水夫が思わずフランス語を口にする様子から、ネモ船長により発明された言語で、徹底的に叩き込まれているものと思われる。

乗組員がどこから来たのかは全く不明。

 

④ 映画版との比較【ストーリー編】


ずっと海の中にいるから展開が乏しい。本の半分くらいは景色の説明、海底の魚や海藻などの名前の羅列とその分類に費やされているのではないかと思うほど。見える景色の説明、生き物の説明、大海原の自然のしくみ、島の説明、断崖がどうの、○月○日はどのあたり、○月○日はこのあたり、緯度が何度で経度が何度、何がたくさん取れたのなんの、と延々と。

特に第二部に入ってからがキツい。アロナックス教授がインド洋について丁寧に説明してくれたあと、「そのほか、コンセイユ先生の毎日の記録にしたがって、この海に特有のフグ属の魚をいくつか列挙しよう」って・・・列挙しなくていいです・・・。


それに加えてノーチラス号のしくみについても、ネモ船長が数字を羅列して延々と説明する。そして「お分かりになりましたか」と。

全然わかりません(私)。アロナックス教授は分かってたみたいだけど。

ネモ船長はアロナックス教授に海底の秘密をどんどん明かしていくけれど、それはノーチラス号から降ろす気がないから。ノーチラス号に死ぬまで留まるのなら、いくら話をしても秘密は守られるから全然OKというわけ。


映画では、海の幸を食べなれないネッドやコンセイユが盛んに気味悪がっているシーンが印象に残るけど、原作では肉を食べたがってはいるが、海産物に対しての文句は特に言っていない。


映画同様、やはり死んだ部下の埋葬は十字架を掲げている。何を祈っていたのかは分からないが。映画版の記事でも書いたが、宗教だけは地上の既存の宗教、キリスト教を信仰しているというのが残念。


映画ではネモ船長の過去が明らかにされて、彼の憎悪の理由が分かるけど、原作ではまったく謎のままで終わる。


⑤ 感想


映画と原作ではいろいろ印象の違いはあるけれど、コンセイユとネッドは喧嘩したり、協力して事にあたったりしていいコンビなのは同じ。映画の方は言わずもがなだけど、原作でも結構ユーモラスな掛け合いをしている。


たとえばノーチラス号の窓から水族館よろしく海底鑑賞をする場面があるけど、コンセイユの方は魚の分類の講釈を延々と垂れてかなり理屈っぽいのに対し、ネッドは「食べられるか否か、またはその味」で分類していって二人はまるでかみ合わない。

でも「肉が食いたいー!」と騒ぐネッドとコンセイユ(とアロナックス教授)の希望が叶って、通りかかった島(パプア)に上陸してからは、二人して「ああだこうだ」と言いながら協力し合い、パンの木の実、ハト、カンガルー、イノシシなどを確保し、舌鼓を打ったりして、なんだかんだと気が合いそう。


私コンセイユが好きなんだけど(一番好きなのは『八十日間世界一周』のパスパルトゥなんだけど)、原作のコンセイユは生真面目がゆえのユーモアみたいなのがあって、そこが映画のコンセイユとは違うユーモラスさを醸し出している。

 

食糧調達のために島に上陸して、原住民たちを大勢引き連れてノーチラス号へ戻ってきたとき、コンセイユはアロナックス教授に向かって、

「あの土人たちのことですけれども、ご主人様のお気には入らないかもしれませんが、そう悪い人間のようには、わたしには見えません。食人種で、しかも立派な人間ということもあるはずです。大食漢でまじめな人間もいますように、両立しないことではないと思います」

と言っていた(笑)

そしてその直後(ほんとうに直後なの)、本来は右巻きのはずが左巻きの貝を発見して大興奮。ところがそこへ土人たちの投げた小石が飛んできてその貝に直撃。粉々になったのを見た途端、コンセイユは激怒して土人たちに向かって銃を発砲してた(笑)

今、今だよ、たった今やたらと善良なことを言ってたばっかりだよ(笑) 

そういう、本人はそんな笑わせる気など毛頭なくて、生真面目なゆえに起こる滑稽さみたいなのはあったと思う。

やっぱり好きだなあ。コンセイユ。



あと、ネモ船長はアロナックス教授とばかり喋って、ネモやコンセイユのことは歯牙にもかけていないふしがあるけど、これはやはり同じ知的レベルで会話できる、唯一の人物だからだろうと思う。

船員ともそういう関係ではなさそうだし、ネモ船長の饒舌ぶりを鑑みると、嬉しかったんじゃないかと。

たまたま(だと思う)著名な学者であるアロナックスを拾っちゃって、「自分の偉業を分かってもらえる!」と思って一生懸命自慢しているのかと思うと結構ほほえましい。

かりそめの友人だけど、でもよかったね、ネモ。ちゃんとネモの偉業を(悪行もだけど)きちんと記録して、残してくれたよ。



とはいえ全体としては、まあやっぱり説明部分が多くて、移動しては説明し、そこでちょっと出来事があって、また移動してネモ船長が自慢がてら説明し、海底を散歩して、また移動して説明があって出来事があって・・・を繰り返すから、説明部分に入るといきなり退屈になる。

後半はだいぶ斜め読みして凌いでしまった。


この退屈ぶりが似ているなと思いだされるのは、マルコ=ポーロの『東方見聞録』。大昔に読んだがこれはキツカッタ。

11世紀にベニスから中国くんだりまで旅行をした、その旅行記なのだけど、とにかく延々と「どこそこは○○が特産品」「△という珍しいものがあって」という特産品の羅列状態。マルコは商人だから、貿易をして金儲けするための旅なんであって特産品に注目するのは当然だが、ぜんぜん興味ないのにそれを延々と読む私(笑) 現代のだって興味ないのに11世紀の特産品なの。一個も覚えてないし(笑)

ま、「読んだ」という事実づくりにしかならないというねー。誰かがマルコ=ポーロの話をしてきたとして、あるいは『東方見聞録』の話題を振ってきたとして、その時に「昔読みましたよ」と言える、というだけ。いつ、だれがマルコ=ポーロの話題を振ってくれるというんでしょ。今のところ皆無なのだが(笑)

でもまあ、「ヤツは中国には行っていないな」みたいな、そういうのは分かるから、雑学的な観点から言えば話題にはなるかも。中国に行っていないのであれば、日本にまつわる「黄金の国ジパング」の噂も絶対に聞いてないよね。嘘つきマルコだし。

『海底二万里』の説明部分のつまらなさは、この『東方見聞録』のつまらなさに次ぐな、とずっと思っているのだった。


とはいえ、結構飽きずに読めるからこれはこれですごい。

それにたぶんこの説明部分の科学的なアプローチがこの作品の肝で、これがなければおそらく少年向けノベライズみたいな、子供っぽい冒険小説どまりで終わってしまっていただろう。

だからこれは必要な退屈さなのだった。☜ここ重要。

おわり。


 

 

 

 

映画はこちら

 

 

【本】「類猿人ターザン」バロウズ原作「ターザン」第一作・詳しいあらすじと感想【絶版】



題名 類猿人ターザン 
作者 エドガー・ライス・バロウズ
出版社 ハヤカワSF文庫 
出版年 1918年
出版国 アメリカ
ジャンル 冒険


むかーしむかし、今は亡き父から貰った文庫本はあまりに古くてページが外れてしまったため再購入。そしたら今回もまたページが外れてしまった! 昭和46年発行の古い文庫本だから・・・仕方ない。

この日本にいまさら絶版古書を探してまでして「ターザンを読もう」なんていう奇特な方はあまりいないと思うが、先日ジョニー・ワイズミュラー版の映画の感想を記事にしたし、興味を持つ方はいるかもしれないので詳しめにあらすじを記すことにする。絶版本なのでなかなか読めないから、かなり詳しいレベルで(本当は忘れちゃうからだけど)。

ちなみに原作は映画版や一般のターザンのイメージとはまったく別の話といっていい。ストーリーも違うし、登場人物の設定や性格的なものもぜんぜん違う。

単純な男ではないし、頻繁に木から木へ飛び移るが「アーアアー」とは叫ばないし、「おれターザン、おまえジェーン」みたいなカタコトでは話さないし、ジェーンはアフリカには残らずアメリカに帰国する。
 
 
 

登場人物

ターザン・・・人間。主人公
カラ・・・類人猿。ターザンの育ての母
チュブラット・・・類人猿。ターザンの義父
カーチャク・・・類人猿。類人猿の群れのボス

ジョン・クレイトン卿・・・人間。ターザンの父
アリス・クレイトン・・・人間。ターザンの母
クレイトン・・・人間。ターザンの叔父
ポーター教授・・・人間。研究のことしか頭にない学者らしい学者
ジェーン・・・人間。ポーター教授の娘
エスメラルダ・・・人間。使用人の黒人女
フィランダー・・・人間。ポーター教授の助手

 

ターザンの特徴

両親は英国貴族グレイストーク卿の血筋である。

アフリカで生まれ、子供を失ったばかりの類人猿カラに育てられる。ターザンは他の類人猿の子供と比較して異常に成長が遅いにも関わらず、カラは見捨てることなくターザンに命がけの深い愛情を注いで育てていく。

10代のターザンは裸で暮らし、素手で猛獣と格闘し、勝てばゴリラのようにこぶしで胸を叩いて雄たけびをあげ、血のしたたる肉を生肉のまま喰らう、原始人並みというか類人猿そのものの習慣を持っている。

外見的特徴は、背が高く高貴な顔立ちでハンサム、筋肉が発達していて堂々とした立派な体格を持つ。度重なる猛獣との生死をかけた格闘で体中傷だらけで、中でも額にある傷は普段は白く目立たないが、怒ると赤く浮き出てくる。

大変に知的である。1歳の時に両親を失って猿に育てられるという特殊な環境にも関わらず、限られた絵本や書物だけで独力で文字の読み書きを習得。その他にも鍵の開け方、ナイフの使い方、投げ縄の習得など、教える者が皆無の環境で独力で身に着けていく。白人と接触後は、数週間でフランス語を話せるようになり、次いで英語も習得する天才的な語学センスを持つ。
 
 

あらすじ

類人猿時代
英国貴族のグレイストーク卿ジョン・クレイトンとその妻アリスは、赴任先である西アフリカに向かう途中、乗船する船の反乱が原因で未開の地にたった二人で取り残されてしまう。アリスは男の子を出産するが、猛獣に襲われた際のショックで精神が崩壊し(英国にいると思っている)、1年後にアリスは息をひきとる。さらに1年、ジョンの隙を突いて類人猿のボス、カーチャクの集団がジョンの家を襲いジョンは死亡、幼子は子供を死なせたばかりの女の類人猿カラに連れ去られてしまう。

幼子は類人猿達に「ターザン(類人猿の言葉で「白い皮膚」の意味)」と名付けられ、カラの強い愛情に守られながら成長していく。10歳頃になると周りの類人猿達と自分の見た目の違いに悩むが、その知能の高さは成長と共に際立ち始める。

ある日ずっと気になっていた、近くにある小屋に入る決意を固めたターザンは、ドアの仕組みを理解し、中にあった本に興味を示し、文字を理解しようと熱心に取り組みはじめる。さらにナイフを発見し、ゴリラと戦い殺すことでその威力を知る。

その後、部族の敵の武将を殺したお祝いのダムダム祭りで、ターザンは長年自分を執拗に憎んできた義父チュブラット(カラの夫)と対決。チュブラットをナイフで一突きにして殺害、勝者の雄叫びを上げる。そして自分がカラ達と同類ではなく、あの小屋にあった絵本に書かれている生き物と同類であると確信。仲間からの信頼も勝ち取り、18歳になる頃には言葉は話せないが本の内容は大体理解できるまでに到達する。

 
類人猿の王となり、人間と初遭遇
ターザンはとうとう自分以外の人類と初遭遇する。原住民ムボンガ族の使う毒矢の威力を知り、彼らの集落で文明的な生活に初めて接し興味を惹かれ、彼らの持つ毒矢を盗みに度々訪れるようになる。ムボンガ族が人肉を喰う習慣があることを知り、ターザンは嫌悪感を覚える。

その後、類人猿の王カーチャクを倒して王者となったターザンは、支配者に課せられた責任や役割の煩雑さにうんざりしはじめる。やがてターザンは群れを離れ、ひとりで生活しはじめる。

ある日小屋の近くで白人と遭遇。彼らは争いはじめ、銃でひとり射殺される。初めて見た銃に驚くと共に、白人たちの卑劣さに当惑し嫌悪する。小屋を荒らされたくないターザンは、初めて覚えた文字を使って彼らに警告をする。
 
「これは、多数の野獣と黒人を征服したターザンの家だ。ターザンの所有物を荒らしてはいけない。ターザンは見張っているぞ。猿人ターザン」
 
 
永遠の恋人ジェーン、親友ダルノー中尉との出会い
ターザンは青年クレイトン、ポーター教授、その娘ジェーンらの命を幾度となく救出する。

美しいジェーンに恋をしたターザンは、彼らに獲物を届けるなどして見守るようになる。一方、ポーター教授らが乗っていた船「アロー号」の水夫らは、教授が発見した大量の金貨を奪い、あとで取りに来るつもりで島に埋め、教授らを置き去りにして出帆してしまう。


その頃、ターザンが去ったあとの類人猿たちは、新しいボスのターコズに対して反乱を起こしていた。ジェーンは、群れを追われていきり立つターコズにさらいわれてしまうが、ターザンによって救出される。自分を救ったターザンに思わず駆け寄るジェーン。ターザンにキスをされて愛を感じるが、すぐに理性的になって拒絶する。ターザンはそれがどういうことなのか分からず、ジェーンを小脇に抱えて運び去る。

ジェーンは最初こそターザンにおびえるが、すぐにターザンの逞しい男性的魅力に強く惹かれ、ターザンの高貴な風貌もあって安心感を覚えるようになる。ジェーンはターザンが首にかけているロケット・ペンダントにあったグレイストーク卿の肖像や、ターザンが持っていたグレイストーク卿の写真、彼がふと見せる優雅な物腰などに謎めいた魅力を感じる。


一方、ポーター教授らを置き去りにしたアロー号は方角を見失って漂流していた。アロー号を発見したフランス海兵隊は水夫たちから事情を聞き出し、教授一行を救出するため上陸する。行方が分からなくなっていたジェーンを探すダルノー中尉がムボンガ族につかまり、ターザンに救出される。ターザンの献身的な看護のかいあってダルノー中尉の体力はやがて回復。ダルノー中尉はターザンに語学を教えるようになる。

フランス海兵隊やポーター教授らはダルノー中尉の救出に望みをかけて捜索していたがついに断念。ジェーンを含む一行はアメリカへ帰国の途についてしまう。

 
ターザン、アメリカへ向かう
ターザンは、ジェーンが去ってしまったことを知って落胆。ダルノー中尉と共にアメリカへ向かうことを決意する。二人はまずポーター教授の宝を持ち、ダルノー中尉はまだまだ野蛮な習慣の抜けないターザンに、紳士としての振る舞いを教えながらフランスへ向かう。

ターザンが持っていたジョンの日記の記述から、ターザンがジョンの息子なのではないかと考えるダルノー中尉は、日記についていた幼子の指紋をターザンの指紋と照合することをフランスの警察に依頼する。


一方アメリカでは、大金持ちキャンラーとジェーンの結婚話が進んでいた。しかしジェーンはウィスコンシンの田舎に引っ込んで慎ましく生活する計画をすすめていたが、最終的にキャンラーに屈し、結婚を承諾してしまう。

その頃近くでは山火事が起きていた。ジェーンが火の手に囲まれるなかターザンが登場。森の中からジェーンを救い上げ、二人は再会する。ターザンはジェーンに求婚するが、ジェーンは思う。「彼はこの文明社会でうまくやっていけるだろうか。田舎者の彼を愛し続けられるかしら。そのうちアフリカでの生活が恋しくなって帰りたくなるのではないかしら」と。


ターザンがポーター教授にアフリカから彼の宝物を持ち帰ったこと、宝物を24万ドルに変えたことを話し、小切手を手渡す。ジェーンはキャンラーと結婚する理由がなくなり、クレイトンが改めてジェーンに求婚する。今のターザンからは自分がアフリカで感じたあの魔法の魅力、自分を魅了した野生のすさまじい迫力はなくなっていると感じていたジェーンは「ターザンを愛したと思ったのは、あの時の一時的な幻覚にすぎないのではないかしら」と思い、「いい人」クレイトンの求婚を受ける。


その晩、ジェーンは改めてターザンの求婚を受け、今度はクレイトンの求婚を受けてしまったことを後悔する。そこへターザンあての電報が届く。差出人はフランスからで、例の指紋が照合され、「ターザンがグレイストーク卿であることを証明する」というものだった。しかし自分がグレイストーク卿の正式な後継者であることが明らかになると、称号も財産も、何もかもすべてをクレイトンから奪うことになり、彼と彼の求婚を受けたジェーンの人生が大きく変わってしまう。「なぜジャングルに住んでいたのか」とクレイトンに問われたターザンは、こう答えるのだった。
 
「ぼくはあそこで生まれたのです。母は類人猿でしたから、もちろんぼくが生まれたころのことを詳しく話せるわけがありません。ですからぼくの父がどんな人だったのか、全然わからないのです」
 
 

感想

心に残るのは、まずは類人猿カラの献身的な母性愛。
自分の子を亡くし、その矢先に手に入れた人間の子を我が子として立派に育て上げた。それも類人猿の子と比べれば格段に成長が遅い人間の子を、「この子、障害でもあるのかしら」と思いながらも決して見捨てず、危機があれば矢のように飛んで行って守り抜いた。そのカラの愛情にターザンも十分に応え、自分が類人猿ではなく人間の子であると気づいてからも変わらぬ愛と感謝の心を持ち続ける。感動的。


次にターザンがダルノー中尉から「お金」の概念を教わり、「では僕も働くよ」と言うところ。
働かないで、ターザン。そんなセリフ言わないで。アフリカの大地で、類人猿の、引いてはアフリカの猛獣の王にまで上り詰めた誇り高きターザンがやることじゃない。働くなんて・・・(>_<)クツジョクテキ。


さらにジェーンの二転三転する心の動きを「優柔不断」と言うなかれ。彼女はかなり理性的で分析的。だからこそ揺れ動くのだ。感情が高まってターザンに恋や愛を感じても、それはこんな異常事態だからハラハラしてドキドキしてるだけなんじゃないかしら、と自分の心を分析して、冷静を保とうとする。でも心は惹かれている。だから揺れる。アメリカに戻ってからも、ターザンの求婚を受け、「この野生の男は上流階級の生活に溶け込めるかしら」と考えるのは当然。そして「いつかは嫌気がさしてジャングルに帰ってしまうのではないか」と考えるのも当然のこと。そういったジェーンの心の機微がきちんと描かれ説明されている。いつかは決断してね、ジェーン。


そしてラストのターザンの台詞が泣ける。優しすぎた。



☟本は絶版。ご購入は古本となります。

 
 

【関連記事】映画版の記事はこちら

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【本】H・G・ウェルズ「タイム・マシン」古典SFの大家ウェルズ短編集~あらすじと感想~

 

題名 タイム・マシン
作者 H・G・ウェルズ
出版社 創元SF文庫 
出版年 1885年ほか
出版国 イギリス
ジャンル SF、古典、短編集、タイムトラベル

 

ほんとうに忘れてしまうので、備忘録として簡単なあらすじと感想を記しておく。


1)塀についたドア ★★★★

濃い紅色のツタの這う白い壁、そして緑色のドア。そのドアは不滅の実存へと導いてくれる・・・

ドアの向こう側には友人ウォーレスの理想の世界があった。ウォーレスが最初にそのドアを発見したのは5歳のとき。中に入ると、大理石の花壇と二頭のヒョウ、美しく慈愛に満ちた女性、同じ年頃の子供たち、楽しいゲーム・・・。灰色の味気ない家庭に育った彼にとって、そこには幸福の楽園だった。しかし彼は現実に引き戻されてしまう。その後節目節目で何度かドアを見かけるが、徐々に大人になっていくウォーレスは現実のしがらみから扉を開けることなく通り過ぎる。8才の時の通学途中、17歳でオックスフォードの奨学金資格試験に向かう途中、恋人に会いに行くとき。その後も何度もドアを見かけるが、彼は一歩踏み出すことが出来ない。そして中年にさしかかり、ドアを素通りしてきたことを激しく後悔していたウォーレスは、とうとうドアを開け、楽園へ向けて一歩を踏み出したと思われるのだが。

感想 :
ウォーレスが脱出したのかどうかいろいろと考えさせられるが、私はウォーレスは脱出したと思う。そして私も脱出口を見つけたい(切実に)。でもまさに今、私が脱出口だと思っているドアの向こうは果たして楽園だろうか。そこが楽園かどうか分からない私にドアを開けられるだろうか。楽園だと確信していたウォーレスでさえ開けることができなかったわけだが、最終的に彼は開けた。私にその勇気を持てる日がくるだろうか。

 

2)奇跡を起こせる男

主人公は奇跡など全く信じない男。ところが酒場で「俺は奇跡など信じない」という話をしていたところ、彼はランプをさかさまにして空中で止め、それでも燃え続けるという説明のつかない現象を起こしてしまう。意図せず奇跡を起こせる男になってしまった主人公は、奇跡の実験のさなか警官に見つかり、面倒くさくなって警官を地獄に送ってしまう。すぐに思い直してサンフランシスコへ移すが、そのことが気になって仕方がなくなり牧師に相談をしに行く。牧師の方は「奇跡が起こせるすばらしさ」の方にばかり気を取られて主人公の悩みを全然聞いていない。しかもそのうち地球の自転を止めようと言いだして、人類をいったん滅ぼしてしまう(すぐに修復するのだが)。

感想 :
ドラえもんの「独裁スイッチ」に共通するところもある本作。主人公は基本的にたいへん善良なので大きなことは出来ないのだが、思わず警官を地獄に送ってしまってだいぶくよくよしている。私も地獄、送っちゃうかもなあ。日本人だから「地獄に」とは思いにくいが、「死んじゃえ!」とかは普通に簡単に思いそう。

奇跡の使い方として、ご飯を出したりするくらいなら全然かまわないが、他人の性格を変えてしまうなどというのは全く容認できない。それにしても牧師の方はまったく偽善的かつ独善的。ただ自分好みに他人や世の中を変えようとしていているだけのくせに、善行を施しているつもりになっているのが全く気に入らない。許しがたい。

私としては「これを願ったら、こうなって、ああなって、ええと・・・」って、バタフライ・エフェクト的に先々まで考えなくちゃならなくなりそうで面倒くさいからこんな常識はずれの能力はいらない。

ただ、急に地球の自転が止まった大惨劇の中、主人公がたった一人で「どうしようかな」と思っている姿を想像すると絵になるなあと思った。

 

3)ダイアモンド製造家

主人公はある日出会った貧しそうな男に、「自分はダイアモンドを人工的に作り出す技術を開発した。この技術が一般化される前にできるだけ売って大儲けしたい。しかし開発に金がかかりすぎて無一文になってしまい、材料費すら準備できない。だから買ってほしい」と持ちかけられるが、その金額が自分の全財産に匹敵する金額だったために躊躇してしまい、あとになってから「買っておけばよかったかもしれない」と後悔する話。

 

4)イーピヨルニスの島

主人公は、何百年も昔に絶滅した鳥類イーピヨルニスの卵を発見する。大発見に興奮する主人公だったが、いろいろあって漂流してしまい、卵と共に無人島へ流れ着く。しかもその卵は特殊な環境下で保存されていたためまだ生きていた。孵った卵から生まれた鳥イーピヨルニスとの無人島生活が始まるが、鳥は徐々に凶暴な本能を現し始める。主人公は最終的には鳥を殺してしまうが、あんな凶暴な鳥でも孤独よりはマシだから生かしておけば良かったと思う、という話。

 

5)水晶の卵 ★★★★★

ウェルズの代表作『宇宙戦争』の前日譚と思われる作品。骨董屋の主人が偶然手に入れた卵形の水晶をのぞくと、そこには火星に住む火星人の様子が見える、という話。

感想 :
今まで読んだウェルズの小説の中で一番好きな作品。後日、地球を侵略してくる火星人が(『宇宙戦争』)、その準備のために地球を観察できる機械(水晶)を地球の各地に送り込み、それを通して地球人を綿密に観察していると思われる様子が描かれる。主人公の骨董屋が、まさか後年その火星人が地球を侵略しに来るとは夢にも思わずに水晶をのぞいているのかと思うと胸アツ。詳細は下記リンクを参照されたい。

www.mlog1971.com

 

6)タイム・マシン ★★★★

タイム・マシンの開発に成功した主人公は未来へ向けて旅立ち、80万2000年後に到着する。そこで出会った人類は地上と地下に分かれて生活しており、現在とは全く違う存在となっていた。

地上に住むエロイたちは、若く美しく金髪で白人、きゃしゃな少年少女しかおらず、いつも無邪気に戯れていて、果物しか摂取しないような無垢な人々。美しいだけで頭は空っぽの、役立たずな存在になっている。反面、地下に住むモーロックの容姿は、濁って灰色がかった白い肌、赤灰色の目、黄色い髪、ぐにゃぐにゃの皮膚と肉体でかなり醜悪。しかし地下でそれなりの機械文明を維持しているよう。いずれにしても、人類が長い時間をかけて築き上げてきた知恵と英知は完全に失われていた。タイムトラベラーはモーロックと対峙した後、さらに未来の3000万年後の地球へも向かう。

感想 :
『宇宙戦争』に並ぶウェルズの代表作。映画と違って主人公は「タイムトラベラー」と呼ばれるだけで名前は分からない。映画版は地底人の方のモーロックの着ぐるみ感がやや滑稽なためシリアス度が損なわれていたり、エンディングが前向きだが、原作の方はディストピア感がかなり強い。

地上には美しく豊かな人が住み、地下には奴隷のような労働者が住んでいるということで『メトロポリス(1927)』の世界観に似ている。産業革命真っただ中に書かれた『タイム・マシン』からはじまり、機械工業化に拍車がかかっていく『メトロポリス』の世界を経て、そのずーーーっと先にこの『タイム・マシン』の80万年後の世界がある、という感じ。

現実の私たちは別に地下に閉じ込められて働かされたりはしていないので、今のところはこの『タイム・マシン』や『メトロポリス』の世界を経過していない。でも、うっかりすればそうなってしまうかも、というきわどい感じもあって、ここで描かれるエロイとモーロックの姿はまるで私たちの未来のパラレル・ワールドのよう。

これが人類の未来なのかと思うと気が重くなる。でも80万年後だから・・・。まあいっかあ。