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1999年までの映画しか取り上げないブログ

【映画】「ベン・ハー(1959)」~だけどイエスさまの物語~



おすすめ度 ★★★★★

題名 ベン・ハー (Ben-Hur) 
監督 ウィリアム・ワイラー
脚本 カール・タンバーグ、ゴア・ヴィダルほか
原作 ルー・ウォーレス「ベン・ハー」(1880)
出演 チャールトン・ヘストン、スティーブン・ボイド、ジャック・ホーキンス
上映時間 212分
制作年 1959年
制作会社 MGM
制作国 アメリカ
ジャンル スペクタクル、キリスト教、宗教、アンドリュー・マートン
 


スペクタクル映画といえばこれ!と言われやすい、かなりスペクタクルな映画で、ユダヤの王子ジュダ・ベン・ハーと、ジュダの幼なじみでローマ人のメッサラ、そしてイエス・キリストの物語。
 
いつのことだったか(遠い目)一番最初に見た時、チャールトン・ヘストン(ジュダ・ベン・ハー)が主役だと思って観たから、映画の終盤で「??? これは・・・ベン・ハーの物語じゃないの? なんかイエスさまの映画みたいになったじゃん。へんなの」って思ったものだけど、実はこれは変じゃない。

ついベン・ハーのお話だと思ってしまうが、これはキリストさまのお話なのです。
 
その証拠に、私は原作は読んでいないけど(持ってるけど)、原作の原題は「Ben-Hur: A Tale of the Christ」となっていて、やはりイエスさまの物語なのだった(映画はただの「Ben-Hur」だけど)。

 
ところであらすじですが、3時間半もある長い映画で、しかも見どころだらけなので真剣にあらすじ書いてみたらそれだけで4000文字(!)になってしまったので、これでも相当はしょってます。

「一体どうはしょればいいのやら。そうだ、原作持ってるから、それ参考にしよう」と思って本棚から取り出して裏表紙確認したら、あらすじがない!! 新潮文庫だから裏表紙に超短いあらすじが載ってるのが常なのに、表裏が一枚絵のカバーイラストになってる!

「新潮文庫めー。あらすじまとめるの大変だから逃げたな!」って気分になった。それくらいまとめるの難しかった。でもこれ以上カットするのは私には無理です。必要ない方は飛ばしてください。
 
 

簡単なあらすじ

イエス・キリストが生まれてから死ぬまでの間のイスラエルが舞台。基本的にはイエスとなんの関係もないユダヤの王子ジュダ・ベン・ハーと、ユダヤを支配するローマ人の幼馴染メッサラの確執を、迫力満点に描く。


ジュダとメッサラは仲の良い幼馴染だったが、大人になって再会するとメッサラはすっかり出世のとりこになっていて、ジュダに国を裏切ってローマに協力するよう言ってくる。それをジュダが断ったことから確執に発展。メッサラの嫌がらせでジュダは奴隷の身に落とされ、愛する母と妹は牢にぶちこまれてしまう。ジュダはメッサラへの復讐を誓う。

奴隷として砂漠を連行されガレー船漕ぎとなり数年、運よく将軍アリウスの命を救って彼の養子となり、ローマで貴族として生活することとなる。しかし故郷へ帰って母妹を探すこと、メッサラへの復讐を忘れてはいないジュダは、とうとうイスラエルに戻る許可を得る。

故郷へ帰る道すがら、「あの方」を探すバルタザールや、戦車レースに情熱を注ぐアラブの族長と出会う。故郷に戻ったジュダは使用人サイモニデスとその娘エスターと再会するが、母と妹の行方が分からない。母妹の行方を捜すためにメッサラと対峙し、「母と妹を探して自分の元に返せ。そうすれば復讐の誓いを忘れてやる」と凄む。

実は母妹は牢でライ病を発症し「業病の谷」に追放されていた。それを知るエスターは、二人からジュダには自分たちの事を黙っているよう懇願され「二人は死んだ」と嘘をつく。ジュダは悲しみのあまり改めてメッサラへの復讐の念を深める。


・・・・・・ここでインターミッション・・・・・・

以前出会ったアラブの族長がメッサラに会いに行き、メッサラを挑発してジュダとの戦車レースに引き込む。メッサラは自分の勝利に全財産を賭けて挑むことになる。

レース当日。卑怯なメッサラはあの手この手で卑劣な行為を繰り返すが、その攻撃をかわしたジュダが優勝しピラトに祝福される。ジュダの反撃にあって落馬したメッサラは致命的な重傷を負う。レース終了後、瀕死のメッサラはジュダの母と妹がまだ生きていて業病の谷にいると告白する。メッサラは死の際にあっても「見分けがつくかな」とジュダに皮肉を言い、「レースはまだ終わってはいない」とうそぶく。

業病の谷へ母妹を訪ねるジュダだったが、二人の世話をしていたエスターに二人の意志を聞かされ、会わないよう諭される。会うのを断念したジュダは、その帰りにバルタザールと再会する。バルタザールは絶望の淵にいるジュダを「あの人を見つけた。一緒に話を聞きに行こう」と誘うが、ジュダは「ピラトに会いに行く」と言って断る。ピラトに会ったジュダはローマ市民であることを放棄し、ピラトはジュダを追放する。

再度母妹に会うため谷に向かったジュダはエスターと共に二人を抱きかかえ、病気を治してもらうべく「あの方」の元へ向かう。ところが「あの方」イエスはすでに囚われ、磔にされる直前だった。イエスを追う一行。イエスの姿を初めて見たジュダは、奴隷となって連行される途中、自分に水をくれた人物がイエスであったことを知る。思わずゴルゴタの丘まで追いかけるジュダ。磔にされるイエスをバルタザールと共に見守る。

ジュダらが見守る中、いよいよイエスが絶命すると、まるで夜のように真っ暗になる。すると母妹の体が痛み出し、痛みが治まるとライ病が癒えていた。ジュダもイエスが息を引き取る瞬間の「父よ 彼らを許したまえ」の言葉を聞き、自分の運命やメッサラへの憎しみもぬぐい去られてしまう。ジュダが病気が治った母妹とエスターを抱きしめ、物語は終わる。
 
 

イエスさまのこと

イエスが出てくるシーンは非常に少ないけれど、冒頭からラストまで、要所要所にさりげなく出てくる。このイエスの描き方がとてもニクイ。考え抜かれていて、良く出来てる。

映画はジュダ目線で進んでいくが、途中でジュダはイエスと会ったり、ニアミスしたりする。その時私たちは「あ、イエスは今ここか」みたいに、イエスの足跡を確認できるようになっている。「あ、生まれたんだな」からはじまって、「お、イエス、自覚出てきたな」とか「ははあ、道を探してるな」とか、「覚醒したな」とか、「布教活動がうまく行きはじめてるな」とか、「問題になってきてるなあ」とか、「いよいよかあ」とか。

この、イエスの描写のさりげなさは、例えばジュダが奴隷として連行されるシーンでイエスはジュダに水を与えるのだが、手と後姿だけしか映らない。山で布教しているシーンでも、超遠方に立っているのが分かるだけ。

イエスを見せずに、イエスを周りの人物の演技をじっくり見せて、その演技を通してイエスの神性を表すという、うまい演出。(ついでに言えば、メッサラの部下が地下牢にジュダの母妹を探しに行き、二人がライ病に侵されていることが発覚するシーンでも、同じ演出方法が使われている。二人を映さずに、二人を見た部下たちの表情で病気の凄まじさを想像させている)。


イエスが出てくる、あるいは存在が描かれるシーンを抜粋しておく。

① イエス生まれる(東方の三賢人が祝福)(前篇 0:08:25頃~)
② イエスは「父の仕事を手伝う」と言って、父ヨセフの仕事を手伝わない。(前篇 0:15:00頃~)
③ 奴隷として連行され、家の前を通ったジュダに手渡しで水を与える。(前篇 1:01:05頃~)
④ 説教のため、人々が集まる丘に立つ。(後篇 0:45:40頃~)
⑤ 裁判からゴルゴダの丘まで。(後篇 1:04:00~)

たしかこんなもんかと思う。
 
 

イエスの父ヨセフについて思うこと

ところで家業の大工仕事を手伝わず、「父の仕事をする」と言って山に行ってしまう息子を持ったヨセフの心境やいかに。

まあイエスと言えば生まれ方が「ああも派手」だから、ヨセフも別に気にしないのかなあ。なんたって「処女解体」なのだから、マリアの腹が大きくなっていくのは自分のせいではないとヨセフは分かってただろう。おまけに生まれる時にはお星さまが厩を照らして祝福し、東方の三賢人がうやうやしく贈り物を持って遠路はるばる駆けつけるという仰々しさ。

でも映画でのヨセフの演技というか演出が、ちょっとヨセフ寂しそうなんだよね。もし「俺の息子は偉いんだぞ。ちょっと他のやつとはレベルが違う」って思っていれば、もう少し自信持っていそうなのに、映画ではなにかこう腑に落ちていないというか、息子イエスの「父の仕事をする」発言や行動に疑問を持っているように見えるんだよね・・・

イエスったらヨセフのことなんて眼中になさそうで、ガン無視って感じだし。その時のヨセフは「俺にはなんかよく分からないけど、これでいいんだろうな。自分が凡人で、ちょっと寂しいな」みたいな感じに見える。

とはいえイエスもジュダに水をあげる直前は家具か何か作ってたので、ヨセフの仕事を手伝ってもいたのでしょう。
 
 

海戦シーンと戦車レースシーンは言わずもがな、見どころ満載

イエスの事ばかり書いているけど、ジュダ関連でも大変見どころが多い。もちろんアンドリュー・マートンのスタント演出で有名な海戦シーンとか戦車レースシーンとかもしかり。

というか見どころしかない。


ガレー船同士の戦闘の場面は25分位続くけれど、ミニチュアとは思えない迫力。

でも個人的には戦闘シーンそのものではなく、そこに至る前、船底の奴隷たちが漕いで漕いで漕ぎまくる、「ガレー船システム」とでも言うべきシーンが迫力だった。

木槌を打ち付ける音のテンポに合わせて漕ぐんだけど、木槌のテンポがどんどん上がり、漕ぐスピードがぐんぐん上がっていく。スピードが上がるにつれて脱落していく奴隷たち。それを冷徹に観察するアリウス。

画面は、まあ言ってみれば大勢の裸の男たちが船を漕いでいるだけなのに、すごい迫力。丸3分間、漕いでるだけ。なのに惹き込まれる(裸だからじゃないよ)。


そして戦車レースの迫力の凄さは・・・筆舌に尽くしがたい。「これ、誰か死んでるよね」っていうレベル(実際は誰も死んでいないらしい)。

でも、戦車レースのシーンに関しては誰もが言及すると思うから、やっぱり個人的にはレースが始まる前のシーンを強調したい。

広い競技場を、4頭立てのチャリオットが9騎、ぐるっと一周するシーンをじっくりと時間をかけて見せていくあたりがすごく豪華。時間的にも3分間もの時間を費やしている。現代ならこういうシーンは無駄だと思われてカットされるのではないか。

「豊か」とは、こういうことを言うんだろう。「豪華」とか「豊か」というのは、裏を返せば「無駄」だから、こういうことに時間と労力と莫大な金をかけるということが「文化的豊かさ」なんだろうと思うなあ。白人ってこういうの得意。城とか宮殿とか、カソリック系の教会とか。金のかけ方がハンパない。好きです。
 
 

この映画を監督したウィリアム・ワイラーと、MGMのこと

監督のウィリアム・ワイラーは、前作(1925年版)にもスタッフのひとりとして参加していて、両方に携わった唯一の人らしい。なるほど。両方見ると、1925年版に参加していたというのが分かる。だってやっぱり、ほとんど同じだもの(悪口ではありません)。1925年版はサイレントでモノクロ時代だから、それがトーキー&テクニカラーの時代になれば、これほどの映画だものトーキー&カラーでも撮っておきたいって、スタジオが考えるのは当然だと思う。そして大成功している。

MGMにとっての「ベン・ハー」ってすごく重要な映画で、1925年ラモン・ノヴァロ版は1924年創設のMGMが翌年放った超大作で、制作には当時の金額で390万ドルを投下してしまうという、すごい経営判断。できる?普通。しかしこれが大ヒットして、後のMGMの基礎を作ったと言われている映画。

そして今作の1959年チャールトン・ヘストン版も、経営不振に陥っていたMGMを救った作品と言われているし、MGMの超大作は結果を出していた。

しかし時代が1960年代に入っていくとミュージカルも大作も姿を消していき、ニュー・シネマ的な低予算映画が主流になっていくから、残念ながらMGMの時代は終了するのでした。仕方ない。


しかし改めて思うけど、この映画の監督ってウィリアム・ワイラーなんだよなあ。「そっか、ウィリアム・ワイラーなんだ」って思って、すぐ忘れちゃって、久しぶりに観た時に「あ、そうか、ウィリアム・ワイラーなんだった、そうだった、そうだった」って改めて驚く。

ワイラー監督と言えばオードリー・ヘップバーンの「ローマの休日」「おしゃれ泥棒」とか、バーバラ・ストライザンドの「ファニー・ガール」とかがパッと思い浮かぶから、こんな「ベン・ハー」みたいな映画も撮るんだなあ、とびっくりする。この幅の広さってすごい。信じられない。ワイラーって文芸作品の人でもあるらしいから、軽めのロマンス映画からスペクタクル巨編から人間ドラマまでということになる。それだけ人間の幅が広いってことなんだろうなあ。


急に話が変わるようだけど、映画の最後の方で、らい病の母妹を連れてジュダがイエスの元へ行くシーンで、盲目の乞食にお金をやるシーンがあるんだけど、母妹がらい患者と気づいた人々が叫びながら石を投げるのを聞いて、この乞食、ジュダがお金を入れた器をひっくり返して地面に捨てるんだよね。

「おい!じじい!」って思ったよ。そういうシーンをさりげなく入れる演出、好きです。
 
 

ジュダとメッサラの関係(同性愛説について)

そして「ジュダとメッサラの同性愛説」ですが、要はジュダとメッサラは昔、両想いの同性愛カップルで、久しぶりに再会したメッサラは「うれしい、また会える♡」って喜んでいたのに、ジュダは冷たくあしらった、それで因縁の対決と化していったという、そういう映画だというやつ。

この設定を入れたのが、脚本家のひとりゴア・ヴィダル。「ベン・ハー」の脚本には5人が関わっているらしいですが、諸事情あってカール・タンバーグだけがクレジットされたらしく、彼はクレジットされていません。

DVDについているメイキング映像でじっくり語られているけど、ヴィダルは自分がゲイだから張り切ってゲイ映画にしようとして、ワイラー監督に「これはベン・ハーなんだぞ」って注意されたと。要するに「イエスさまの映画なんだぞ」って意味でしょう。なのに「大丈夫、わからないように書くから」って言って、ジュダとメッサラの痴話喧嘩として書いた、と言っている。

ヴィダルといえば『カリギュラ(1980)』の脚本もヴィダルなのだった。はーなるほどねー、あーねー。

そして今回知ったけれど、ゴア・ヴィダルって映画に出演もしているらしく、あの『ガタカ(1997)』の航空宇宙局長役がヴィダルだったらしい。そういう風に考えてしまうと『ガタカ』もちょっとゲイっぽい映画でもあったような気がしてくるから不思議だ(ヴィダルは出てるだけだけど)。今度見返してみよう。



で、映画は実際にゲイっぽいのか。

うーん、私にはよく分からなかった。今回は事前に知っていたから、勤めてそういう目で見てみたけど、それでもそんなに思わなかったなあ。私が女だから分からないのかもしれない。

とはいえ「言われてみれば・・・」と思うところは無くはない。無くはない、というか確実にあるので、それを書いておこうと思う(分かったんじゃん)。


まずはやっぱり最初のジュダとメッサラの再会シーン。メッサラはすごい傲慢で、自信家ぶりがすごくて、「少数のユダヤ人の命が何だと言うんだ?」とか言っていた。言い切るなあ。支配者層とはそういうものか。だけどメッサラはジュダの事は大好きなんだよね。ジュダがユダヤの王だから利用しようとかそういう欲得ではなく、本当に好きで、「一緒に出世しようぜ!」「お前もこっち来いよ!二人で皇帝の横に立とうぜ!」みたいなノリで誘ってる。それをジュダは「お前何言ってんの?オレが裏切るわけないじゃん」って言って断る。メッサラ、好きなのにフラれて超怒る・・・という展開。


で、最期の戦車レースの後のメッサラ死にゆくシーンは、もっとそれっぽく見える。瀕死のメッサラは、「ジュダは来る!あいつは必ず来る!!」って言って手術させないんだけど、もう命がけで愛する男を待ちわびるっていう感じ。今すぐ片脚を切断しないと死んでしまうって言ってるのに、「片脚で奴と会うわけにはいかん」とか息も絶え絶えに言っちゃって、一目見ないと死ねない感じ。愛憎渦巻くゲイ・カップルの壮絶な別れのシーンだと思うと、ちょっと怖かった。(メッサラ、死んだよね? 最後、医者が布をかけてるから手術はしないという意味で、だから死んだんだと思うんだけど)


しかし権力者と喧嘩すると、家族は地下牢に閉じ込められちゃうし、奴隷にはされるし、ガレー船漕ぎはやらなくちゃならないし、戦車レースで命を賭けなくちゃならないし、落馬して死ななきゃならないしで、ドラマチックになるにも程がある。人生の浮き沈みがすごい。



でも、最も「これがゲイ映画である一番の証拠か?」と思ったのは、戦車レースでジュダの隣に現れる従者の少年でしょう。これ、必要?(笑)

物語には何の関係もない少年が、レース間際になると突然現れてやたらと目立つんだけど、これが美少年なんですよ、無駄に。名もなき壁の花でしかない役なのにやけにクローズアップされていて、「ご主人様がんばって♡」みたいな感じで出てきて、レース後にはジュダが肩叩いて抱き寄せたりなんかして、少年、超嬉しそうなの。最後しっかりアップになったりなんかして。なんで? ストーリーにはなーんの関係もない少年なんですよ。

他の騎乗者の従者は別にごく普通の男たちなので、これはやたらと意味ありげに目立ちます。これ見ると、監督もそのつもりでキャスティングしたな、と思わざるを得ない。「ヴィダルの期待に応えてやるか」みたいな感じでしょうか。

ま、だから何だという話ではないですけどね。一応、見る人が見ればそういう映画でもあるよ、という話でした。


しかしメッサラ役のスティーブン・ボイドはこの役にぴったり。とにかく鼻の穴が立派。いかにも傲慢そうな、強欲そうな、すべてを吸い込みそうな鼻の穴で、この鼻の穴で配役が決まったと思うな、私は。


この映画のDVDには、メイキングが58分も収められていて、上記の撮影秘話はもちろんのこと、原作にまつわる秘話、舞台版の秘話、1907年版の制作秘話、1925年版の制作秘話も、映像と共にふんだんに盛り込まれていて、大変おすすめです。




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