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【映画】「泳ぐひと(1968)」主人公の自己欺瞞が暴かれていく~詳しいあらすじと解釈~

 
おすすめ度 ★★★★★

題名 泳ぐひと

監督 フランク・ペリー
原作 ジョン・チーバー「泳ぐ人」1964年
出演 バート・ランカスター
上映時間 95分
制作年 1968年
制作国 アメリカ
ジャンル 不条理劇、ドラマ、密室
 
 

主役で出ずっぱりのバート・ランカスターは最初から最後まで海パン一丁の衣装代いらず。このころ55歳くらい。そして「難解な映画」としても知られている本作。

ある男が、知人のプールからプールへ泳ぎ渡りながら自宅へ帰ろうと思いついて実行するが、徐々に自分を取り巻く世界が歪みだし、最後は自分が地面にのめりこむような絶望感を感じて打ちのめされるという、不条理すら感じさせる怪作。

一度見たらもう一度見直さずにはいられない。一度見ただけでは理解するのが難しい、難解な映画。派手な展開は全くなく、ただただプールからプールへと泳ぐだけの作品なのに不思議と世界に引き込まれ、見終わった後も「これはどういう映画なんだろう」と、いつまでも頭から離れない異色作だった。

この映画はこんなネタバレ記事など読まずに、先入観なく見てもらいたい(だからブラウザバックしていいですよ)。

とはいえこれは映画ブログなので、まずは詳しいあらすじを紹介してから映画の解説と一般的な解釈を、つぎに私の独断の解釈を書いておく。

あらすじはかなり詳しく、長いので、必要ない方は目次から飛ばしてください。
 

 

 

詳しいあらすじ

ある高級住宅地のプールに男が海パン姿で現れ、いきなりプールに飛び込み泳ぎ切る。男はネッドといい、プールの持ち主であるダンとは友人らしい。ひさしぶりの会話を楽しむなか、ネッドはダンたちに「一緒に泳ごう」と誘うが、もう若くはないうえにパーティ疲れのある彼らに断られる。そこでネッドは、近所の人たちの家にあるプールからプールへと渡って妻と娘の待つ自宅まで泳いで帰ることを思いつく。いいアイディアだと思ったネッドは早速プールに飛び込み、颯爽と泳いだあと次のプールへと向かう。
 
次はハワードとベティの家。彼女は最近手に入れたばかりのプールの濾過装置の性能が自慢で、ベティの旦那も濾過装置が自慢だ。そして来年建てる離れとその設備に想いを馳せている。自宅の売却を念頭に置くベティとハワードに対し、「自分は売却する気はない。あの家で娘を嫁がせたい」と語るネッド。ネッドはプールを泳いで次の家へ向かう。
 
友人エリックの家のプール。しかしエリックは不在で、年老いた母親がいるのみだった。エリックの近況を尋ねるネッドだったが、「息子が病気の時に見舞いにも来なかったくせに。もう二度と来ないで」とこっぴどく非難される。ネッドは泳いで次のプールへ向かう。
 
むかしネッドの娘の子守りをしていた20歳のジュリー。若くノリの良い彼女は、プールからプールへと渡りながら自宅に帰るというネッドの思いつきを面白がってくれて、ネッドと行動を共にしてくれる。おしゃべりをし、バンカー家に寄ってプールで泳ぎ、乗馬ごっこを楽しむ二人。ネッドは足を軽く痛める。ジュリーに「子供のころのわたしの憧れの人だったわ」と言われて下心を出したネッドは、彼女にはボーイフレンドがいて、それがコンピューターが選んだ相手であると知る。年甲斐もなくジュリーを口説き拒絶されたネッドは、ひとり次のプールへ向かう。
 
次はヌーディストであるハローラン夫妻。ネッドは海パンを脱ぎ、彼らに新聞を届け挨拶をして、彼らの慈善活動にお金を寄付し、プールで泳ぎ、次の家へ向かう。
 
ネッドは道でレモネードを売る少年と出会う。複雑な家庭らしい少年の家のプールは水が張られていなかった。泳げないからと言う少年とネッドは、空のプールで一緒に泳ぐ真似をしてプールを横切り、ネッドは次のプールへ向かう。
 
次のビスワンガー家では大規模なパーティが開かれていた。大勢の参加者、山盛りのキャビア、会場の屋根に上って踊ったりと乱痴気騒ぎ。ネッドはだんだん寒さを感じるようになってくる。ネッドは自分のホットドッグ用のワゴンを見つけ、自分の知らないうちに妻のルシンダが売却していた事を知って愕然とする。そしてネッドはプールを泳ぎ切り、次のプールへ向かう。
 
昔の愛人だった女優シャーリーのプール。足に刺さったトゲを抜いてやり、そのまま足にキスをしたところをシャーリーに蹴り上げられてネッドは驚く。そしてシャーリーはかつてネッドがした仕打ちを手厳しく責めたて、泣き崩れる。ネッドはそれでも彼女の愛情にすがろうとするが手厳しく拒絶される。そしてネッドはプールを泳ぎ、次のプールへ向かう。
 
国道らしき交通量の多い道路を渡ろうとするが、車がひっきりなしに行き来してネッドはなかなか渡れない。なんとか道路を横切ったネッドは、庶民が集まる公衆プールに着く。しかし海パン姿でお金を持っていないネッドは入場料の50セントが払えず中に入れてもらえない。見知らぬ人からお金を借りて中に入るが、今度はプールに入る前に口やかましく注文を付けられてしまう。ようやくプールにたどり着くが、そこは大勢の子供や大人でごった返しており、とても泳ぐことはできそうもない。それでもネッドは人と人の隙間を縫うようにして泳ぎ切る。そこを4人の男女が待ち構えている。ツケを払えと言うのだ。そのうえ娘たちと自分を侮辱され、激高したネッドは彼らを振り払って丘を登っていく。
 
丘の上には自宅がある。しかしその自宅は廃墟と化していた。大雨の中、ネッドは崩れ落ちる。
 
 

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Di Totorosan1 - screenshot catturato da Totorosan1 dal blu-ray., Copyrighted, https://it.wikipedia.org/w/index.php?curid=4450400
 
 

映画『泳ぐひと』について

Wikipediaによると、本作はアメリカン・ニューシネマとして掲げられているよう。

一般に『俺たちに明日はない(1967)』『卒業(1967)』あたりからはじまり、『イージー・ライダー(1969)』『明日に向かって撃て!(1969)』と続いていくアメリカン・ニューシネマは、50年代60年代までのピカピカした優等生的な主人公たちではなく、今でいうところの負け犬たちを主役に添えていて、彼らの心情に共感する作風になっているところが革命だった。

だいたいの作品が一種の青春映画として作られているけれど、主人公は青春映画にありがちな10代の子供たちではなく、20歳はとうに過ぎて30過ぎてもあがいているような人物が多い。すでに実社会に出た、割と大人の主人公が社会の理不尽さに立ち向かい、打ちのめされて倒れていく。それは負けていく姿なのだけれど「格好いいなあ」と思うような作りになっているのが特徴。敗者の美学とでもいうのかなあ。

でも今作はこういった、アメリカン・ニューシネマと聞いてぱっと思いつく作品群とはまったく違っていた。



この『泳ぐひと』の難解さは、一般によくある時系列がバラバラになっていたり(『メメント(2000)』とか)、妄想まで加わっていたり(『8 1/2(1963)』とか『マルホランド・ドライブ(2001)』とか)、まるでパズルのように難解であること自体が主題になっていることが多い。


でもこの作品はそういう難解さではない。言ってみれば「文学的難解さ」だと思う。

一人の男がプールとプールをつないで一直線に自宅まで向かっていくだけのストーリーだから、時系列はふつうに流れていく。思い出話はするが、それはいたって一般的な行為だから、映画を見ていて混乱することは全くない。別に妄想が入り乱れていたりもしない。現実的なストーリー展開だ。

それなのにラストに向かうにつれてどんどん混乱してくる。「ん? え? なんかへんだな」って。

そして映画のラスト。私は不条理を感じた。
 
 

 注)映画はモノクロではありません。

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Unknown (Mondadori Publishers) - httpwww.gettyimages.co.ukdetailnews-photoactors-burt-lancaster-and-janet-langard-in-a-scene-from-the-news-photo152209295, パブリック・ドメイン, httpscommons.wikimedia.orgwindex.phpcurid=41457597による
 

『泳ぐひと』の一般的な解釈

この映画のテーマはなんなのか。DVDのパッケージにある説明を読むと「上流階級の人々を皮肉った問題作」ということらしい。

ネッドはアメリカの上流階級を体現していて、そのネッドの虚飾が暴かれていく様を描くことで、アメリカ社会も虚飾にまみれていることを明らかにしようという趣旨らしい。


ふうんそうなんだ。なんかピンとこないなあ。出てくる登場人物はほとんどが上流階級なので、全員を皮肉っているということなのだろうか。

確かにネッドも、ネッドが泳ぎながら訪ねる人々もみな上流階級の人物たちだ。プール付きの大きな豪邸に住み、庭でパーティができるような人たち。そして彼らは昼から酒を飲み、プールサイドで酒を飲み、パーティをして酒を飲み、たくさんある金の使い道とかどうでもいい話題ばかりで十分退廃しているように見える。

ネッド自身も、中年とはいえ自信満々の上流階級の男で、しかも肥え太った金満オヤジではなくハンサムで美丈夫、キザで女にもモテて、お前たちとは一味違うと言わんばかりの男。

しかし徐々にその虚飾がはがれていく。周りの人たちにどういうわけか軽く扱われていて、今のネッドは思ったほどの男ではないことが分かってくる。そして最後は貧乏人にまでコケにされてしまう。

しかも彼は裸なのだった。裸の王様。

でもここで虚飾が剥がれていくのはネッドだけで、周りの連中はこれからも何も変わらなさそうだ。


だから、、、DVDのパッケージにある「上流階級の人々を皮肉った問題作」というのは、、、うーん、やっぱりなんかピンとこないんだなあ。私はそんなに難しく考えないで見たので、私から見たこの映画がどういう映画だったかを書いておこう。
 
 

👇 劇場公開用ポスター

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Автор: Columbia Pictures - IMP Awards, Добросовестное использование, https://ru.wikipedia.org/w/index.php?curid=3832418
 
 

独自解釈によるこの映画のテーマ

まずネッドは映画冒頭、颯爽と若々しく登場し、友人達とも和気あいあいといった風で登場する。

ネッドはなんだか記憶がないのか、自分に都合の悪いことをなかったことにしているような、自分が思いたい最高の自分だけを本当の自分だと信じ込んでいるふしがあって、とても真っ当な精神状態とは思えない。

最初はともかく、映画の途中からネッドはいろいろ怪しくなってくる。だってネッドが語る「妻と娘の話」というのが「妻は元気、娘はテニスをやっている」以上の情報が全く出てこないんだもの。何度妻と娘のことを聞かれても、ネッドは「妻は元気だ、娘はテニスをやっている」を繰り返すだけなので、徐々に「ほんとにいるの?」と思えてくる。

その上、ネッドと接する人々の表情や態度からも、「おや?」と思わせる仕組みになっている。友人たちのセリフと反応で、観客たちに「なんかへんだな」と思わせるように巧妙に仕掛けられている。

だからラストは「やっぱり!」という結末なのだが、「やっぱり」と思った次の瞬間には「え、どういうこと?」と思うという、実に手の込んだ、変わったラストになっている。

精神的に病んでいる男なんだろうか。ネッドは一体、どこから来たの?



どうやらネッドは女であれば誰にでも優しいことを言うのが習慣になっている、根っからのプレイボーイ・タイプらしい。

ネッドは最初のプールであるダン家でダンの妻に歩み寄り、中年の彼女の足にキスをして「なんて美しいおみ足だ。お姫さま」と言ってのける。そしてすでに現実の中にしかいない世俗的な存在となっている彼らに向かって空の美しさを語り、プールからプールへ渡り泳ぎながら自宅へ帰ろう、そのルートを妻の名前をとってルシンダ河と名付けよう、などと言い出すロマンチストだ(たぶんもう50代半ばくらいと思われるのに)。

次のベティには「むかし君に恋してた」と心にもないことを冗談のように言えて、20歳のジュリーには足長おじさんのように援助して君を守りたいと言って口説き、ジュリーと一緒に訪ねたバンカー家でも女を褒め、ビスワンダー家でも一見パッとしない女にすら「美しい髪だ」と褒め、かつて愛人だったシャーリーには手ひどく非情さを責めたてられてもまだ口説き続けるという、あっちでもこっちでも会う女会う女に歯が浮くようなことを言ってまわり、拒絶されると「きょとん」としている鈍感さ。



そのうえ周囲の人々との会話を聞いていると金を持っているのは妻のルシンダの方で、ネッドは逆玉だったよう。出会いに関して「船で旅をしている時に自分は三等で、ルシンダは一等だった」と自分で言っているし、周りからは「財産は妻のもの」とか言われている。

どうもハンサムで押し出しの強い風貌と口の上手さで、逆玉に乗った感じがある。

そして職を世話してくれる友人がいて現在は無職らしいことが分かるし、ヌーディストの夫妻はネッドの姿を見て「金をせびられるんじゃないか」と思っているし、最後の公衆プールでは借金を返せと攻め立てられていた(子供からレモネード代を「明日払う」と言ってタダで飲ませてもらったり、市営プールの50セントを見知らぬ人に出してもらっていたのは、海パン一丁で裸だから仕方ないとしておこう)。

ところが途中で何かがあって、転落したらしい(それがなにかは具体的には語られていない)。

でも、その転落するきっかけと思われる「なにか事件のようなものの真実」なぞよりも、現在のネッドの不幸の原因は、彼が何にも分からないタイプの人間であることから来ていると思われる。

おそらくネッドは女たちに嘘を言っている自覚は全くないだろう。その時その時、目の前にいる女に対して本気で「愛している」と思っているんだろう。でも目の前からいなくなれば忘れてしまい、だから別の女の前に立つと今度はその女に「愛している」と本気で言えるのだ。彼自身はいつも本気だから、嘘ではない。けれど客観的に見れば、そういう人間をこそ「無責任」と呼ぶのだ。



ネッドは女関係だけでなく、何もかもを分かっていない。おそらく人間をぜんぜん理解できないタイプの男だ。

彼は友人と会うたびに次々と、自分がどういう人間であったのかを突き付けられて、自分が人生や人間関係に失敗していることを思い知らされるのだが、「ガーン! 俺ってそんな人間だったのか! なんて申し訳ないことを・・・自分が嫌になった。絶望。反省。恥ずかしくて消えてしまいたい」という感じではなく、

ただただぼんやりと「なぜだ、なぜだ、なぜこんな風になってしまったんだろう・・・こんなはずじゃなかったのに・・・なぜだ?」としか思っていないように見える。ラストの絶望も、後悔の嵐というよりも、「なぜなんだーーーー!」みたいに見える。
 
そんなんだから友人にも女にも「こいつなんも分かってないな」と見限られ、全てを失ってしまうのだ(子供たちが二人とも女の子という設定で、ネッドを小馬鹿にしていたらしいところもリアル)。

この映画のバート・ランカスターは実に上手い。
 
 

👇 バート・ランカスター(だいぶ若いけど)

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Hal Wallis Productions - eBay, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=19360628による
 

結論

というわけで私はこの映画は、自分が完璧のつもりだったネッドが、実は自分が失敗しているということを徐々に思い知らされていく物語として見た。

自分で自分が分からない男の物語。最初からメッキだったし、それが剥がれ落ちたのに剥がれていないことにしている男の自己欺瞞が暴かれていき、それでもまだ何も分からない男の、悲しくも割とありがちな物語としてみた。結構いるよね、こういう男(女もいると思うけど、男は目立つ)。


そして、まるで人生そのもののようだなとも思った。太陽に照らされて希望に満ちた初夏の若者が、年を取ると秋めいてきて気温が下がり、様々な限界に打ちのめされ、最後はどしゃぶりの中「若い頃に思っていたより、自分はたいした人間じゃなかったな」と気づいていくような(カナシイ)。

悲しくて、「他人事ではない」と思ったよね。

 

 

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