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割と自己流で生きています

【本】ジュール・ヴェルヌ著「海底二万里」~映画版『海底2万マイル(1954)』の原作本



題名 海底二万里
作者 ジュール・ヴェルヌ
出版社 創元SF文庫ほか
出版年 1870年 
出版国 フランス
ジャンル 冒険、SF、海洋
 
 
ディズニーで映画化もされた有名作。12年くらい前にヴェルヌ一気読みしたことがあるけど、あんまり印象に残っていなかった作品。今回、映画を見た流れで再読。改めて読んでみると前半こそ小説らしいとはいえ、途中からストーリーらしいストーリーがなくなる。海底世界一周旅行記で、海底の報告みたいな感じ。

映画とちょっと比較しつつ、本の覚書と感想をまとめておく。

① あらすじ


登場人物はたったの4人。アロナックス教授、その従僕コンセイユ、銛打ちネッド・ランド、そして「潜水艦ノーチラス号」のネモ船長。ネモはマッドってほどではないと思う。

ストーリーは映画とほぼ一緒。

19世紀、数々の船を沈め人々のあいだで話題になっていた海の怪物を探しに行く「エイブラハム・リンカーン号」に乗り込んだアロナックス教授、コンセイユ、ネッドの3人は、怪物との戦いで海に放り出され、潜水艦ノーチラス号に助けられ航海を共にすることになる。怪物だと思われていたものは潜水艦だったのだ。船長のネモから「もうこの船から下ろすわけには行かない」と宣言されて、ネモの気の赴くままに海中を進み、1年弱かけて世界(海底)を一周してしまうというお話。


細かい展開は、エイブラハム・リンカン号で出発、ノーチラス号に乗り込む、インド洋の海底で狩猟、パプア島でイノシシ狩りをして原住民に襲われる、紅海でジュゴン猟、スエズ運河の地下のトンネルで地中海へ。

ネッドの理屈に負けて脱出計画を立てるがチャンスがないまま、難破船の墓場を横目にジブラルタル海峡を抜けて大西洋へ。沈没したスペイン船の財宝、その使い道、ネモとアロナックス二人きりの深夜の海底散歩、沈んだアトランティス大陸、ノーチラス号の母港のある死火山へ。

そして大西洋を南下し、マッコウクジラとナガスクジラの激闘、マッコウクジラの群れを殺戮するノーチラス号、ネッドとネモの確執の本格化、南極探検、南極点到達、閉じ込められた氷山からの脱出劇、南アメリカ沿岸を北上、アマゾン川海域をへて七匹もの巨大タコと斧で対決、危うしネッド。ネッドをネモ船長が救いだし、ネモは失った船員を思い海を見つめながら涙する。

そして謎の船籍の軍艦との遭遇、戦闘、ネモ船長の激しい憎悪の発露、ノーチラス号からの脱出。メールシュトロームに巻き込まれ、見知らぬ漁師に救われる。

② 映画版との比較【年齢編】

 

原作とディズニー制作映画版『海底二万哩(1954)』との主な違いは、登場人物の設定。

まず年齢の印象が違う。映画の方は、アロナックス教授とコンセイユは初老的な感じ、ネッドは40歳くらいかなと私は思った。だけど原作ではアロナックス教授が40歳、コンセイユが30歳、ネッドは40歳前後、という設定。映画よりだいぶ若い。

そこで、演じていた俳優の映画公開時の年齢を確認してみた。
アロナックス教授を演じるポール・ルーカスは1891年生まれだから、63歳。
コンセイユを演じるピーター・ローレは1904年生まれだから、50歳。
ネッドを演じたカーク・ダグラスは1916年生まれだから、38歳。

ということでやはり映画版と比べると、アロナックス教授とコンセイユの方はだいぶ若い。原作+20歳というところ(ネッドは年相応だけれど)。

これはアロナックスの職業が「博物学博士」でしかも「権威」という設定によるところかもしれない。40歳でも権威はいるだろうが、映画的に考えるともっと初老の方が説得力がある。すると従僕のコンセイユも、長年(原作では10年ほど)連れ添ってきた助手だから、自然に同じように年齢を引き上げられたんだろう。

一方、ネッドは体育会系だからもっと若くしても良かったかもしれないが、豊富な経験が強調された役でもあるから、あまり若くするのも違う。ということで原作の設定どおりになったのかな。

あくまでも想像だけれど。

③ 映画版との比較【キャラクター+ノーチラス号編】

 

③-1 アロナックス教授
まずアロナックス教授は原作と映画版と比較して年齢以外は大きな違いはなく、お人柄の印象はあまり変わらない。年齢をいじっただけで、キャラクターに関して言えば映画版はかなり忠実といっていいのではないかな。博物学博士で、権威で、研究熱心で、真面目なお人柄。自由を求めないわけではないが学者としての本能から、未知の世界を知ることのできる唯一の手段であるノーチラス号での生活を割と気に入っていて、ネッドが脱出を提案してきてもそれほど乗り気ではない。学者らしく武闘派ではないが、勇気は持ち合わせており、後半巨大タコとの対決でも自分も参加して闘っている。

③-2 コンセイユ
原作のコンセイユは映画版と比較して、ユーモラスさというよりも忠誠心がとても強調された人物。冷静で几帳面、手先が器用で寡黙。アロナックス教授に10年仕えていたおかげで博物学の分類に熟練。門、亜門、綱、亜綱、目、科、属、亜属、種、変種の全段階を縦横無尽に駆け巡る。極端に礼儀正しく、いらいらするほど丁寧(アロナックス談)。

口癖は「ご主人様のお好きなように」で、アロナックスがリンカーン号から投げ出された際は迷わず追いかけて海へ飛び込み、運命を共にする。「ご主人様を見捨てるくらいなら、わたくしが先に溺れて死にます」と言っていた。アロナックス教授に忠誠を誓っているため大きな決断は自分ではせず、「ご主人様についていきます」と言って判断をアロナックスにゆだねる。

しかしそういった生真面目さが引き起こすユーモアは随所に見受けられる(本人はユーモアのつもりは全くない)。 

③-3 ネッド
映画のネッドは相当ひょうきんもので、ギターをかき鳴らして歌を歌いまくり、所狭しと駆けずり回る陽気なキャラクターだったが、原作ではそういうことは全くない。

原作では「態度は重々しく、人付き合いはよくなく、時には乱暴、人が彼の意に逆らうと激怒する」と描かれている。束縛を嫌い、活動的な体育会系。銛打ちとしての腕前を自負は相当なもので、勇猛果敢で恐れを知らない。航海中に遭遇した巨大なジュゴンや超巨大タコとの戦いも、むしろ血沸き肉躍るといったタイプ。ユーモアの類は一切ない。

銛打ちとしての腕は折り紙つきで、獲物を見つけると狩りたくて狩りたくてうずうずしている。実際ジュゴンやクジラ、巨大イカとの激闘の際に活躍。とはいえラスト近くの巨大イカとの戦いではネモ船長に命を救われる場面も。

魚やカメ、ウミドリなどの肉では満足できず、四足の動物の肉が一切食べられないことに大きな不満を持っていて、島に上陸できるチャンスを逃さず大量の肉をゲットし舌鼓を打った。結果、大勢の人食原住民を引き連れて戻ることに。

ノーチラス号に滞在中、チャンスを見つけて何度か脱出を試みるが天候などに恵まれずその都度失敗。とはいえノーチラス号に一年以上も閉じ込められていても、映画ほどはこれといった事件を起こさない。扱いにくそうな人物に描かれているが、かなり我慢強い性格と思われる。

日ごろはいつもコンセイユと一緒に行動している様子。
 
③-4 ネモ船長
謎。

映画版と比較するとさらに謎。映画版はバックボーンが語られていたけど、原作では謎のままになっている部分が多い。

もともと設計技師で、海底に沈む沈没船の財宝や真珠などを手に入れ、無限の財力を持っている。目的を偽って世界各地から部品を集め、無人島の工場でノーチラス号を建造した。完全に地上や俗世間と決別し、仲間と共にノーチラス号で海底生活を営んでいる。食物や資源などはすべて海のものからしかとらないなど、海底での生活を徹底している。

潜水艦を設計し建造してしまうような技術者で、数字に強い理系でありながら、大量の蔵書や芸術品をノーチラス号に持ち込むインテリかつ芸術家でもある。船内にあるオルガンをよく弾いている。

偶然拾ったアロナックス教授らを船内に閉じ込め、「一生ここからは出られません」と宣言するなどの暴君の一面を持つ。無駄口を一切きかず、何人乗船しているか分からない部下たちと打ち解けた会話をする様子もなく、つねに一人で考え、一人で決断し、迷いも一切ない孤高の人。自分の船室に閉じこもっていることも多い。

アロナックス教授とはよく会話している。無駄口はなく、話題はほとんどがノーチラス号の説明、海底の説明に費やされている。コンセイユとネッドとは、会話することはほとんどない。

冷血漢かと思いきや、部下を失うと静かに深く悲しみ、海底の自分たちの墓場に埋葬するような部下思いの一面がある。また、1794年6月1日に英国と戦って敗北し、降伏を拒んで国旗を船尾にくくりつけてフランス万歳と叫びながら356人の水夫と共に沈んだ「マルセイユ号」を、船が沈没したのと同じ6月1日に探しあてるようなロマンチストでもある。

過去はまったく不明だが、何かに対して大変な憎悪に駆られており、復讐を誓っている。理由は分からないが祖国も妻も子も父も母も失ったらしく、船長の部屋に若い婦人の肖像画と二人の子供の肖像画がかかっていて、ネモ船長はそれを見つめてひざまづきすすり泣いていた。

③-5 ノーチラス号
ノーチラス号のしくみについては、ネモ船長は数字を羅列し、かなりの時間(枚数)を割いてアロナックス教授に懇切丁寧に説明している(難しいし長いし、興味がないからここでは省く)。

建造の際は目的を偽り、部品ごとに世界各地にバラバラに発注し、秘密の無人島で組み立てて建造した。すべて電力で稼働しており、必要な鉱物(石炭など)はすべて海底の鉱床から採取して稼働している(地上のものは一切使っていないとある)。侵入者がいた場合の電気ショック攻撃あり。

建造にかかる費用は全て海底に眠る沈没船の財宝を回収してまかなった。

一万冊の蔵書、絵画コレクション、博物学的標本(めずらしい未発見の植物、貝類、真珠)など、文化的な趣味にあふれている。食事もすべて海底で取れたものを摂取し、地上のものは一切食べない。藻で葉巻を作りハバナ産にも劣らない質を誇っている。

船内で使われる言語はどこの国の言語にも属さない謎の言語(造語)。物語のラストで、命を落とす水夫が思わずフランス語を口にする様子から、ネモ船長により発明された言語で、徹底的に叩き込まれているものと思われる。

乗組員がどこから来たのかは全く不明。

 

④ 映画版との比較【ストーリー編】


ずっと海の中にいるから展開が乏しい。本の半分くらいは景色の説明、海底の魚や海藻などの名前の羅列とその分類に費やされているのではないかと思うほど。見える景色の説明、生き物の説明、大海原の自然のしくみ、島の説明、断崖がどうの、○月○日はどのあたり、○月○日はこのあたり、緯度が何度で経度が何度、何がたくさん取れたのなんの、と延々と。

特に第二部に入ってからがキツい。アロナックス教授がインド洋について丁寧に説明してくれたあと、「そのほか、コンセイユ先生の毎日の記録にしたがって、この海に特有のフグ属の魚をいくつか列挙しよう」って・・・列挙しなくていいです・・・。


それに加えてノーチラス号のしくみについても、ネモ船長が数字を羅列して延々と説明する。そして「お分かりになりましたか」と。

全然わかりません(私)。アロナックス教授は分かってたみたいだけど。

ネモ船長はアロナックス教授に海底の秘密をどんどん明かしていくけれど、それはノーチラス号から降ろす気がないから。ノーチラス号に死ぬまで留まるのなら、いくら話をしても秘密は守られるから全然OKというわけ。


映画では、海の幸を食べなれないネッドやコンセイユが盛んに気味悪がっているシーンが印象に残るけど、原作では肉を食べたがってはいるが、海産物に対しての文句は特に言っていない。


映画同様、やはり死んだ部下の埋葬は十字架を掲げている。何を祈っていたのかは分からないが。映画版の記事でも書いたが、宗教だけは地上の既存の宗教、キリスト教を信仰しているというのが残念。


映画ではネモ船長の過去が明らかにされて、彼の憎悪の理由が分かるけど、原作ではまったく謎のままで終わる。


⑤ 感想


映画と原作ではいろいろ印象の違いはあるけれど、コンセイユとネッドは喧嘩したり、協力して事にあたったりしていいコンビなのは同じ。映画の方は言わずもがなだけど、原作でも結構ユーモラスな掛け合いをしている。


たとえばノーチラス号の窓から水族館よろしく海底鑑賞をする場面があるけど、コンセイユの方は魚の分類の講釈を延々と垂れてかなり理屈っぽいのに対し、ネッドは「食べられるか否か、またはその味」で分類していって二人はまるでかみ合わない。

でも「肉が食いたいー!」と騒ぐネッドとコンセイユ(とアロナックス教授)の希望が叶って、通りかかった島(パプア)に上陸してからは、二人して「ああだこうだ」と言いながら協力し合い、パンの木の実、ハト、カンガルー、イノシシなどを確保し、舌鼓を打ったりして、なんだかんだと気が合いそう。


私コンセイユが好きなんだけど(一番好きなのは『八十日間世界一周』のパスパルトゥなんだけど)、原作のコンセイユは生真面目がゆえのユーモアみたいなのがあって、そこが映画のコンセイユとは違うユーモラスさを醸し出している。

 

食糧調達のために島に上陸して、原住民たちを大勢引き連れてノーチラス号へ戻ってきたとき、コンセイユはアロナックス教授に向かって、

「あの土人たちのことですけれども、ご主人様のお気には入らないかもしれませんが、そう悪い人間のようには、わたしには見えません。食人種で、しかも立派な人間ということもあるはずです。大食漢でまじめな人間もいますように、両立しないことではないと思います」

と言っていた(笑)

そしてその直後(ほんとうに直後なの)、本来は右巻きのはずが左巻きの貝を発見して大興奮。ところがそこへ土人たちの投げた小石が飛んできてその貝に直撃。粉々になったのを見た途端、コンセイユは激怒して土人たちに向かって銃を発砲してた(笑)

今、今だよ、たった今やたらと善良なことを言ってたばっかりだよ(笑) 

そういう、本人はそんな笑わせる気など毛頭なくて、生真面目なゆえに起こる滑稽さみたいなのはあったと思う。

やっぱり好きだなあ。コンセイユ。



あと、ネモ船長はアロナックス教授とばかり喋って、ネモやコンセイユのことは歯牙にもかけていないふしがあるけど、これはやはり同じ知的レベルで会話できる、唯一の人物だからだろうと思う。

船員ともそういう関係ではなさそうだし、ネモ船長の饒舌ぶりを鑑みると、嬉しかったんじゃないかと。

たまたま(だと思う)著名な学者であるアロナックスを拾っちゃって、「自分の偉業を分かってもらえる!」と思って一生懸命自慢しているのかと思うと結構ほほえましい。

かりそめの友人だけど、でもよかったね、ネモ。ちゃんとネモの偉業を(悪行もだけど)きちんと記録して、残してくれたよ。



とはいえ全体としては、まあやっぱり説明部分が多くて、移動しては説明し、そこでちょっと出来事があって、また移動してネモ船長が自慢がてら説明し、海底を散歩して、また移動して説明があって出来事があって・・・を繰り返すから、説明部分に入るといきなり退屈になる。

後半はだいぶ斜め読みして凌いでしまった。


この退屈ぶりが似ているなと思いだされるのは、マルコ=ポーロの『東方見聞録』。大昔に読んだがこれはキツカッタ。

11世紀にベニスから中国くんだりまで旅行をした、その旅行記なのだけど、とにかく延々と「どこそこは○○が特産品」「△という珍しいものがあって」という特産品の羅列状態。マルコは商人だから、貿易をして金儲けするための旅なんであって特産品に注目するのは当然だが、ぜんぜん興味ないのにそれを延々と読む私(笑) 現代のだって興味ないのに11世紀の特産品なの。一個も覚えてないし(笑)

ま、「読んだ」という事実づくりにしかならないというねー。誰かがマルコ=ポーロの話をしてきたとして、あるいは『東方見聞録』の話題を振ってきたとして、その時に「昔読みましたよ」と言える、というだけ。いつ、だれがマルコ=ポーロの話題を振ってくれるというんでしょ。今のところ皆無なのだが(笑)

でもまあ、「ヤツは中国には行っていないな」みたいな、そういうのは分かるから、雑学的な観点から言えば話題にはなるかも。中国に行っていないのであれば、日本にまつわる「黄金の国ジパング」の噂も絶対に聞いてないよね。嘘つきマルコだし。

『海底二万里』の説明部分のつまらなさは、この『東方見聞録』のつまらなさに次ぐな、とずっと思っているのだった。


とはいえ、結構飽きずに読めるからこれはこれですごい。

それにたぶんこの説明部分の科学的なアプローチがこの作品の肝で、これがなければおそらく少年向けノベライズみたいな、子供っぽい冒険小説どまりで終わってしまっていただろう。

だからこれは必要な退屈さなのだった。☜ここ重要。

おわり。


 

 

 

 

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