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古い映画感想ブログです。驚くほど忘れてしまうので備忘録として。

【映画】「ニューオーリンズ(1947)」音楽への愛にあふれた良作。ジャズ界の伝説的大御所たちが本人役で実演も。

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題名 ニューオーリンズ
監督 アーサー・ルービン
脚本 エリオット・ポール ほか
出演 アルチューロ・デ・コルドヴァ、ドロシー・パトリック、ルイ・アームストロング、ビリー・ホリデイ、ウディ・ハーマン
上映時間 90分
制作年 1947年
制作国 アメリカ
ジャンル 音楽、ジャズ、ラブ・ストーリー、モノクロ


「この音楽が広まればいいのに」

「越えられない壁があるからムリです」

   メラリーとデュケインの会話より



新しい音楽には乗り越えなければならない壁がいくつもあった時代。ジャズ黎明期からジャズを愛しその普及に尽力する主人公と、その主人公を愛したオペラ歌手、そしてジャズ・ミュージシャンたちの姿が描かれる。

映画全編を通して、音楽への愛に満ちあふれている映画だった。クラシック音楽へのカウンター・カルチャーとなったジャズだが、そのクラシック音楽を貶めるようなこともない。登場人物たちはみな音楽そのものを愛していて、とても気持ちの良い作品だった。


まずヒロインのメラリーを演じたドロシー・パトリックがとても良かった。真っ直ぐでチャーミングなキャラクターで、人種や音楽の壁を清々しく軽々と超えていく。気持ちいい。

美人だとは思わないけど可愛らしくって、もっと他の映画も観てみたいと思った(が、日本ではあまり有名な作品には出ていないっぽくって無理そうだった)。ちょっと能年玲奈(のん)に似てると思った。


そしてこの映画のもうひとつの大きなポイントは、ルイ・アームストロングや彼の楽団のミュージシャンたち、ビリー・ホリデイ、ウディ・ハーマンといったジャズ界の大御所たちが本人役で登場して、ふんだんにジャズを演奏してくれるところ(ビリーは歌うところ)。

ジャズ・ファンなら尚のこと必見の、明るく楽しい気分になれること請け合いの音楽映画になっている。

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****** あらすじ ******
1917年。舞台はジャズ黎明期のニューオーリンズ。賭博も営むキャバレー経営者デュケインは、町の盛り場であるベイスン通り顔利きだ。店の表側は室内楽が流れる品のいい賭博場、その裏では黒人たちを集めて夜な夜なブルースやラグタイムの演奏を楽しんでいた。

ある日、賭博場で金持ちの夫人が大負けしたとの情報が入る。ニックは彼女にブラックジャックの勝負を挑みわざと負け、負けを帳消しにする度量をみせる。

その夫人の娘メラリーは新進気鋭の若手オペラ歌手。母親に呼ばれてニューオーリンズへやってきて黒人音楽にすっかり夢中になってしまう。メラリーは黒人メイドのエンディをけしかけ、盛り場にあるデュケインのキャバレーに連れて行ってもらうが、大人で世間を知るデュケインはメラリーの未来をおもんぱかり、メラリーを店から追い返す。

その後メラリーはニューオーリンズでの歌手デビューと、指揮者でピアニストのヘンリー・ファーバーの伴奏も決まり、オペラ歌手として順調な滑り出し。伴奏のファーバーはクラシックの音楽家でありながら、黒人たちの新しい音楽のよき理解者であり、デュケインの店の常連だった。リサイタル当日、上々の出来でステージを終えようとしていたメラリーは、最後に黒人たちの音楽ラグタイムを歌う。驚いた客たちは一斉にブーイング、半数が席を立つ。それでもメラリーは生き生きと歌いきるのだった。

ところがそれが問題となりメラリーは業界から干され、メラリーの母親は自分に言い寄っている大佐の権力を使って、デュケインを町から追い出す計画を立てる。その結果、風紀が良くないことを理由にベイスン通りは封鎖され、黒人ミュージシャンたちはみな散り散りになってしまう。リサイタルで伴奏をしたファーバーも責任を問われ、「謝罪するくらいならやめる」と自分の信念を貫き辞任を申し出る。

メラリーは町を出ていくデュケインについていく決意を固めていたが、母親が先んじてデュケインの元へ行き先手を打つ。メラリーの将来を案じるデュケインは身を引いてひとりシカゴへと旅立つが、デュケインが去った理由を知らないメラリーは傷心のまま、母親とファーバーと共に新天地パリで歌手としての出直しを図る。

シカゴで再出発を図るデュケインは賭博をやめ、黒人ジャズマンたちと共にジャズの普及に人生を捧げる。
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この映画の主題は「ジャズの始まりと普及の様子」だろうとは思うのだが、主役はあくまでもデュケインとメラリーで、二人の恋模様をなぞって気楽に見すすめていくと自然にジャズの盛り上がり方がわかるという、そういう構成。

ルイ・アームストロングなどのジャズ界の大御所たちはかなり受け身の存在で、自分からジャズの普及のために白人社会に挑むとか、そういう感じにはならない。あくまでもデュケインに庇護される存在として扱われていた。

それだけでなく、彼らは恋のキューピッド的に二人の恋路を積極的に応援するとか、そういう風にすらほとんど関わってこないところが面白い。

彼らは「ただジャズをしているだけ」「空気を吸うようにジャズをしているだけ」なのだ。

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私はこの描き方がすごく面白いと思った。

簡単に言って、例えば「ジャズの歴史を描こう」と思ったら、「さまざまな意味で虐げられてきた黒人たちが白人の価値観に音楽で戦いを挑む!」とか「虐げられてきた黒人たちの音楽が世界を制覇する!」みたいな、メッセージ性のある重たい映画になったり、そうでなくても「ジャズ界のスター、ルイ・アームストロングが恋のキューピッドになるラブ・コメディにしよう」とかなんかして、アームストロングが持ち前の明るさを武器にデュケインとメラリーのために奔走するジャズマンの物語とかになっても良さそうなのに、ならない。

彼らはストーリーとほぼ関係なく、ただただジャズを演奏している。

それは通りを閉鎖され、町から出ていく羽目になっても変わらない。彼らは「ただ歌うだけ」。怒りに震えるわけでもなく、ひどく嘆き悲しむわけでもなく、ただただ「歌う」。歌で悲しみを表現し、歌いながら町を行進するだけ。

この映画の中での黒人たちは白人を敵にするわけでもないし、彼らの音楽は戦う武器でもない。「自分達が自分達であるためだけ」に歌ったり演奏しているみたいに見えた。

この「さらっとした淡白さ」はとても興味深くて、私はこの描き方は好きだったな。

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「やめろ! その音は音階にないぞ。デタラメだ。フラットとナチュラルの間の音を出した。新しい音階でも作ってるのか?」 
ヘンリー・ファーバーのセリフ



映画内で黒人ジャズ・ミュージシャンのサッチモ(ルイ・アームストロングのあだな)が、得意のコルネットを吹き鳴らしている時にクラシックの専門家であるファーバーさんが言うセリフがこれ。

途中の音を出すなよ、と。♭とか # ですらない音を出すんじゃないよ、と。

二人は音楽で信頼しあっているから別にケンカしているわけではなくて、こうファーバーさんが言った後、ルイ・アームストロング演ずるサッチモが「えへへ」みたいに照れ笑いして、すぐにセッションに戻る微笑ましいシーンなのだが、このセリフを聞いた私は「そうだよなあ。音楽ってなんなんだろうなあ」と思った。

音楽のことはまるで詳しくないのだが、たしか小学校とか中学の音楽の授業で習ったところによれば、ざっくり言うと「ドレミファソラシ」で「ド」に戻る音符を使って曲を作っているわけでしょう。フラットしたりシャープしたりはしても、結局は楽譜に置ける音符で音楽をやっているというイメージ。

でも、五線紙に置けない音はどうしたらいいのか、と。当然それ以外の音だってあるでしょう、と。

ジャズはそういうルールやしがらみを、さらりと超えていったんだろうな、と思わせるシーンだった。

ひと言でいえば「自由」。


そしてそのジャズは「クラシックvsジャズ」「白人vs黒人」「若者vs老人」「頭の固い人vs精神のやわらかい人」といった様々な対立を生んでいき、それを乗り越えて現代に至る、数々のドラマがあるのだった。


とはいえ、この映画はそう単純に「白人vs黒人」「若者vs老人」といった単純な対立には全くなっていないところも好感。

若者たちは「新しくて面白くて踊れるジャズ」にすぐに興味を示す柔軟さがあるけど、ジャズのよき理解者のひとりであるファーバーさんはクラシックの人で老人だけど、ぜんぜん「権威」にはならなくてジャズを愛しているし、メラリーのコンサートで席を立った観客も半数は残って拍手を送っている。

よかった。ステロタイプにおちいってなくて。分かる人には分かるけど、分からない人には永遠に分からないというだけだよねえ。年齢とか人種とか、関係ない。

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ところでこの映画を見ていてもう一つ思ったのが、「大人たちが眉をひそめて禁止したり邪魔をするほど影響力のある芸術が、いまあるんだろうか」ということだった。

ジャズ以降の音楽革命と言えばやはりロックンロールというものがあって、50年代後半にロックの神様エルヴィス・プレスリーは、白人のくせに黒人の音楽をやってデビューして、しかも腰を振りながら歌ってしまって、それがセックスを連想させるというのでTV放送では上半身しか映してもらえず、大人たちは眉をひそめ、「ロック=不良」のレッテルを貼られてしまい、すっかりダーティな「若者を堕落させる危険な音楽」として、たぶん70年代くらいまでは大衆音楽の頂点に立ち続ける。

ロックはその音楽性だけでなく、「生きざま」みたいな思想や哲学的な部分にまで影響を与え、ロック前とロック後の人々を大きく変えてしまったのだった。

映画だって、音楽映画ではないにも関わらず「ロックな映画」「ロックしてる映画」というのは確かにあった(音楽映画以外で「ジャズな映画」という表現は聞いたことがない)。

ロックには良きにつけ悪しきにつけ「美学」があったのだ。


それでも80年代には、ロックはすでに「死んだ」と言われていて、10代だった私は雑誌などでそういう記事や論争を読んで「なんともう死んでいるらしい」とか思っていたけど、実際確かにすっかりポップな存在になっていた。ヒットチャートでにぎわせていたのは基本的にはロックだったけど、実際そんなに言うほど不良ではなかった。

不良っぽいけど、危険な音楽では全然なくなっていたのだった。

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その後90年代になると、やたらとラップとHIPHOPの時代が来て、ビルボードあたりの総合チャートはそればっかりになり、歌やロックはどこかに消え失せてしまうのだが(なくなってはいないのだが)、確かにラップやHIPHOPの台頭はとてもインパクトのある出来事だったけど、社会的な大騒ぎになったりは、しなかった。

それどころかRun-D.M.C. がエアロスミスと一緒になって「ウォークディズウェ~イ」とか言っている頃は、ちょっとイロモノ的な、変わった音楽だな、くらいにしか思わなかった。

それがまさかこんなに育って成熟していくなんてなあ。あの時は全く思わなかった。


そんな具合に私の世代は、ジャズへの弾圧とかロック禁止とかを経たその後の世代だから、そういうのにはもう慣れっこになってしまっていて、ラップやHIPHOPの台頭を見ても「ああ、黒人というのはほんとうに面白いことを考えるなあ。よく思いつくなあ。すごいなあ」とただただ楽しく思うだけだった。20世紀はそういうオドロキをいつも黒人がもたらすのだが、今や弾圧(禁止)なんか誰もしない。


でも、過去はそうじゃなかったんだなよなあ。禁止されるということは、旧世代を脅かすくらいのエネルギーが、音楽にあったということだ。

別に弾圧して欲しいわけじゃあないけれど、なんか最近は私達に「生き方を変える」くらいの衝撃を与えてくれる出来事が、ITとかAIとか技術革新の方ばかりで、音楽とか映画とかの影響力が低くなっているような気がして、この映画を見ながらなんだか少し寂しく思ったりもするのでした。

おしまい。


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☟ 私が持っているのはこれじゃなくて、しかも「ニューオーリンズ」と長音符が一個多いバージョン。だから記事名は間違いではありませんよ(笑)