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割と自己流で生きています

【映画】「華氏451(1966)」 思考を放棄した人々。これはもはや私たちの物語。




おすすめ度 ★★★★★

題名 華氏451(原題:Fahrenheit 451)

監督 フランソワ・トリュフォー
脚本 フランソワ・トリュフォー、ジャン=ルイ・リシャール 
原作 レイ・ブラッドベリ「華氏451度」1953年
出演 オスカー・ウェルナー、ジュリー・クリスティ
音楽 バーナード・ハーマン
上映時間 112分
制作年 1966年
制作国 イギリス
ジャンル SF、ディストピア


 

映画『華氏541』への導入

 
引用:「本をいっぱい読まんと。本を読むだけだ。過去の記憶に追いつかねば」 
モンターグの台詞より

 

本の所有が禁じられた近未来。活字の使用すら禁止され、毎日届く新聞は漫画のみ。それも吹き出しがなく絵だけという徹底した管理社会。人々はTVにかじりついて思考停止状態にあり、本を所有している人は告発され、蔵書はすべて燃やされてしまう・・・

出動するのはファイアマン(消防士)。この世界では彼らはもはや火を消すのではなく、本に火をつけるのが役目。日本語だと消防士になってしまうので具合が悪いが、英語なら fireman だから火をつけていても矛盾しない。

人々は本を持つ人を密告し、本を持つ人はひた隠しにする。息が詰まる管理社会。



題名の「華氏451」は紙が燃えはじめる温度。読み方は「よんひゃくごじゅういち」だったらしい。私はずーーーっと「よんごういち」と読んでいた。

かしよんひゃくごじゅういち。なんか読みにくい。


ちなみにモンターグの妻リンダと教師クラリスは、アカデミー女優ジュリー・クリスティの一人二役。


そのクラリスの教え子役で、5年後に日本で大人気となる『小さな恋のメロディ(1971)』のマーク・レスターがほんのちょい役で出てくる。この頃7歳くらい。「小さな恋のメロディ』の時は12歳くらい。5歳も違うのに、なんかあんまり変わらない。
 
 
 

映画『華氏541』のあらすじ(詳しめ、ネタバレ有)


あらゆる本の所有が政府によって固く禁じられた架空の近未来。

モンターグは勤勉かつ従順なファイアマン(焚書官)で、本を所有する者が発見され次第、消防車で出動し、本を焼き捨てる日々を送っている。

モンターグはある日、若き女性教師クラリスと知り合う。クラリスの本に対する熱意を聞いたモンターグが帰宅すると、そこには毎日TVの前にいて、TVの中の人物を「家族たち」と呼ぶ妻リンダがいた。

モンターグは二人の女性の間で自分の生活に疑問を持ち始める。そして生まれて初めて本を読む。それは仕事でかすめとったチャールズ・ディケンズの「デイヴィッド・カッパーフィールド」だった。本の魅力に取りつかれたモンターグは、次々と本を隠し持つようになる。

ある日自宅へ帰るとリンダは友人を招いてTVを見ていた。そのうつろな姿を見て途端に不機嫌になったモンターグは、隠してあった本を持ち出して寝室で読み始める。無作法な夫に腹を立てたリンダはモンターグに詰め寄るが、モンターグはリンダの友人たちに向かって本を読み聞かせる。激しく動揺し帰ってゆく友人達。リンダは「友人を失った。TVも私を招待してくれない。私はまた一人ぼっちになってしまった」と言ってモンターグをなじる。


その後ある老女の家に ”隠し図書館” が発見され、ファイアマンが出動。モンターグは老女の大量の本の中で、本の無意味さを上司から延々と語られるが、またこっそりと一冊盗み出す。そして燃える本と殉死する老女の姿を目の当たりにする。

その後クラリスの叔父が逮捕され、クラリスも姿をくらます。モンターグがクラリスの行方を探しはじめたころ、妻のリンダは夫であるモンターグを密告していた。クラリスを発見したモンターグは、彼女から「川沿いに行ったところにある古い線路をつたってずっと奥に ”本の人々(ブック・ピープル)” が住むところがある」と教えられる。

クラリスと別れたモンターグはファイアマンを辞めると上司に告げる。モンターグ最後の任務は、自分の家の捜索であった。本ではなくTVを焼いたモンターグは、上司に止められ彼を火炎放射器で焼き殺してしまう。

殺人罪で追われることになったモンターグは追っ手をかわし、クラリスから聞いた ”本の人々が住むところ” へ向かう。そこでは人々が本をそれぞれ一冊丸暗記し、自らが本そのものになって知識や芸術を守ろうとしていた。

モンターグはエドガー・アラン・ポーの『怪奇と幻想の物語』を暗記しはじめる。
 
 
 

映画『華氏541』の世界感と本への愛


映画が始まると、普通はオープニング・クレジットとして監督名や俳優名、題名などが流れるものだが、この映画の世界は「活字が否定されている」世界だからクレジットが流れない。代わりにナレーターが俳優名とか題名とかスタッフ名を読み上げていく徹底した世界感。

そしてそのナレーションのバックには、人々の家の屋根にあるTVアンテナが次々とひたすら映し出される。

この映画は人類の英知を、人類が築き上げてきた哲学や思想、芸術を、脳と肉体に刻んで人生をかけて継承していこう、それくらいの価値が本にはある、「人類のすべての過去=太古からの私たち人々の日々の積み重ね=それが歴史=それが本」という、そういう映画。

そして ”テレビ” というメディアが登場して、人々の生活に完全に定着した時代の、テレビの悪影響をテーマにした作品でもある。


この映画で人々は、惚けたようにテレビの前に座り続け、テレビが言う事を信じ切って疑問を抱かない。思考することを放棄し、何に対しても疑問を抱かずただ言うなりになっていて、その代表であり象徴がモンターグの妻リンダなのだ。

モンターグはクラリスとの出会いで脳みそを動かし始める ”目覚めた人” になるけれど、リンダの方はずっとテレビを眺めている。テレビの中の登場人物に「家族たち」「いとこたち」と呼びかけられて、すっかりテレビと ”家族” している。まるで脳みそをどこかに置いてきてしまったかのよう。

逆に、政府の嘘や欺瞞を見抜き、真実に気が付いているのに迎合し、確信犯的に任務を遂行しているモンターグの上司のような人もいる。「これが現実さ。賢くやろうぜ」というわけだ。これで生活が保障されているのだから、社会がおかしくても人類が家畜化していても別に構わないのだ。



 
 

そんな世界でモンターグが、生まれて初めて読む本はチャールズ・ディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』。読んだモンターグの恍惚の表情。

老女の蔵書を燃やす前にモンターグが上司の説教を聞きながら、こっそり鞄に盗む本の題名は『カスパー・ハウザー』。カスパー・ハウザーといえばヴェルナー・ヘルツオーク監督の『カスパー・ハウザーの謎(1974)』というドイツ映画があって、これは私のお気に入りの映画でもある。



 
 
 
他にも焚書の憂き目にあう本たちは数えきれないほどあるのだが、日本語字幕が出ないものもあって、そのなかで語学力のない私がかろうじて読み取れたのが、マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』、『フランツ・カフカ』、J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』、レイモン・クノー『地下鉄のザジ』とかがあった。

そして『カイエ・デュ・シネマ』も焼かれていた。表紙はジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』のジーン・セバーグ。ああ。







そしてモンターグが最後たどり着く「本の人たちが住むところ」で人々が暗唱しているのが、『スタンダールの日記』、『プラトンの共和国』、エミリ・ブロンテ『嵐が丘』、バイロン『海賊』、ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』、J.バニヤン『天路歴程』、ベケット『ゴトーを待ちながら』、サルトル『ユダヤ人』、レイ・ブラッドベリ『火星年代記』、ディケンズ『ピックウィック・クラブ遺文録』、マキャベリ『君主論』、オースチン『高慢と偏見』。

そしてモンターグは、愛読書だったらしいエドガー・アラン・ポーの『怪奇と幻想の物語』を選ぶ。

本への愛があふれている映画だった。
 
 
 

映画『華氏541』の感想


今も昔も、テレビに対しては色々なことが言われてきたし、今も言われている。

テレビばかり見てると頭が悪くなる。頭の悪い人しかテレビを見ていない。テレビは私たちを騙している。テレビは嘘ばかり。テレビはスポンサーのためにある。テレビは金儲けだけ。大衆が見たがる番組を流しているだけ。

実際テレビが登場した頃は「頭が悪くなる電波が出ている」という噂が流れていたと聞くし、私が子供の頃も「テレビばっかり見てると頭が悪くなる」と言われていた。


私は驚くほどテレビっ子ではなくて本ばっかり読んでいたという「変わった子」だったのだが、残念ながら頭は特に良くはない。頭は良くないが、大人になっていろいろ考えてみるに「テレビ ”しか” 見ないというのは実際よろしくはないだろうなあ」とは思う。

私は「テレビから頭が悪くなる電波が出ている」とは思わないが、「テレビしか見ないと頭が悪くなる」のは結果的に当たっていると思う。だってやっぱりテレビは「つけているだけで情報が向こうから勝手にやってくる」から、すごく楽に情報を得ることが出来る。

さらにテレビは映像という性質上、本と比べて視覚的な情報量がけた違いにあるからひどく分かりやすい。そのうえテレビは大勢が見てくれるようにより分かりやすく面白く、視聴者が見たいであろうものを、手を変え品を変えしてひたすら視聴者に寄り添ってくる。そして繰り返し繰り返し、大量に垂れ流す。

そして人々はテレビの前に座ってさえいれば、さも自分が賢くなったかのような、楽しかったような気分に浸れる仕組みだ。



だけど本はそうはいかない。本が「ぽろん」と置いてあるだけであれば、そんなものはただの紙のかたまりだし、中を見てもただ白い紙に黒い線がうねうねとのたくっているだけだ。それを眺めていたって本は何もしてくれないという、ひどくそっけない代物だ。

本を読むということは、強い意志を持って取り組み、内容を理解しようと自分から意識的に働きかけなければ内容を理解することはできない。しかもがんばって働きかけても全く理解できないことが ”ままある” という厳しいものだ。


私も読み始めたら難しすぎて「全然わかんないよー」となることも多いけど、「なんか知んないけどTVでやってるから見る」とか「繰り返しやっているから重要なんだろう、流行っているんだろう」とか、「テレビでやってるんだから本当なんだろう」ではなく、もっと主体的に「自分には知りたいことがあるから、自分で探してそれを取りに行きたい」と思う。それがマニアックな結果にしかならなくても、全然かまわない。

アメリカ映画によくでてくる、ずーーーーーっとテレビの前の一人がけのソファとかカウチに座って、ポップコーンかなんか食べながら、チカチカと光るブラウン管を眺めている人々って、ほとんどがダメな人だもの。私はああいう風にはなりたくない。

私はこの映画のリンダみたいにはなりたくない。自分で選んで、取りに行きたい。


モンターグもそう思ったかは知らないけど、モンターグは「何かを」取りに行き始める。それは表面的には「本」なのだが、モンターグが本当に欲しいものは「本」が象徴する ”何か” だろう。

自由に考え、自由に発言し、自由に行動する。そんな ”自由” かもしれないし ”真実” かもしれないし、もっと別のものかもしれない。


引用:「君は壁の ”家族” と人生を過ごせばいいさ。僕の家族は本だ。本の背後には人間がいる。それに惹かれるんだ」 妻リンダへのモンターグの台詞

 
そう。モンターグは虚ろだった自分と決別する為に、虚ろな妻と決別する。


私の人生にそういう時が来るかは分からないが、私もいざという時が来たらモンターグみたいに生きてみたいと思っているんだけど・・・できるかな。

そして私も、川沿いに行ったところにある古い線路をつたってずっと奥にある ”本の人々(ブック・ピープル)” が住むところに行きたい(暗記はごめんだが)。




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