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古い映画感想ブログです。驚くほど忘れてしまうので備忘録として。

【映画】「市民ケーン(1941)」 一作で3度楽しめる。知れば知るほど楽しめる、映画史上最高のゴシップ映画【傑作】

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題名 市民ケーン
監督 オーソン・ウェルズ
制作 オーソン・ウェルズ
脚本 ハーマン・J・マンキーウィッツ、オーソン・ウェルズ
出演 オーソン・ウェルズ、ジョゼフ・コットン、ドロシー・カミンゴア
音楽 バーナード・ハーマン
上映時間 119分
制作年 1941年
制作会社 マーキュリー・プロダクション
制作国 アメリカ
ジャンル ドラマ、モノクロ、アカデミー脚本賞

 

 


はじめに

映画史上でも最も評価の高い映画のひとつである『市民ケーン』。世界中の名作映画ランキング的なイベントで、いまだに必ずと言っていいほど上位に食い込んでくる不朽の名作。

「いやいや、いくらなんでも80年たってんじゃん。映画通を自認する戦後世代が選んでるだけなんじゃないの。今見たらさすがに古いでしょ」とか「そもそもオーソン・ウェルズって天才・怪物扱いされているけど過大評価なんじゃないの」とか、いろいろ思われる方もいるかもしれないけど、それは違う。

事前情報なしで見ても、ひとりの大富豪の人生ドラマとして十分楽しめるし、

よく絶賛されるウェルズの天才的な撮影方法なんて知らなくても、映像がクリアで演出がすごく工夫されていて、ウェルズのセンスの良さがガンガン伝わってくるし、

ウェルズも他の俳優たちも、みんな生き生き演じていて、実に魅力的で演技力も申し分ないし、

制作費はそんなにかけていそうでもないのにセットも豪華に見えるし、ファッションや小道具大道具もおしゃれでスタイリッシュ。


というわけで全然古くなっていないどころか、ウェルズのインテリジェンスを感じる傑作。当時若干25歳の若者で、しかも映画など一度も撮ったことがないばかりか出演したこともないオーソン・ウェルズが、初監督にしてあらゆる映画手法を取り入れて撮影し映画史に輝く名作と相成った、ウェルズの神がかり的な才能がさく裂している超傑作なのだった。若くて経験もないくせにこれほどの作品を作るんだから、そのエネルギー、手腕も含めて、やっぱウェルズは怪物。


ところで題名に「一作で3度楽しめる」と書いてしまったので、まずは雑情報を全く知らずにまっさらの状態でまず1回見て、次に技術的なことに着目して2回目を見て、そして映画の裏話を知った上で3回目を見るという体で紹介したい。

かなりの長文です。


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思いのほか日本語がちゃんとしてる



普通に見る『市民ケーン』の概要とあらすじ(一作で3度楽しめるの1度目)


****** あらすじ ~記者トンプソン目線~ ******

ある老人が、手に小さなスノードームを握りしめ、「バラのつぼみ」とひと言残して息を引き取る。老人の名はチャールズ・フォスター・ケーン。アメリカの新聞王にして大富豪であり、カリフォルニアにそびえる巨大な城 ”ザナドゥ” の主であり、数々のスキャンダルや逸話を残した、時代の権力者だった。

ケーンの死を受け、その生涯をまとめるニュース映画を製作した会社の社長は、ただ事実をつなげただけの平凡な仕上がりに失望。ケーン最後の言葉である「バラのつぼみ」に着目し、その言葉の意味を記者に調査させる。担当したトンプソンは、その言葉の意味を知りそうな、ケーンゆかりの人物たちの取材を開始する。

最初にケーンの2番目の妻スーザン、次に少年時代からのケーンの後見人である銀行家サッチャー、さらに事業のパートナーであるバーンスタイン、学生時代からの親友で事業のパートナーだったリーランド、ケーンが建てた城ザナドゥで長年ケーンに仕えていた執事のレイモンドへと、片っ端から当たり「バラのつぼみ」の意味を探るが、結局突き止めることはできなかった。

そのトンプソンの取材の中で明らかになるケーン像と、ケーンの最期の言葉「バラのつぼみ」の意味はなんなのか、が映画の軸になっている。
********************


ううむ、あまりにも簡単なあらすじにしてしまったかもしれない。ケーンを取材する記者目線で書いたのであっさりさせたのだけど、ケーンの人生自体は要約するとこうなる。


****** あらすじ ~ケーン目線~ ******

ケーンは貧しい家の少年だったが、母親が偶然手にした財産とケーンの養育を銀行家サッチャーに預けたおかげで何不自由ない少年時代を送り、サッチャーの資産運用も上手くいってケーンが大学を出るころには莫大な財産に育っていた。約束通り25歳で相続した莫大な資金で、 ”面白そうだから” という理由で新聞社「インクワイラー」の経営に乗り出す。ケーンは扇情的な記事ばかりを量産し、報道としての品格は全くないが経営としては大成功を収める。そして大統領の姪と結婚し、歌手の卵を愛人にして、ニューヨーク知事選にも出馬。当選確実と思われたが愛人の存在が明るみに出て選挙前に失脚。妻も家を出てしまう。

歌手の卵スーザンと結婚したケーンは、才能ゼロのスーザンのために「スーザン専用のオペラハウス」を建築し強引にデビューさせるが、評価は酷評の嵐だった。ケーンの親友であり芸術評論を手掛けるリーランドも正しく酷評の記事を書こうとするが、ケーンはそれを握り潰し、リーランドをクビにする。その後も「インクワイラー」だけはスーザンの舞台を絶賛し続けるが、自分の実力を知るスーザンは耐えかねて自殺未遂を起こし、仕方なくケーンも諦める。

カリフォルニアに建築した巨大なケーン邸、通称”ザナドゥ”で暮らし始めたケーンとスーザンだが、そのあまりの孤独と退屈さに耐えかねたスーザンはザナドゥを出ていき、ケーンは一人ぼっちになってしまう。そして時は流れ、ケーンはスノードームを握りしめ、「バラのつぼみ」の言葉を残し、孤独の中この世を去る。

ザナドゥではケーンの遺品の整理が始まっていた。荷すら解かれていない膨大な数の美術品の値踏みが行われ、がらくたは燃やされていく。その中に、幼いケーンが遊んだ橇(そり)があり、橇には「バラのつぼみ」と書かれていた。しかしその意味を知る者は誰もなく、ザナドゥからはもうもうと煙が立ち上り、立ち入り禁止の看板がかかる。
*****************************

この映画を普通に見れば、幼い頃に両親と離れて暮らすことになり寂しかったケーン少年は、母親のおかげで大金持ちになり、やりたいことをやりたいように出来る人生を歩んできたが、老いてみれば結局はみな周囲からいなくなり、たった一人、雪深い故郷を思わせるスノードームを握りしめ、壮大な屋敷の中で孤独に死んでいったと。ケーンの最後の言葉「バラのつぼみ」は、幼い頃に乗っていた橇(そり)に書いてあった言葉であったことから、ケーンが最後に思い浮かべたのは「あの頃が一番幸せだったなあ」という感慨だったのではなかろうか、というような終わり方。

普通にベタな終わり方と言えると思う。


何も考えずに見ても、記者がケーンの最期の言葉の意味を探ってケーンゆかりの人物を訪ねて歩き、その取材を通じてケーンの人物像があぶりだされていく描き方は面白いと思ったし、もっと言えばその記者の描き方がさらに面白い。

この記者はありがちな映画であれば主役なのかもしれなくて、記者が主役で、なんらかの謎を解き明かそうとあちらこちらを取材してまわっていくうちに、様々なドラマが起こって思いもかけない真実が浮き彫りになっていく、なんていう映画はいくらでもある。

でもこの『市民ケーン』の軸になっている記者は、主役になっても良さそうなポジションなのに、顔がまったく映らないのだった。


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この映画の魅力の一つでもある「光と影のマジック」、光と影の使い方が絶妙な、コントラストがくっきりした白黒映画にあって、この記者はずっとどういうわけかいつも影の中にいて、または後姿だったりして、とにかく顔がしっかり映らない。

顔が映らないだけでなく、存在そのものが希薄。名前こそ ”トンプソン” なんてつけてもらっているけれど、これは一言で言って ”誰でもいい役” だ。


それはたぶん ”記者は私たちだから” なんだろうな、と思った。記者は私たちの代わりだから、顔はいらないわけだ。

この演出はすごく面白いと思った。


こういう具合に、この映画『市民ケーン』はかなり斬新な、そしてその後の映画制作に多大な影響を与え、今見ても古くならない様々な映画手法がちりばめられた傑作でもあるのだった。


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撮影方法など(一作で3度楽しめるの2度目)

この『市民ケーン』は、Wikipediaによれば以下のような映画手法が使われていて(一部かもしれないが)、映画制作のお手本みたいな映画でもある。

 ※以下の各項目は Wikipedia によるものです。
  

ja.wikipedia.org




とはいえ、私は映画は好きだけど、専門的なことは全く分からないシロートなので、このシーンかなと思われるキャプチャを貼ってお茶を濁すしかない。



ワンシーン・ワンショットの多用


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これはキャプチャしてもしょうがないが、極端な長回しではないがワンシーン・ワンショットの多用は随所に見受けられる。


たとえば、二人の人物がある部屋で会話しているとすると、Aさんの台詞ではAさんのアップ、Bさんの台詞ではBさんのアップ、二人とも映っているショット、でまたAさんの台詞ではAさんのアップ、Bさんの台詞ではBさんのアップみたいになることって、多いと思う。

監督が丁寧に(?)、「今Aさんが喋ってるからAさんの表情を見てね、Bさんが喋ってる時はBさんをアップにするからBさんの表情を見てね」とやるわけだ。

このやり方だと、見ているこっちは「ああ細かくカットして、それぞれの台詞を撮影しているんだな」と思う。二人の俳優は向かい合って喋っていなくて、それぞれがカメラを向いて喋ってるんだな、と。


でもこの『市民ケーン』では、ワンシーンをワンカットで撮ってるから、Aさんが喋っていてもAさんのアップにはならないし、Bさんが喋っていてもBさんが後ろを向いていればBさんはそのまま後ろを向いている。

このやり方だと、もし私がその場にいて、カメラのある位置(この場合はBさんの後ろ)で二人の話を聞いていたら、Bさんはずっと後ろ向きだよね、と。


そういう撮り方。

この撮り方だと、リアリティが増すというか、わざとらしさとか作られた感が少なくて、まるでその場に私もいるような感じがしてきて臨場感が出てくる(と思う)。


もちろんAさんが喋っている時はAさんのアップ、Bさんが・・・という具合に撮影しているシーンもある。たとえばケーンとスーザンが出会って親しくなるまでの、スーザンの下宿でのシーンなど。

でも映画は全体的にワンシーン・ワンカットをやっているからか、このスーザンの下宿のシーンは急にカットを多めにかけていて、ちょっと違和感を感じるほど。急に「Aさんの台詞ではAさんのアップ、Bさんの台詞ではBさんのアップ」が強調されているみたい。わざとなんだろうけど、その意図は私には分からない。



パンフォーカス

画面の前景から後景まで全てにピントを合わせ、奥行きの深い構図を作り出す撮影手法の使用(この技法を用いることで前景と後景とで映し出される異なる動きが同時に描かれている)

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日本ではパンフォーカスと言うが、英語ではディープ・フォーカスというらしい。ディープ・フォーカスの方がふさわしい気がするが、なぜ日本ではパンフォーカスになったのかは分からない。


例えば、ケーンが演説をするシーンや、後半でケーンとリーランドが喧嘩して決裂するシーンなどがそれ。手前の人物にも、奥の人物にもピントが合っていて、どちらに注目するかは観客にゆだねられている。

『市民ケーン』の中でも特に有名なシーンのひとつ、映画序盤の、ケーンの母親と銀行家サッチャーがサインをするくだりは、パンフォーカスでありながら広角レンズを使っている、という具合なのかなと理解しているのだが、どうだろう(詳細は以下4を参照のこと)。


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極端なクローズアップ

 

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例えば映画冒頭の、死にゆくケーンが「バラのつぼみ」と言うシーンでは、”口元のアップ”という極端なカットになっている。



広角レンズの使用


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例えば映画序盤の、ケーンの母親が銀行家サッチャーに鉱山の権利とケーンの養育権を渡すくだりがそれ。窓の外ではケーンがひとりで雪遊びをしているのが見え、その窓辺から母親が部屋の中へ戻って歩いてくるシーンなのだが、一番手前にいる母親の動きに合わせてカメラが手前に移動してくると、一番奥にある窓がぐうーーーっと奥に向かって移動していくように見える。カメラが手前に移動すると、手前のものはすごく手前に、奥にあるものはものすごく奥に動いていくように見える。奥行きが現実よりももっと奥にあるようにみえて、遠近感が強調されることで、独特なカットになってる。

そのうえで、奥までピントがしっかり合っているパンフォーカスでもある。『市民ケーン』でも引き合いに出されることの多い、有名なシーン。



広角レンズ 1 - Wide-Angle




ローアングルの多用


穴の開いた床にカメラを構えて撮影されたらしい。

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ケーンとリーランドの喧嘩シーンは一連すべて天井が映るほどのローアングル。ローアングル大好き。




続いて、「一作で3度楽しめるの3度目」に行きたいのだが、その前にこの作品のモデルとなったウィリアム・ランドルフ・ハーストについて予習しておきたい。



『市民ケーン』の モデル、新聞王ハーストの略歴

実はこの『市民ケーン』は、映画制作当時に晩年を迎えていたアメリカの新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストがモデルになっている。このころ御年78歳くらいか。

まずはその、ハーストの略歴をご覧いただきたい。


****** ハーストの略歴 ******

ウィリアム・ランドルフ・ハースト  1863年4月29日 - 1951年8月14日(享年88歳)

ハーストの父親は炭鉱所有の地方の小金持ちで、そこに銀の鉱脈が眠っていて富豪になった。息子のハーストは何不自由なく生活して、ハーバード大学に進むが中退している。理由は不明。

23歳のとき、父親がギャンブルで担保にとった新聞デイリー・エグザミナーの経営権をプレゼントされる(!)。「サンフランシスコ・エグザミナー」と改名した新聞は大成功。元々いた執筆陣であるマーク・トゥエイン(!)やアンブローズ・ピアス(!)に、週刊誌的な下品なゴシップを書かせる手法が大当たり。報道内容が真実かどうかは全く顧みられなかったらしい。

ハーストは、扇情的な記事を量産していたジョセフ・ピューリッツァー率いるライバル誌「ニューヨーク・ワールド」の手法をそのまま真似をして、その「ニューヨーク・ワールド」と泥沼の発行部数競争を繰り広げる。

映画でも簡単に触れられていたが、中でも特にひどいのは、両誌によるねつ造記事が米西戦争を引きおこした出来事があげられる。当時はスペインがキューバを植民地にしており、キューバで起こる独立運動をスペイン側が押さえつけていたのだが、そういう情勢のなか米国の戦艦が爆発し266人が死亡する事件が起こった。その原因は石炭粉塵の爆発で事故であった可能性が高いのに、両誌はそれがあたかもスペイン側の破壊工作であると決定づけ、発行部数を伸ばすために、写真、絵、出来事までもでっちあげて大衆をあおり、それを信じた世論はスペイン相手の戦争を支持し、実際にアメリカはスペインとの戦争に突入したというもの。

ともあれそういった具合で「エグザミナー」は販売部数を伸ばし、ハーストは全米中の新聞を買収して新聞王になり、大富豪になっていく。美術品や宝石、家具などを買い漁り、荷をほどきもせずに箱のまま積んでいたらしい。スコットランドの城を購入して解体してアメリカに運ぶとき、馬車では足りないのでそのためだけに鉄道を敷いたり、梱包用の木材のために製材所を買収したりしている。

53歳の時、19歳の女優志望のマリオン・デイビスと出逢って愛人にする。そして彼女専門の映画プロダクションを設立。46本の映画を制作し、クラーク・ゲーブルやビング・クロスビーといった大スターとも共演させるが、映画はどれも大こけだった。

次々と新聞社や映画会社、ラジオ局、雑誌、を買収して巨大企業を築いたハーストだけど、世界大恐慌の影響もあって1940年ごろには権力を失っていたらしく、1951年に死ぬ。その企業は「ハースト・コーポレーション」としてNYにあって、今でもメディア系では世界最大らしい。


参考図書:『火星人襲来と市民ケーン 偉大なるB級、オーソン・ウェルズ』 レトロ・ハッカーズ

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というわけで、『市民ケーン』はまるっきりハーストがモデルなのだった。


ライバルのピューリッツァーは40代の頃、「ジャーナリストの質の向上」を目的にコロンビア大学に世界初のジャーナリズム学部を設立しようとして頓挫するが、死ぬときにコロンビア大学に200万ドルを遺す。そのうち50万ドルはピューリッツァー賞の設立資金に指定するが、これがのちに優れた報道に対して贈られる、最高に名誉のある賞として世界中のジャーナリストたちの憧れの的になる。

・・・こうしてみるとピューリッツァーという方も興味深い。心を入れ替えたんだろうか。それともあまりにも下司なことばっかりしてたもんだから、名声が欲しくなって悪声をなかったことにしようとして「今のうちにいいことしておこう」と思ったんだろうか。

ピューリッツァーに関する本を読んでみたいと思ってAmazonで探したが、ピューリッツァー賞に関しての本はあるが、ピューリッツァー自身に関する本は見当たらなかった(ので、Wikipediaを参考にした)。

ja.wikipedia.org




ハーストに関しては『新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストの生涯』という本があるようだが、絶版らしく中古で15000円~25000円とかする(さすがに買えませんがな)。でも先に参考図書としてリンクを貼った、レトロハッカーズの『火星人襲来と市民ケーン 偉大なるB級、オーソン・ウェルズ』にはハーストに関してもページが多く割かれているので、興味のある方は参考にされたい。すぐ手に入って(kindle版のみ)、しかも安くて(100円です)、ボリュームが控えめで読みやすい割には内容が充実していてオススメ。


これが高いのよ ☟
 

 

というわけで、二人に関してのさらなる詳細は私には分からないが、どうやらハーストはそういう方向でポイント稼ごうみたいな要領のいいタイプではなさそう。ピューリッツァーの方が自己宣伝がうまくてずるい感じもする。



では次に、「一作で3度楽しめるの3度目」として「バラのつぼみ」の秘密を紹介したい。


『市民ケーン』の「バラのつぼみ」の秘密(一作で3度楽しめるの3度目) 

そもそもウェルズがこの作品を制作する際、最初からハーストをモデルにしようとしていたわけではなく、一代で成り上がった大富豪が主人公の映画を制作しようとしていて、ハーストがどうというよりも、割とステロタイプの設定だったらしい。

ではなぜハーストをモデルとすることにしたかというと、あるハーストの ”秘密” を、ウェルズが入手したからだった。

それが「バラのつぼみ」というキーワードだった。


どうもハーストは、愛人マリオン・デイビスの ”あそこ” のことを、「バラのつぼみ」と呼んでいたく可愛がっていたらしい。愛称をつけるほど気に入っていたと。

オーソンがどういう経緯で「バラのつぼみ」を知ったのかは分からないが、あの新聞王ハーストが、大金持ちにして広大な土地に巨大な城を建てて住んでいるような、傲慢で尊大な権力者であるあのハーストが、自分の愛人の ”あそこ” を「バラのつぼみ」と呼んでいる! それを知ったオーソンは、さっそくそれを映画のネタにした。

ウェルズにはそういう、人の恥部やゴシップなどをすごく面白がる子供みたいなところがあって、学生時代の演劇でも学校の先生たちそっくりの人形を作って、先生たちが乱交パーティをしている人形劇をやろうとしたり、カーネギーやJ.P.モルガンをイメージさせる人形劇を打とうとしたりしているから、『市民ケーン』はこの両方をいっぺんにやろうとしたんだろう。

「こいつは面白いことを知ったぞ。これをネタにしたら、あいつ(ハースト)怒るだろうな。くそおもしれえ」と思って、時代を象徴する大富豪ハーストの生涯を、映画で ”おちょくりまくった” のだった。


すると当然、「自分が映画になろうとしている。しかも自分がマリオンの ”あそこ” につけた愛称 ”バラのつぼみ” がネタにされているらしい」と知ったハーストが大激怒。そもそもハーストは新聞王なんだし、ラジオ局も持ってるしマリオンのために映画会社まで作ってるくらいだから、いわゆるメディア王なのである。あらゆる手を使って公開を禁止するのは簡単だったろう。

あわや上映禁止に追い込まれることになったウェルズは、独立系映画館でなんとか上映にこぎつけて、ヒットはしないまでもアカデミー賞に主要部門でノミネートされ、最終的には脚本賞受賞と相成った。


よく盛り返したというべきか。もう少しうまくやっていれば大ヒットした上にオスカーを総なめにしたかもしれないのに、お子様でおバカなウェルズと言うべきか。

ヒットもせず、ごたごたあっても脚本賞を受賞させたアカデミー賞は偉いのか、もっと評価してもっと受賞させなければいけなかったのか。


私にはわからない。映画は現在名作の誉れ高いし、実際にすごく面白いし良くできてると思うので、この辺は「どっちでもいいや。どっちにしろウェルズと『市民ケーン』はすごいんだから」と思うのだった。



感想

とはいえ、このような裏事情があることを知ってから見ると、改めてこの映画は本当によくできているなとつくづく思う。


映画自体は冒頭からいきなり問題の「バラのつぼみ」というキーワードが出てきて物語の軸になってはいるものの、ぜんぜんハレンチな内容では全くなく、一人の富豪の人生を描いた真面目な作品になっている。生前は傲慢な権力者だった大富豪も死ぬときは孤独に死んでいって、「少年時代が一番幸せだったなあ」みたいな終わり方で、真面目かつオーソドックスな内容と言える。

ところが「バラのつぼみ」の隠された意味は、あの新聞王ハーストの愛人の ”あそこ” のことだった、と。世間の人は知らないことだから映画を観ても誰も何とも思わないかもしれないが、ハーストだけは違う。自分の、限りなくプライベートな超恥ずかしい恥部を、勝手に映画のネタにされてしまったわけだ。

ハーストはそれを知ると全力で潰しにかかっているから、やっぱり嫌だったらしい。


それだけでなく、もともとハーストの身近な人しか知らないネタなはずだったのに、映画公開時にはなぜか観客たちにも知れ渡っていたらしい。

ということは、観客もニヤニヤしながら見ることになる。映画が始まった途端にでてくる「バラのつぼみ」のセリフを聞いて観客はハーストを思い浮かべ、物語がどんなに普通に真面目なストーリーであっても「ハーストの愛人の ”あそこ” のことなんだよなーww ワラワラワラワラワラワラワラワラw」「あいつ愛人の ”あそこ” に バラのつぼみ なんていう名前つけてんの、ウケるーwww」と思いながら映画を観るわけだ。

そして最後は「バラのつぼみ・・・」と言って死んでいく。「そんなに好きだったんだーww 」ってなる。

これは腹立たしいww


こんなことを、表向きは真面目な映画のふりをして、あらゆる映画技術をふんだんにちりばめた、文句ないハイクオリティな映画にして、そして裏では「うひゃひゃ」とあざ笑ってる。

高度だなあwww  ほんとすっとぼけてる。

やはりウェルズにはインテリジェンスを感じる。



俳優としてのウェルズについて

という感じで何重にも高度な映画なのだけど、演技だって負けてない。


ウェルズはもう、イキイキ、のびのび、ノリノリ!といった風情。

特に私が好きなのは、州知事選に立候補しての演説のシーンで見せた顔で、「このケーンは約束を守る男だ!」と大見得を切ってすぐ「覚えていればだけど」とかなんとか言って、「どうよ、おれいま面白いこと言っちゃった」みたいに、満面の笑みで客席を見回す時の顔w アメリカ人だわー。

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この映画はケーンが25歳から晩年まで、おそらく80代くらいで死ぬまでが描かれているから、俳優陣もみな老人になっていく。これが実に自然に老けている。メーキャップもさることながら、立ち姿や歩き方、しぐさまでもが老人ぽくて、ぜんぜん違和感がない。

古い映画だし、いくら「モノクロ映像が美しい」と言っても、最近のデジタル映像とは違うので、当然輪郭はぼやけている。

そのへんを差っ引いても、到底25歳には見えないんだなあ。ウェルズはちゃんとオジサンしてた。こっちは25歳で撮影していることを知っているから、演技力とメーキャップの技術の高さに感服せざるを得なかった。


それと、顔に関して言えば、私はウェルズってベビーフェイスだと思うんだよね。「赤ちゃん」みたいな顔だなと思ってる。なのに年齢不詳みたいな得体のしれない顔にも見えて、つくづく「不思議な顔だなあ」と思う。

前に、スピルバーグ&ディカプリオの『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン(2002)』を見たときに、たしか井筒監督が「主人公はあんなディカプリオみたいな顔はしていないはずだ」と言っていたのを聞いたことがあるけれど、それはどういうことかというと、

この『キャッチ・ミー~』は実話で、フランク・W・アバグネイル・Jrという実在の男が16歳でパイロットに化けて大人たちを騙していくのだが、16歳でパイロットに化けてスッチーとかを騙すには、ディカプリオみたいなかわいこちゃん系のベビーフェイスなはずがない、16歳なのに16歳とは思えない説得力を持った顔、分かりやすく言えば老け顔のような顔をしているはず、というような意味のことを井筒監督は言っていて、私は「なるほど、確かにそうかもな」と思った。

そして「ならばオーソン・ウェルズはどうだろう」と思った。ウェルズの16歳当時の顔は分からないが、彼は高校だか中学だかの時に学生演劇コンクールに出るのだが、ウェルズの演技は審査員に「大人のプロの俳優が出ていた学校があった」と言わしめて失格にされてしまっている。抗議したが通らなかったらしい。

おそらくウェルズは、演技力といい、風貌といい、とても10代には見えなかったんだろう。押し出しが強くて、自信と説得力の塊、という印象がある。

・・・ま、スピルバーグはこの映画を軽めの娯楽作として描いているので、リアリティとか説得力とか、そういう視点でキャスティングしようとは思わなかっただろうから、オーソン・ウェルズのようなタイプの俳優を探そうとはなかっただろうけど。

私はウェルズもディカプリオも「ベビーフェイス」だと思うんだけれど、ベビーフェイスもずいぶん色々幅が広いものだなあと思うのだった。


ところで今作の最期には新聞記者役として、『シェーン(1953)』で有名なアラン・ラッドが出ているらしい。それで目を凝らしてよーっく見てみたのだけど、「これ・・・かなあ」くらいな感じで確信が持てなかったです。

おしまい。



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これは100円 ☟



☟ 参考までに




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