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名作から駄作まで、見た映画の感想を正直に片っ端から記事にする、古い映画感想ブログです。驚くほど忘れてしまうので備忘録として。

【映画】「ノートルダムのせむし男(1956年)」 ~これまで傑作~ アンソニー・クイン版カジモド

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題名  ノートルダムのせむし男(2017年『ノートルダム・ド・パリ』に改題)
監督 ジャン・ドラノワ
脚本 ジャン・オーランシュ、ジャック・プレベール
原作 ヴィクトル・ユゴー『ノートルダム・ド・パリ』(1831年)
出演 アンソニー・クイン、ジーナ・ロロブリジーダ、アラン・キュニー、ジャン・ダネ、ロベール・ヒルシュ
音楽 ジョルジュ・オーリック
上映時間 120分
制作年 1956年
制作国 フランス
ジャンル 古典、文学、ドラマ
 


今作は1831年に出版された、かの有名なヴィクトル・ユゴー原作の『ノートルダム・ド・パリ』の3度目の映画化作品。

原作者のユゴーはフランス人、物語の舞台もパリ。なのに過去の超有名2作品である 1923年のロン・チェイニー版、1939年のチャールズ・ロートン版は共に、舞台はもちろんパリだけど制作はアメリカでアメリカ映画なので、ここにきて ”満を持して地元フランスの資本で映画化されました!” という感じ。そしてカラーにもなりました。


とはいえ主演のジーナ・ロロブリジーダはイタリア人、アンソニー・クインはメキシコ系アメリカ人だからかなり多国籍。でもジーナ・ロロブリジーダ演ずるエスメラルダはエジプトから来たという設定のジプシー役だから、褐色の肌に黒い髪と黒い目ということで一般のジプシーのイメージに近いし、アンソニー・クイン演ずるカジモドもエスメラルダとのバランスを考えると褐色の肌がマッチしていてOKであった。なるほどねと。


邦題に関して言うと、元々『ノートルダムのせむし男』として公開されていたのだが、2017年に日本国内版のDVDが発売される際に『ノートルダム・ド・パリ』に改題されていたらしく、少し探しづらかった。これ・・・で合ってるよね、みたいな感じで。

でも映画の原題が1923年と1939年のアメリカ制作版の方は『The Hunchback of Notre Dame』だから ”せむし男” でいいと思うけど、今回のフランス版に関しては元々が原作と同じ原題、ただの『Notre-Dame de Paris』だから、確かに”せむし男” はおかしい。

映画公開時はきっと、名の通った邦題にした方が馴染みがあるからヒットすると考えたんだろう。でも、時代性もあるし、DVD発売のタイミングで「正確な邦題に正した」ということなのだろうと思われる。


それに映画を観てみると、この3作品の中では今回のアンソニー・クイン版が最も ”せむし度” が低い。服の上からでは「確かに後弯が強いかな」といった程度。”せむし度” だけでなく、顔の醜さも控えめだったと思う。アンソニー・クインの背の高さや体格の良さも相まって、全体的にソフィスティケートされているなと思った。


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****** あらすじ ******
ルイ11世治世下のパリ。ノートルダム寺院の広場では祭りが行われていた。広場ではジプシー娘エスメラルダが踊りを披露して町中の視線を集めている。せむしで醜く、耳の聞こえないノートルダム寺院の鐘つき男カジモドは祭りの「醜い男コンテスト」で王に選ばれ、意味も分からず浮かれていると、カジモドの保護者である聖職者フロロにこっぴどく叱られる。

エスメラルダの美しさに心を奪われていたフロロは、エスメラルダを連れてくるようカジモドに命ずる。カジモドはエスメラルダをさらおうとするが、通りがかった女たらしの近衛隊大尉フェビュスに邪魔される。フェビュスはさっそくエスメラルダを誘惑し、エスメラルダは軽くいなすも、自分を救ってくれたフェビュスに恋をする。

一方、浮浪者の王クロピンの縄張りである「奇跡御殿」にいつの間にか迷い込んでしまった詩人のグランゴワルは、「奇跡御殿」の女たちの中にグランゴワルと結婚する女が現れなければ、余興がてらに絞首刑にさせられることになる。誰も名乗りを上げず、いよいよ首をくくられそうな瞬間、エスメラルダが名乗りを上げてグランゴワルは救われる。思いがけず美しいエスメラルダを妻にできて喜ぶグランゴワルだったが、エスメラルダの心はフェビュスにあり、ただ自分を救うためだけだったことを知る。

カジモドはエスメラルダを誘拐しようとした罪で鞭打ちとさらし刑に処せられる。水を欲しがるカジモドを民衆はあざ笑うが、エスメラルダだけはカジモドに水を与える。初めて女性に優しくされたカジモドはエスメラルダに恋をする。

エスメラルダの元に、再びフェビュスが現れる。逢引きの約束する二人をフロロが静かに見つめている。フロロは二人の逢引きを阻止しようとするが果たせず、仲睦まじい二人に嫉妬し、エスメラルダの短剣でフェビュスを刺し殺す。武器の所有者であり、フェビュスと一緒にいたエスメラルダはフェビュス殺しで捕まってしまう。

フェビュス殺しだけでなく魔女の疑いも持たれたエスメラルダは裁判にかけられる。判事の一人でもあるフロロはエスメラルダが無罪になるよう裁判を誘導しようとするが、エスメラルダはフェビュスが生きていると知って喜び、フェビュスへの愛を口にする。その姿に再び嫉妬心にかられたフロロがエスメラルダを魔女と認定し、拷問にかけられたエスメラルダはフェビュス殺しを認め、絞首刑が決まる。

絞首刑の日、カジモドがエズメラルダを救出して聖域であるノートルダム寺院へかくまう。最初はおびえるエスメラルダだったが、徐々に二人の間に心の交流が生まれる。外ではエスメラルダ救出に動き始めたクロピンらが、ノートルダム寺院を襲う。エスメラルダを奪いに来たと勘違いしたカジモドは、クロピンを追い払おうと一人奮闘する。国王の兵も現れ聖域を襲うクロピンらに攻撃を開始する。大勢の命が奪われ、エスメラルダもクロピンも、フロロも死ぬ。エスメラルダの遺体を探し出したカジモドは、彼女の傍らで息絶える。
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過去作品と比較した感想を一言で言えば、コミカルに振った1923年版、重厚かつドラマティックな1939年版、客観的かつ公平な視線の1956年版という感じがした。


私は原作を読んでいないので分からないのだが、この1956年版は原作にかなり忠実らしくてラストは悲劇に終わる。

参考までに書いておくと、
1923年のロン・チェイニー版のラストは、エスメラルダとフィーバスがくっついてカジモドは失恋。
1939年のチャールズ・ロートン版のラストは、エズメラルダはグランゴアルとくっつきそうな感じ。

いずれにしてもカジモドは報われないが、エスメラルダは報われるという形でハッピーエンドに持っていっている。

でもこの1956年版は原作通りエスメラルダが死に、死体は放置され、カジモドが傍らに寄り添い、二人は砂となって風に吹かれてしまう。(T_T)ヒゲキ


さらに、登場人物全員を公平に演出している感じで、ドラマチックさがかなり抑えられていると感じた。

というのも、1939年版が、カジモドの醜さとか悲惨さみたいなものに「ぐうーっ」と寄って強調する演出だったし、チャールズ・ロートンの演技も哀れを誘うような媚びた表情を強調していたし、カジモドがエスメラルダを救出する方法や、そのクライマックスでの音楽も「ハレルヤハレルヤ」ってハレルヤ大合唱で大盛り上がりという、かなりドラマチックな作りだった。

それと比較するから余計にそう感じたのかもしれないが、この1956年版は、ストーリー的には1939年版と大きく変わるところはないにも関わらず、かなり抑えめの演出になっていたと思った。

フェビュスはちゃんと女たらしだったし(そしてクズでもあった)、グランゴアルはちゃんとエズメラルダに相手にされていないし、こちらのルイ王もチャーミングだったし、いろいろとちゃんとお約束通りなんだけど、監督はその中の誰か一人に絞って特別クローズアップすることがない。誰かに偏って感情移入していない感じがする。

原作を映画化する。ただ物語を描く。絵的にもメッセージ的にも余計なクローズアップはしない。

それがこの1956年版の良いところだった。


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登場人物に関して言うと、登場人物たちの描き方がだいぶ違かった。


まずなんと言っても、カジモドの醜さとみじめったらしさが、かなり抑えられていたと思う。

1939年版のチャールズ・ロートン演ずるカジモドは「うわー、これは醜い」と目を背けたくなるほどのインパクトで登場する。そしてそのあともずっとインパクトがあって、だんだん見慣れていって、後半はぜんぜん気にならなくなるという感じだったけれど、アンソニー・クインの方はそこまでのインパクトはない。

そして、その醜さに由来するカジモドのみじめったらしさも抑えられていた。もちろんカジモドはカジモドなので、とびぬけて醜く生まれ、耳は聞こえないし、広場では民衆に馬鹿にされているし、公開処刑にもなるし、孤独に一人で鐘と戯れるなど、十分可哀想な境遇であることは変わらない。

でも例えば、エスメラルダがフェビュス殺しの濡れ衣を着せられて裁判にかけられるシーンで、1939年版のチャールズ・ロートンは「俺がやった!」と罪をかぶろうとするのだが、格好よく「俺がやった」と言っておきながら「誰かなんか言ってくんないかな、かばってくれないかな、チラッチラッ」みたいな顔をするところがあって、それをぐっとアップで見せる、そういうあざとい演出や演技が1939年版はちょいちょいあった。

目でいろいろ同情を訴えてきて、自分の近くにいたらたぶん結構ウザいタイプだと思う。


でも、アンソニー・クインのカジモドは、そういう「ちらっちらっ」みたいな、物欲しそうな部分はぜんぜん感じられない。

監督があざとい演出を望んでないし、アンソニー・クインもカメラの向こうにいる観客に同情してもらおうと訴えることなく、ただただひたすらカジモドを演じていた。

アンソニー・クインは、顔は二枚目ではないけれど、背があって背格好がハンサムなので、そのスタイルの良さも、あまりみじめっぽくなく見えた原因のひとつかもしれない。

アンソニー・クインのカジモドは良かった。


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次にフロロ。

寡黙で冷静沈着、知性の人という感じで、離れたところから静かにジーっと出来事を見つめているシーンが多い。

しかも1939年版にあった、前半のルイ11世との議論のくだりや、クロード大司教と対峙する「悪魔の論理」の場面がごっそりなかったので、少ない言葉の中からフロロの思考や性質を読み取る必要があって、すごく客観的だった。

外からフロロを眺めてる感じ。


「地獄の奴ら。何しにここへ? あの女は罪の女だ。生きること・・・存在することが罪だ! お前ら同様にだ! 私と同じく罪があるんだ! 今は・・・ことは終わった。彼女の霊よ安らかに。そして私の魂! 私の魂! 神よ・・・私の魂よ!」



1939年版でも1956年版でも、聖職者でありながら女の魅力に負けて所有欲をたぎらせてしまうフロロの苦悩や、その恋敵を後ろから刺すという卑怯な行為に出た自分、そしてそれを正当化しようとした身勝手な行為はどちらも共通している。

でも、1939年版ではフロロの卑劣さが強調されていて、1956年版ではフロロの苦悩が強調されていたように思う。

1939年版では、苦悩と葛藤の末に恋敵を殺したあと、わが身を守るために「悪魔の論理」を構築して、強弁をふるうフロロの醜さ、卑劣さが描かれ、

1956年版では、苦悩と葛藤の末に恋敵を殺したあと、エスメラルダを救いたいけど、嫉妬のあまりに彼女を絞首刑にしてしまい、思いつめた挙句「悪魔の論理に至った」という感じ。

別の言い方をすると、1939年版は「悪魔の論理」そのものがクローズアップされていて、1956年版は「悪魔の論理に至る心理や過程」がクローズアップされている感じ。


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それに、頭が良すぎてあっという間に「悪魔の論理」を構築してしまった1939年のフロロに対して、今回のフロロの方が、静かに、人間味にあふれていた。

フェビュスを殺したのは自分なのに、愛するエスメラルダが処刑されそうになってしまったため、裁判の場でフロロは「エスメラルダは無実なんじゃないかな、魔女は言い過ぎな気がする。その黒い男がやった可能性もある・・・」と、ごにょごにょ歯切れが悪いとはいえ、エスメラルダをかばおうとしている。

なのにフロロが生きていると知ったエスメラルダが「フロロが生きてて嬉しいわ! 嬉しいってことは私は無実でしょう? でもそんなことどうでもいいわ。私があの人を不幸にしなかったというだけでも私は嬉しい。だって私はあの人を愛してるんだもの」とかなんとか言いだしたもんだから、ふつふつと腹が立ったフロロが思わず口にした言葉がこれ ☟

「愛とか生命とか、魔女が口にする言葉だ。魔女の中で一番危険な魔女だ。悪魔に憑かれたその黒い男が意に反して襲ったとしても、疑いもなくこの女が魔法にかけたのだ!」


フェビュスを殺したのはフロロで、この「悪魔に憑かれた黒い男」というのもフロロのことなのだから、要は「黒い男がフェビュスを殺した可能性が高いけど、それはこの女の魔術によって行ったことなので黒い男は悪くないのだ!(=だから私は悪くないのだ!)」と言っているわけ。

このセリフからも分かるように、フロロはなんと裁判の席で結構ホントの事をゲロってるのだった。


1939年版のフロロはエスメラルダを悪魔に仕立てて自分を救おうという身勝手さが強すぎて同情の余地がないけど、1956年版はひたすら苦悩して葛藤し、信仰との板挟みもあってついに「悪魔の論理」に至ってしまったという感じで、人間らしさが垣間見えて多少理解できる。


今回のフロロを演じたのはフランスの俳優、アラン・キュニー。1939年版はセドリック・ハードウィック。

私はどちらのフロロも良かった。


実は私はこの『ノートルダムのせむし男』の登場人物の中ではフロロが一番好きで、とても興味深く思う。

でもどちらのフロロが原作に近いんだろうか。

これは原作を読んでみなくてはならんな。うん ( `ー´)ノ


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最後にエスメラルダのこと。演じたのはジーナ・ロロブリジーダ。

最初にもさらっと触れたがイタリア人女優で、50年代にハリウッドでもブレイクして活躍した、肉体派系の女優。

エスメラルダは「美しくて純真無垢なジプシー娘」という役どころで、たぶん処女なんだと思う。それもただ処女だというだけでなくて、結婚するということがどういうことなのか、ちょっと分かってない、まだそういう知識がないレベルの純真無垢さ。

1939年版のモーリン・オハラのエスメラルダはその知的なお顔立ちもあってあんまりジプシーっぽくは見えなくて、今回のロロブリジーダはジプシーには見えるけど、男あしらいや男を翻弄する様が似合いすぎてて処女には見えないという感じ。

でもよーく見ていると、無邪気な少女のようにも見えてきて、どっちかというとオハラのエスメラルダが好きな私も、「ちょっとかわいいかも」と思った。


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それにしてもフェビュスはクズでしたな(笑) 

1923年版はまったく別物なので比較しないできたけれど、フェビュスに関しては絶大に1923年版が好き。だっておバカなんだもん(笑) ほんとおススメする。


しかしこうして3作品見て、そのいずれもがそれぞれ傑作、名作というのは素晴らしい。なかなか無いことだと思う。

原作の力なんだろうか。

やはり一度読んでみないといけないな ( `ー´)ノヨムゾ

 

 

 



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