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名作から駄作まで、見た映画の感想を正直に片っ端から記事にする、古い映画感想ブログです。驚くほど忘れてしまうので備忘録として。

【映画】「まごころを君に(アルジャーノンに花束を)(1968)」 これは私たちの物語。映画化と、原作のこと。

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題名 まごころを君に(アルジャーノンに花束を)
監督 ラルフ・ネルソン
制作 ラルフ・ネルソン
脚本 スターリング・シリファント
原作 ダニエル・キイス「アルジャーノンに花束を」1959年(中編小説版)
出演 クリフ・ロバートソン、クレア・ブルーム、リリア・スカラ、レオン・ジャニー
音楽 ラヴィ・シャンカル
上映時間 103分
制作年 1968年
制作国 アメリカ
ジャンル ドラマ、SF
受賞 アカデミー主演男優賞(クリフ・ロバートソン)



この映画は、とても有名なSF小説『アルジャーノンに花束を』の映画化作品。

この映画が日本で最初に公開された時の邦題は『まごころを君に』だったのに、いつの間にかDVD等では原作と同じ『アルジャーノンに花束を』になっている。なので1968年の公開当時やその後のTV放送などで親しんだファンの方は、映像ソフトを探しにくいかもしれない。


物語をすごく簡単に言うと、知恵遅れの青年チャーリーが、特別な手術を行った途端みるみる知能が発達していき、あっという間に天才のレベルにまで達し、一気に世の中の事が高度に理解できるようになる。そしてその効果は短期間で失われ、急速に元の知恵遅れの時の状態に戻っていく。そんな特殊な経験をしたチャーリーと周囲の人々との関係、ネズミの友達アルジャーノンのこと、キニアン先生との恋愛の行方、そしてチャーリーの未来やいかに、という話。


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私がこの『アルジャーノンに花束を』の原作小説を「超絶名作」だと思う理由は多々あるのだけれど、その中のひとつに「これは誰にでも起こりうる、私たちの物語なのだ」という感想を持ったことがあげられる。

一読すると、知的障害を持った青年が、手術で頭が良くなって、すぐに急速に衰えて元に戻る作品だけれど、これは決して他人事ではないのである。

私は高校生くらいの時にこの作品を読んで、感動したのと同時に「なんて恐ろしい」と心底悶えたのは、自分の未来が見えたような気がしたからだった。

人は誰でも赤ちゃんからスタートして、成長して、頭もよくなって、色々なことを判断することができるようになるけれど、年と共にやがては衰えて、例えば「痴呆になる」とかいう感じに、自分がやっていることは何なのか、今目の前で起こっている出来事をきちんと理解できているのかどうか、分からなくなる時が来るかもしれないのである。

いや、痴呆のように極端な症状が出なかったとしても、ただ健康に長生きするだけでも、生き続けるという事は衰え続けることなので、「昔は出来ていたのに今は出来なくなった」とか、「昔はみなが一目置いてくれていたのに、今はすっかり侮られている」とか、「若者たちが、衰えた自分を憐れむような目つきで見る」みたいなことは、いかにも普通にありそう。

出来ていたことができなくなる。理解できていたことが理解できなくなる。

私は心底身に染みて、「これは私の話なのだ」と思ったのだった。


そしてあまりにも名作すぎる原作なだけに映画化作品の方は大した期待もせずに観たけれど、「映画バージョンも悪くないな」と思った理由のひとつも、映画を観ても同じように「やはり私の話なのだ」とちゃんと思えたからなのだった(小説と比べるとちょっと落ちるとしても)。


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映画の話に行く前に、まだ原作を読んでいない方のために、前情報として作者と原作についてもう少し触れておきたい。

『アルジャーノンに花束を』はダニエル・キイスが50年代後半から60年代にかけて放ったSF小説で、最初は1959年に中編小説として発表され、1966年に長編小説として出版された。そのためふたつのバージョンがある。どちらも日本で手に入る。

アメリカのSF小説界には、SFファンの投票によって選ばれる「ヒューゴー賞」と、作家協会が選ぶ「ネビュラ賞」というふたつの大きな賞があって、どちらの賞も権威がある。両方とも取ると「ダブル・クラウン」と言われてさらに特別視されることもある。

この『アルジャーノンに花束を』の原作は、正確にはダブル・クラウンではないけれど、1959年に発表された中編小説Ver.が「ヒューゴー賞」を、1966年に出版された長編小説Ver.で「ネビュラ賞」も受賞しているので、客観的評価も高い。

ダニエル・キイスはこの他にも『五番目のサリー』(1980年出版)、『24人のビリー・ミリガン』(1981年出版)など、超話題作をいくつも物にしている。これはどちらも多重人格をテーマにした小説で、たしか80年代の後半か90年代の前半くらいに大きくブームがあったように記憶している。

この『アルジャーノンに花束を』も、「頭が悪かったぼく」と「頭が良くなった僕」の二つの人格の間でチャーリーが葛藤する場面が描かれていて、やはりキイスらしい作品なのだと思う。

原作、マジでお勧めします。読まずに死ねるか(©内藤陳)的な1冊。

以下は映画のあらすじだが、原作にかなり忠実に映画化されていたと思う。


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****** あらすじ ******
頭が良くなりたいと強く願う知恵遅れの青年チャーリーは、しょっちゅう大学を見に行ったり、図書館に行ったり、夜間学校に通ったり、字を書く練習をしたり、日々の努力を怠らない努力家だ。普段は屋根裏みたいなアパートに住んでいて、毎日パン屋で働いている。パン屋で一緒に働く仲間たちとはいつも楽しく働いていて、毎日笑い声が絶えない。それにチャーリーは夜間学校のキニアン先生の推薦で、大学の研究所に通って研究の手伝いもしている。博士たちはチャーリーにいろいろとテストをして記録している。

ある日、大学のストラウス教授とネマー教授のコンビは、頭が良くなる手術をしたネズミ  ”アルジャーノン” と迷路で競争するようチャーリーに持ちかけてくる。「ネズミに負けたりなんてぜったいしない」と思うチャーリーだったが、あっさりと迷路で負けてしまう。教授たちはアルジャーノンと同じ手術をそろそろ人間にしたいと考えていて、夜間学校のキニアン先生の推薦の結果チャーリーが手術に選ばれることになる。頭が良くなるのが念願だったチャーリーは大喜びする。

手術を受けたチャーリーは、日に日に頭が良くなっていく。スペルを間違えずに書けるようになり、会話のレベルがどんどん上がり、学者なみの知識が身につき、あれよあれよとキニアン先生をも追い越してしまう。それにチャーリーは女性に興味を持つようになり、キニアン先生への恋愛感情を自覚する。

チャーリーの変化があまりに急すぎて、感情面ではまだ子供であると主張し慎重になるストラウス教授だったが、学会のシンポジウムでチャーリーの成果を華々しく発表するつもりのネマー教授は聞く耳を持たない。そんな中、チャーリーはパン屋の仲間とうまくいかなくなっていたし、キニアン先生に告白して断られ、力づくで先生をモノにしようと床に押し倒し、キニアン先生に拒絶されていた。

それでもキニアン先生はすぐに思い直してチャーリーを受け入れ、二人は愛し合うようになり、とても幸福な時間を共有する。

いよいよ学会シンポジウムの時がやってくる。高らかに成果を発表する教授たちだったが、チャーリーだけは様子が違っていた。聴講する学者たちの、人類の未来に関する質問に次々と簡潔にこたえていくチャーリーは、最後に自分からも学者たちに質問を投げかける。「チャーリーの未来は?」と。実はチャーリーは、自分より先に頭が良くなる手術を受けたネズミ ”アルジャーノン” の知能が急速に衰えて死んでいったことから、これが一時的な現象にすぎないことを知っていたのだった。

現実を受け入れたチャーリーは、自分の知能が低下するのを防ぐべく、不完全だった教授たちの論理を完全なものにしようと全力を傾ける。しかし運命はチャーリーの味方はしなかった。
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※ あらすじの教授の名前に関してだが、原作では「ニーマー教授」だったけれど、映画では「ネマー教授」と字幕が出ていたので字幕に従った。

 

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結論をいうと「悪くなかった」。

いや、これは結構いい映画なんじゃないか。結構原作に忠実に映画化されていたと思うし、103分という時間の中で、かなり丁寧に描けていたのではないかな、と思った。難しいテーマなのに、かなりやれてた方なんじゃないかな。


原作はチャーリーが書く報告書の体で話が進んでいくのだけれど、「◎月◎日 けえかほおこく きょうはいろいろなことがありました」みたいな感じで、簡単に言えば日記のようにチャーリーの一人称で話が進んでいく。チャーリーは知能が遅れているので、最初はひらがなばかり、そのひらがなすら誤字脱字ばかり、句読点はめちゃくちゃだし、とてもとても読みづらい。

それが手術を受けてからはみるみる文章が上手く、賢くなり、しまいには専門用語が羅列されるようになって難しいことばかり書くようになり、その後またひらがなが増え始め、誤字脱字が増えていく、という形でチャーリーが元に戻ってしまう様子が伝えられるのだが、これがとてつもなく悲しい。

もうほんとに悲しくて悲しくて仕方がなくなるほど悲しいのだが、この「報告書スタイル」が大変効果的で、この小説を、読んだ者の心をつかんで一生忘れられない小説たらしめている理由の一因になっている(はず)。


でも映画だとカメラがあって、どうしても監督目線の客観的な表現になってしまうから、この手法が使えない。原作を知っているとこれはいかにもイタイ。

じゃあその活字の分をチャーリーが沢山喋って、そのしゃべり言葉が最初はすごく頭が悪そうだったのが、みるみる学者さんのように難解な言葉を駆使し始めるみたいな、文字をセリフに置き換えていく手法になっていたかというと、そういう感じにはなっていなかった。

もちろん頭が悪かった時のチャーリーだって喋るし、頭が良くなったチャーリーだって喋るのだが、不自然なほど殊更に喋る様子は全くなくて自然だったし、どちらかというとチャーリーの台詞に頼るのではなく、行動とか、周囲の状況とか、出来事とかで表現しようとしていたので、映画としてとても自然だったと思う。

小説ならではの技法を無理に映画に当てはめようとして訳の分からない作品になるよりは、映画としてオーソドックスに描いていたのは良かった。


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ロッカーからなんかいっぱいパンだねでてきた



それにしてもチャーリーの働くパン屋の野郎どもは、ほんとくそ。くそ、くそ、ほんとくそ。今こうして思い出すだけでもうほんとにくそ。地獄に堕ちろと言いたいくらいくそ。


・・・突然汚い言葉を羅列してしまったが、私は普段からこのように口汚いわけではない。

でも、こういう汚い言葉でないとどうしても伝えられない「くそさ」というのはあると思う。

誰かを批判するときや怒る時に、感情的にならずに批判することは大事だけれど、理屈じゃなくて感情で怒りたい時があったっていいと、私は思ってる。相手があまりにもあんまりな場合、私は不快感を全力で表したい。「極めて不愉快です」「そういうのは私は嫌いです」 私にとってこれはそのケース。もうくそすぎる。こういう奴ら、許せない。

何がそんなに楽しいんだ。ばか。


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くそたち



チャーリーはね、自分の知能が遅れていた時、あなたたちパン屋の仕事仲間が自分にする行為が ”いじめ” だなんて全く気が付かずに「みんな友達」と思って楽しかったんだよ。

原作だとさらに詳細に語られるけど、チャーリーは「僕といるとみんなが楽しそうで嬉しい」って思ってたんだよ。罪深いところなんてまったくないチャーリーなんだよ。天使なんだよ。それをなんだ、ばか。


ところが頭が良くなる手術を受けたら、それがいかに念願の手術だったとはいえ、いろいろと気が付いてしまうわけよ。

「ああ、あれはいじめられていたのだ、自分は愚か者としてあざ笑われていたのだ」と気がついて、チャーリーは悲しい。私も悲しい。

そして、今度はまたその「あざ笑われていた時と同じ元通りの愚か者に、自分はまた戻っていくのだ」という、そういう自分の悲しい未来が見える男になってしまったチャーリーがとても悲しい。私もつらい。


知能が遅れてるのに「頭が良くなりたいな」って健気にも思っていたチャーリーはそれだけでも十分悲しいし、頭が良くなったら良くなったで悲しいし、頭が悪いってどういうことか、今度は100%理解したうえでそうなっていく自分と向き合わなくてはいけないチャーリーが悲しい (T_T)

悲しくて悲しくて、もうほんとに悲しい。


そして最後の最後、映画のラストも悲しく終わる。ぶらんこに乗るチャーリーから突然はじまるエンドロールが無音なのが悲しくて、でも良かった。

無音かあ、やるなあ。


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頭が悪かった時の自分をみつめるチャーリー



他にも見どころとしては、チャーリーとキニアン先生が恋愛関係になった途端に演出がガラリと変わって、スプリットスクリーン(画面が何分割かされるやつ)とか、スローモーションとかが多用されて、いきなりエッジの効いた作品みたいな映像がくりひろげられたのは、だいぶ意表をついた。印象に残る。なんか別の映画になったみたい。

ちょっとトリッキーな画面になるから、センス良くはまれば格好いいような、でも今となってはダサいような、なんかこそばゆい感じがした。

突如訪れた自分の幸せを、全力で楽しんでいる感じがバシバシ伝わってくる。演出としても唐突だったけど、チャーリーの青春も唐突に訪れたわけだし、「人生の春から夏」っていう感じで、これはありな演出なんじゃないかな。

それにしてもこの時代、こういうスプリットスクリーンが流行ってたのかな。今ぱっと思い浮かんだのは当ブログでもだいぶ前に紹介した『大空港(1970)』なんかは盛んに使われていた気がする。


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そしてその分割された画面の中では、バイクにまたがるワイルドなチャーリーのお姿が拝見できる。革ジャンを着て、だいぶワイルド。

この前紹介した『レベルポイント(1979)』で、マット・ディロンが乗る自転車についていた旗に「チャーリー」って自分の名前が書いてあったことにびっくりして「名前ww」って思ったものだが(名前が同じなのは偶然)、こっちのチャーリーも革ジャンの背中に「チャーリー」ってデカデカと書いてあったwww

なにこれ。チャーリーさんがそういうタイプなのかしら(そんなわけない)。

背中に「佐藤」とか「SATO」とか「太郎」とか「TARO」とかそういう感じか。名前、書くかなあ。デカデカと。日本では見かけないがなあ。戦国武将ののぼり旗だって名前じゃないし、ヤンキーの特攻服とかも「愛羅武勇」「天上天下唯我独尊」とかで名前じゃないもんね・・・

どういう感覚なんだろう。アメリカ人って、不思議だ。


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ところでチャーリー役をやったクリフ・ロバートソンはこの映画でアカデミー主演男優賞を取っているのだけれど、ロバートソンの知的障害者の演技がそこまで優れていたかどうかは私には分からなかった(特に悪くもないのだけれど)。

私は小学生の頃に、近所に住んでいた結構重めの知的障害を持った女の子の面倒を見ていて、留守番したり、一緒に遊んだり、買い物に行ったり、お祭りに行ったりしていた経験を持っているし、その後施設に入って10年以上が経過して大人になった彼女とも会ったことがあるのだけれど、このロバートソンの演技をみて「比較的軽め設定なのかな」と思った。確か映画内で「IQ70」みたいなセリフもあったと思うのだけれど(勘違いかもしれないが)。

映画の最後の方で、本当に知的障害を抱えた子供たちが数人映るシーンがあるのだけれど、彼らは間違いなく一目で知的障害を持っているのだと分かるけど、ロバートソンは、だいぶ「演技」だった(当たり前だが)。

どうやらこのロバートソンさん、オスカー受賞に関して「不正があったのでは」と噂されたりなんかしていたらしい。不正というか、強引なゴリ押しで受賞できた可能性があるのだとか。ロバートソンに入れるよう運動があったと。


それが本当かは分からないのだけど、彼の英語版Wikiのプロフィールをしげしげ眺めていると、この『アルジャーノンに花束を』の映画化に深くかかわっているようだし、この作品と役柄への強いこだわりがあったように見受けられて、「オスカーが欲しくて盛んに運動したというのはありうるかも」と思った。

まず、『アルジャーノンに花束を』は、映画化される前に『The Two Worlds of Charlie Gordon(チャーリー・ゴードンの2つの世界)』というタイトルでTVドラマ化されていたようで、ロバートソンはまずここでチャーリーを演じているが、ただ俳優として関わっただけでなく脚本家を指定したりもしているご様子。

その後映画化権を自ら購入して映画化に乗り出すのだが、TVドラマの時の脚本家ウィリアム・ゴールドマンが気に入らなかったようで、スターリング・シリファントに変更したのもロバートソンらしい。

そして興行成績的にも本作は成功し、彼にとっては唯一であるアカデミー主演男優賞受賞と相成った。


さらにその後、なんと続編(?)の『Charlie Ⅱ』を作ろうともしていたらしい。しかも本を書いたのもロバートソン自身だったよう。

残念ながらこの話は実現しなかったわけだが、なんと続編かあ。

一体どんな話になる予定だったのか想像もつかないけど・・・再手術かなあ(ふふふ)。

私は続編はいらないと思うけど、いずれにしても作品への「愛と気合」が感じられて、こういったゴシップ的な話があっても、別に良いのではないかと思ったのでした。

おしまい。







☟ 原作はこちら(長編Ver.) kindleでも出ています




☟ オリジナルの中編Ver.が収められているのはこちら。これもkindleでもOK。