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割と自己流で生きています

【本】 アイラ・レヴィン「死の接吻(1953)」~すべてがずり落ちてゆく~ これも映画化できない系 



題名 死の接吻
作者 アイラ・レヴィン
出版社 ハヤカワ・ミステリ文庫 
出版年 1953年
制作国 アメリカ
ジャンル 小説、ミステリー

 

以前とりあげたアイリッシュの『幻の女』と同様、「映画化できない系」の作品(されてるけど。2回も)。

ドロシイ、エレン、マリオンの3姉妹と、彼女たちを狙う「逆玉サイコ野郎」の話。全部で三部に分かれていて、第一部が「ドロシイ」、第二部が「エレン」、第三部が「マリオン」と、主人公のターゲットになる三姉妹の名前が付けられている。


主人公は若くてハンサム、女にモテて、頭もいい。彼は貧しい生い立ちと複雑な家庭、第二次世界大戦での日本兵との対決などを経て、野心家へと成長する。成り上がる事しか頭にないが、自分の実力ではなく、金持ちの娘をモノにして金や地位を一挙に手に入れようと画策する。

最初の標的は、製銅会社社長の娘ドロシイ。彼にぞっこんの彼女は、彼が自分の家の財産目当てとは思いもしない。そのうえ彼女は19歳の学生の身でありながら、彼の子供を妊娠してしまう。結婚を望むドロシイだが、主人公は望まない。このままでは彼女の父親に逆鱗に触れて、自分の野心が叶わないと考え、甘言を弄してなんとか堕胎させようとする。そして失敗したと知るや、彼女の殺害を実行。ドロシイ相手の玉の輿に失敗した彼は、次にドロシイの姉エレンをターゲットにする。



アイラ・レヴィンの処女作。アイラ・レヴィンは結構好きでいくつか読んでるけど、寡作なのに駄作が少ない(ひとつ「やっちまった」のがある)。

この作品の面白さは、後半に至るまで犯人が誰なのかが分からないところ。

推理小説やミステリーは、犯人が最後まで分からないの当たり前じゃん?って、思いますよね。

そうなんですけど、この作品の場合、作者は最初の「ドロシイ」の時は主人公目線(倒叙法)で書いていて、しかも三人称の「彼」「彼女」の使い分けで小説を書き進めていくんです。ドロシイの方は主人公が名前を呼ぶから「ああドロシイっていう名前なんだな」って分かるけど、ドロシイは「あなた」とか言って、主人公を名前で呼ばないわけ。だから読者は「主人公なのに『僕』が誰だか分からない」という仕組みになってる。しかもほとんどその二人しか出てこなくて、他の登場人物がほとんどいない。

そして第二部の「エレン」では、第一部が主人公視点だったのに、急にエレン視点に代わり、男性が3人出てくる。しかも「彼」「彼女」の書き方をやめて、固有名詞で登場人物たちを描き始める。「エレンが・・・」「✖✖は・・・」って。

読み始めは主役が犯人だから、感情移入・・・はしないかもしれないけど、犯人目線で読み始めるでしょう。ところが第二部ではその犯人がどっかに行っちゃう。もちろん出てきてるんだけど、どれが彼だか分からないんですよー。良く出来てるなあと思った。こんなことが出来るのは小説だからこそ。

そして最後に訪れる主人公の運命。序盤に出てくる伏線が生きて、なんとも・・・悲しい。

ばかなやつ(哀)。

主人公は本当にクズなんですよ。人の命なんてなんとも思ってない。ドロシーにした仕打ち見た?(見てないです。読みましたけど)
あれだけのことをしていても何とも思ってない。もうゼロ。反省はおろか、感傷に浸る事すらない。悪魔ってこういう感じかなと思う。

だけど、作者の筆力なのかなあ、わびさびすら感じられる。こんなにクズなのに、最後は同情するっていうか、なんか・・・抱きしめたい気持ちにすらなる。

こういう時、「作家ってすごい」って思う。

みなさんはどうでしたか?(まだちょっと下につづく)





一度読み終わって、もう一度最初の方に戻って「僕」の生い立ちを読み返すと、あらたな感情が起こって興味深い。レヴィンはすごくさりげなく書いてるけど、お母さんが「僕」をそういうふうにミスリードしている感じがあるし、「僕」はお母さんの期待に応えてるふしがある(マザコンとかじゃなくて。なんでもかんでもすぐに「マザコン」とかって単純化するの、雑すぎて嫌い)。中年女との交際のあとで故郷に帰っていくとき、色々質屋に入れたりしている描写とかを読み返すとなんだか・・・やっぱり・・・可哀想なやつ(哀)。  



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