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割と自己流で生きています

2024/9/12(木)晴れ 風太郎

 

 

いつも通り家を出る。晴れているけど雲も出ているので、あまり汗をかくことなく駅まで着けた。空はまだ夏の雲。

上空を自衛隊機のヘリがバリバリゆく。空襲か。

 

木曜日は週で唯一、ルーチンでやる仕事がある日。そのせいか今朝は気分が軽い。私、仕事は暇なの大嫌い。忙しい方がいい。今日は大きめの学会があるから先生たちが少ないので、きっとまったりした一日になるだろう。

 

10月から木曜午前の外来が一人足りない問題が解決しない。理事長はいまだ解決案を提示できない。

それというのも自分が気に入らないドクターを次々と辞めさせているわりに、その後の補充やプランがなにもないのが原因。

今もこの9月一杯でドクターを一人クビにしたくせに補充もなければ、解決するためのアイディアもない。10/3から早速問題発生なのに。口にするのは行き当たりばったりの小手先のごまかしだけ。

ベテランが辞めるの、今年度だけでもう3人目。「こいつを今クビにしたらどんなダメージがあるかな」って考えないんだろうか。

いいかげん感情で経営するのやめて欲しい。ていうかやめるべき。

 

14:00頃休憩に入る。お昼は食べない。仮眠したり、スマホを見たり、本を読んだりして1時間過ごす。

思った通り、今日はドクターが少なくてオペも10件しか入っていない。医局はガラガラ、実に静かだった。落ち着きすぎて、今日が金曜日かと思ってしまう程。すっかり弛んで若干寝てた。明日はもっとドクターが少ない。気楽だ。いても気楽だけど。

15:00頃戻って、退勤時間まで仕事をしてみようとしたり、するのをやめてみたり、ネットニュースを見たりして時間をつぶす。ドル円が少し円安方向に戻してきた。いいぞ。ドル円やってないけど。17:35退勤。

 

帰ってブリリアンクリプトのツルハシを回復したり、ラス1を自分で掘ったり、夕飯を食べたり、ゲーム実況を見たり、ドル円の行方を見たりしながら過ごす。

 

 

昨夜、山田風太郎の『戦中派虫けら日記』を読み終わった。1942年(昭和17年)から1944年(昭和19年)の間の、風太郎20歳から22歳の日記で、真珠湾攻撃から1年が経とうとする1942年の11月から始まり、1944年一杯が対象になっている。

最初は口語体で読みやすかったのに、途中から文語体になって戸惑うが、しばらく読んでいると慣れてあまり気にならなくなる。

20歳とは思えない文章力や内容に「ただものじゃないな」と思いつつも、いや自分だって20歳の頃の方が今よりずっと頭も良かったし、高尚なことも考えていたとも思う。若い時は感受性も豊かだし、自分の目の前に広がる大人の世界に打ちのめされたりして、真剣に悩んで道を探してた。もちろん風太郎の足元にも及ばないので、自分にしては比較的、という話だけど。

風太郎は1943年ごろまでは兎に角よく食べている。自分は痩せっぽちだと書いているのだけど、一日に何軒もまわって、というより昼ご飯で数軒回り、夜ご飯で数軒回り、天丼を食べ寿司を食べケーキを食べあんみつを食べコーヒーを飲み、とにかく食べる。家に帰ってから、知り合いに貰った炊き込みご飯まで食べる。甘党なのか、甘いものを沢山食べている。

前半は工場で働き、そのうちに医学校へ通う学生になるが、親戚から生活費を送ってもらっていると言っても豊かではない中で、相当な金額を食べることに費やしているように思う。

物資は豊かではないがまだマシな時期だったんだろう。とはいえ食料が余ってるわけではないから、食べられるときに食べておこうという意気込みを感じる。ないから尚食べたい、そんな印象。

ところが徐々に食料が配給制になり、外食券が発行され、風太郎は一回の食事に外食券3枚を使うという具合で、一か月分の外食券を数日で使ってしまう。それで食べられるものと言えば ”雑炊” 程度のもので、腹は満たされない。なのに何百人も人が並んでいるのである。

そのうち食べ物のことが書かれなくなり、空襲の話が増えていく。1944年の11月頃から徐々に空襲が増え、人々は建物疎開で建物を打ちこわし、防空壕を掘る。そのうちB29が毎晩やってきて哨戒し、爆弾をちょろっと落としたり落とさなかったりして関東上空をグルグル廻り去っていく。

消耗戦をしかけているのかな。夜中にやってくるので部屋の明かりをつけられず、暗闇の中で何もできず、かといって眠れず、ただ暗闇の中B29が去っていくのを待つ。冬の寒空の中、燃料がないので火も焚けず、暗闇の中で布団にくるまり、B29が去るのを待つ。日本軍は反撃しないわけでもないが、弱弱しい。

 

○ 山田風太郎『戦中派不戦日記』を読み始める。