mです。
何かと物議をかもしている2020東京オリンピックの開会式および閉会式ですが、まあ散々でしたね。
見ていて「心が沈むお祭り」というのも珍しい。
私もみなさんと同じように気が滅入ってしまったのですが、ふと、
いやまてよ。これは十数年後に高い評価に化けるかも。
と思い始めたので、今日はどうしてそう思い始めたのかについて書いてみようと思います。
とりあえず前置きですが、私は1964年だとまだぜんぜん生まれていないので、1964東京オリンピックに関しては知識でしか知らないし、スポーツ自体たいして詳しくもないのですが、昔は「オリンピックの開会式マニアになりたい」と思ったこともあるし、PerfumeとBABYMETALのファンだしということで、この数年今回の開会式をとても楽しみにしてました。
Perfumeがきっと出る!と思っていたので、MIKIKO先生の演出がなくなったことを残念がったり、小山田圭吾のサイコパスな思い上がりに絶句しつつも、「まあ、一応チェックしよう」と思って、モニターの前で正座をするような気持ちで拝見いたしたのですが、大方の感想通りあまりにも「わびさび」がすぎる演出に気持ちが沈んでしまいました(正座はしていません)。
なんてさみしい開会式なんだろう。ワクワクドキドキ、明日から頑張るぞ!!みたいな気持ちにさっぱりならない。
「こんな日本見たくない」と思いました。
★Youtube 2016リオ閉会式 MIKIKO×ヤスタカの部分は1:45:00くらいから
(2020東京は、☟これの続き・・・ではなかったようです)
そして私はこの2020東京オリンピックのさなかに日々行われている競技そっちのけで、なぜか1965年に公開された市川昆監督の映画『東京オリンピック』を見ていました。
”東京の徹底的な破壊” から始まるこの映画は、すべてを破壊し新しく作り変える日本と、日本初のオリンピックに沸き返る国民の興奮と戸惑いを描いた大傑作なのですが、「破壊からの創造が生み出すエネルギー」の1964東京オリンピックなはずなのに、その開会式は私が今まで見てきたオリンピックの開会式のような派手な演出は全くなく、ただ選手団が入場し、手を振りながらトラックを一周歩き、それから昭和天皇の開会宣言と聖火点灯があるだけなのでした。
ただの運動会。
この一言に尽きるあまりの素朴さに、逆に私は新鮮さを感じてしまって、「そうだよなあ。これでいいのかもしれないんだなあ」と思ったのでした。
現在に至る「ド派手な演出の金喰いオリンピック」の始まりは、宇宙飛行士が空中を飛んだ1984年のロサンゼルス・オリンピックからと一般には言われていますが、実際は開会式こそ素朴ではあったけど、「すべての競技施設を一から作り、道路を造り、新幹線を作り、ホテルを作り、ありとあらゆるものを新品にして開催した東京オリンピックが、金喰いオリンピックのはじまりである」と、私が敬愛する橋本治が『二十世紀』で書いていたのを思い出します。
ここで橋本治は、そもそもオリンピックは ”都市で” 開催するものにもかかわらず、日本は世界で初の「オリンピック担当大臣」というものまで用意して、国を挙げてオリンピックに挑んでしまったことを、恥ずかしいこととして書いています。
でも東京はたった20年前には敗戦後の焼け野原だったんだし、なんといっても橋本治が言うように「外人さん」が大勢来るから恥ずかしいので洋式トイレを作らなくっちゃというのも、そんな日本が悲しいけど、でも仕方がなかったと思います。「おもてなし」ですよ。今となんにも変わってない。私は当時の日本人のいじらしさを抱きしめたい。
そして結果的には「ご丁寧にふたつも原爆を落とされた敗戦国日本がたったの20年余りで、税金をガンガン投入して競技場はおろか都市ごと大改造してオリンピックを開催してしまった」がために、その後開催する国(都市)はまさか使い古した会場で開催するわけにもいかず、税金を投入してがんばっても赤字赤字で国が疲弊してしまいます。
そこで、いよいよ1984年のロサンゼルス・オリンピックではスポンサー収入やTV放映権などを駆使し、税金が ”1セントも” 使われないという、 商業オリンピックが誕生することになったのでした。
もちろん商業化するのは運命だったと思います。それが可能になった技術的な進歩もあるし、様々な要因が重なっての結果だと思います。
でも、口には出さなかったかもしれないけれど「アジア人で唯一オリンピックを開催するというだけで十分生意気な日本が、しかもメタメタに国土をぶっ潰された敗戦国でありながら、あっという間にオリンピックを開催するまでに復興しただけでなく、ありとあらゆるものを新しくして開催するなんて、そんな格好いいことされて負けられん!」という自負というか優越意識がなかった、とは思えません。
そんな本音もありつつ、「それに儲かった方がいいし、盛り上がった方が楽しいしね」というわけで商業化に拍車がかかってしまったんだろうなあと、私なんかは予想するわけです。
でも、そういう商業主義を極めたオリンピックは、ずっとずっと批判されてきました。人は金が絡むとこんなにも下品になれるのかという下司な出来事は過去にもあったし、今回の2020東京オリンピックでも枚挙にいとまがありません。
ボランティアの扱いひとつとっても「なんて理不尽な」と、怒りを通り越してあきれて、もうどうでもいいや、みたいな気持ちになっていました。エンブレムひとつとっても馬鹿すぎて、「日本はここまで厚かましく、衰退してしまったのか。もう日本には国際的な大規模イベントを開催する能力はないのではないか」と思うほどでした。
当然、コロナ禍&自粛時代の中、「だからこそ景気づけに盛大にやるのだ!」という考え方もあれば、「世界中が悲しみに沈んでいるのだから地味で良いのだ」という考え方もあるでしょう。
でも、色々なことを併せて考えると、今回のオリンピックの開会式&閉会を見て「実にケチくさい、スケールの小さな開会式だな」と思ってちっとも感動も感心もしなかった私は、いまだに20世紀的な価値観を引きずっているだけなのかもしれないなという気にもなってきました。
お前は(私です)ド派手な開会式が見たいのか、商業オリンピックに反対なのか、どっちなんだ! ということです。
・・・まあ私は国力を見せつける、ド派手な開会式が見たかったんですけど(笑)
でも・・・知れば知るほど、欲望が渦巻くお祭りなんてもう気持ち悪い、とも思い始めました。
200年続いた物質的な「地の時代」が終わって、精神的な「風の時代」に入ったのだと、去年あたりから占星術で言っているし(200年続く次のサイクルへ入ったらしい)。
するともしかすると、これが次回以降のスタンダードになる可能性がなくもないな、と思い始めました。
もちろん今回はそんな未来を見据えた理念なんかは全然なくて、ただ単に「女に手柄を取られたくなかったオヤジたちの暴挙」と、やるのかやらないのか決めきれない政府のせいでどっちつかずだった結果の「手抜き」と、1年延期した分上乗せされた予算の「中抜き」の結果が、今回の開会式&閉会式だと思います。
でも、今後開催されるオリンピックの動向によっては、今回の2020東京オリンピックに裏ドラがガンガン乗って、21世紀を代表するターニングポイント的な記念すべき特筆すべき画期的な大会として記録に残るかもしれない(たとえまぐれだとしても)。
東京オリンピックで始まり、東京オリンピックで終わる「商業オリンピックの時代」。
きれいにまとまるなあ、なんて。
というわけで、次回のパリ大会を楽しみにしてる。ここで今回の2020東京オリンピックの評価が決まるかもしれないからね!
(・・・その前にある冬の北京オリンピックも、もちろん注目する。「全世界に黙とう」的な控えめモードで開催するのか、ぜんぜん気にせずスケールアップしてくるか・・・。彼らは別のルールでゲームをしていますからね。まあたとえ控えめモードだったとしても、中国は経済危機が叫ばれている昨日今日なので、1年後はお金が無いだけかもしれないけども)
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