※なにかと話題のメンタリストDaigo氏の出来事とはなんの関係もなく書き始めた文章だったのですが、書いている最中に例の『生活保護とかホームレスの命なんて俺のかわいい猫以下。俺には関係ない。死んでいい。』発言をしてくれたので、最後の方にちょろっとだけ触れています。ただの私の感想文でしかなかったのに裏付けしてくれてありがとうございます。私は君の事、もともとあんまり好きじゃないから応援はしないけど、お礼は言っておきたいです。
- はじめに
- 昔、動物は犬畜生だった
- 個人的な動物観と世の中の流れ
- たとえ時代は変わっても、本質は変わらないのだと思い込んでいたこと
- しかし「負けを認める日」がやってきた
- 割とあっさりと負けを認めた理由
- そしたらメンタリストDaigo登場
はじめに
mです。本題です。
わたくし最近「私の命って ”動物” よりも軽いんだな」と悟りました。
本当は「”犬畜生” よりも」って書きたいんですけど表現が強いので、21世紀の人の中には拒絶反応を起こす方もいらっしゃると思うので穏当な表現に変えました(←って言いながら書いてんじゃん)。
※注 ちなみに「犬畜生」というのは ”犬などのけだもの” のことを言う伝統的な表現です。転じて、人間に対して差別的な意味合いで使用されることもあります(例:「お前なんか犬畜生以下だ!」みたいな)。また、普段悔しい時などに使われる「ちくしょー」というのも、この畜生です。この場合は「俺(私)は犬畜生みたいにくだらない奴だ!」というような意味で、つまり自分を自分でののしっている表現です。でもここでは人間に対してではなく、そのものズバリ「人間以外の動物たち」を差しているので、ぜんぜん差別ではありません。
もとい、「私の命って ”動物” よりも軽いんだな」と気が付いてしまったのですが、特に誰かに何かを言われた訳ではなく、ある日突然「は!」という感じで悟りました。「ユリイカ!」的な感じ。神の啓示でしょうか。
そして「おかしい!許せん!人間の命が一番大事なんだ!!」みたいな憤りを全く感じず、むしろ「まあなー、むー、なるほどねー。そうかもなー、まあしょうがないかあ」という具合にちょっと納得がいかないながらも受け入れて、負けを認めている自分に驚きました。
いったい私どうしたのかしら。覇気が無くなったのかなあ。
というより普通に生活する中で時代の変化を感じていて、「だんだん命の価値が変わっていく・・・」と薄々感じていたのでしょう。それが今年に入って色々と結びついて、今回の悟りに至ったのだと思われます(こんなのは悟りとは言わないけど)。
昔、動物は犬畜生だった
でも、昔はそうではなかったと思うんですよね。「犬は外、野良犬も普通、生き物はたいていみんな外」みたいな感覚。人間と猫だけが中にいる感じ。
70年代とか80年代とかだと今よりはタフで雑な時代だったから、生き物の命が大切なのは当たり前の話で大事なんだけど(アジア人ですもん)、でも「いざとなれば動物よりも人間の命の方が大事」というコンセンサスがあった気がします。他人であっても、いざという時は人間の方が大事。
それが徐々に社会が豊かになって行き、バブル景気をきっかけに人間たちの衣食住が満たされて、余った富がいよいよペットにまで回っていくのがCMを見ているだけで感じられました。
そしてとうとう「お犬様」「猫様」の時代が到来。『生類憐みの令』よ、再び。日本が貧しくなって職も食べ物もない隣人たちがいても、自分のペットを愛でて毛並みをそろえてあげる時代。
これでいいのかなあ。なんだかモヤモヤする。
個人的な動物観と世の中の流れ
私の元々の「動物観」というのはたぶんいたって普通で(たぶん)、小学生の頃は子供らしく「犬可愛い!飼いたい、飼いたい」みたいな時期があり、家庭やコミュニティの事情で大きなペットを飼うことは出来ず、あの時代には普通にいた野良犬を可愛がっていました。
その後、野良犬は町から姿を消して目にすることは ”絶無” となりました。どうしてかなあ。野良猫はいるのに野良犬はどこにいっちゃったのかなあ(すっとぼけ)。
その後高校生にもなると生意気になってきて、「動物をペットにするのはいいとして、勝手に去勢するなんて人間のエゴだ!」とか「だいたいペットを愛でる習慣のある人は自分のことを優しい良い人だと思っている節がある! 生き物を不幸な自分の慰みものにしてる時点でエゴイストのくせに、自覚がないだけ余計に罪深い!」なんて、動物愛護週間かなにかの電車の中吊りを見るたびに独りで怒ってました笑
若かったなー(遠い目)。
同じ頃バブル経済が到来。キャットフードのCMが、ものすごく高級になったのもこの頃だと思います。
商品である猫の餌が入った、値段の高そうなカットの入ったシャンパングラスみたいなエサ入れを、これまたお高そうなスプーンで人間が「チンチン」と鳴らすと、首輪を付けた、お高く留まったお高そうな猫がしなやかな跳躍でやってくる、というCMです。
日本が豊かになったんですね。
私は「実にしゃらくさい」と思っていました。猫の分際で、人間よりいい扱い。猫の食事は ”ねこまんま” って昔から決まってるのに。サザエさんに出てくるタマが、そんなもん食うか?
☟記憶と少し違うけど、こんな感じ
その後は特にこれ以上考えるきっかけもないまま30代後半になった頃、あるニュースを見ました。
古すぎてソースはないのですが、簡単に言うと確かアメリカで、野生のクジラの命を救うために、巨大な水槽がある博物館だかどこかに運んで治療をほどこすためにヘリコプターでクジラを吊り上げて救急搬送している写真というのを見たのです(イルカだったかもしれない気がしてきた)。
クジラですからね、それはそれは巨大なヘリコプターでした。もう大変な大がかりですよ(イルカだったのかなあ)。
結構衝撃でしたね。「こ、こんな大騒ぎして、クジラを!?」と(イルカだt・・・しつこい)。
それを見た時私はびっくりして、「私の命が危険にさらされた時も、同じように大騒ぎして救おうとしてくれるんだろうな!」と思いました。「」の部分は若干怒りのニュアンスで読んでください。
その時は、私の命なんかが危険にさらされても、きっと誰も騒いでなんてくれないんだろうな、と思いました。
このことを当時の同僚に「ニュース見た時そう思ったんだ」って話をしたら、すごくウケて「mさん、面白い発想するね」って褒めてもらいました。
・・・あとになって考えてみれば、私だって救急車くらい呼んでもらえて救急隊の人とかが騒いでくれると思うんですけど、その時はなんだかひがみっぽくなっていたのかもしれません(私ってば助けてもらいたいというより、騒いでもらいたいみたい笑)。
その後Youtubeの時代になり、動物関連動画が大量に放出されるようになり、非常に再生回数を伸ばしていることは知っていましたし、TV番組でもペット関連の番組が増えたことも薄々は感じていましたが、私はあまり興味がないのできちんと見たことがありませんでした。
ネットで「クジラは知的だから食べてはいけない」とか「馬も知的だから食べてはいけない」とか、「生で食べるのは残酷だ」とか「ウナギのさばき方がどうのこうの」、「踊り食いは残酷」だのと、日本の食文化に対して世界中の人々が「残酷」と考えているコメントを見ては、
「ほっとけ」「こちとらこれで数千年やっとるんじゃ」「こっちは食事するとき今まさに食べようとする目の前の命に感謝しとるんじゃい。日々の糧を神に感謝する人たちに言われたくないね」
と思っています。
たとえ時代は変わっても、本質は変わらないのだと思い込んでいたこと
そのように時代はどんどん変わり、ペットを飼うことが当たり前になり、「ペットも家族の一員」としてすっかり世間から認められたようですが、動物にあまり興味のない私はいつも蚊帳の外で、他人事でしかありませんでした。だから実感がなかった。
「人の命は地球よりも重い」と言われていた時代から、今はもう「あらゆる命が地球よりも重くなった」みたいですけど、そんなナンセンスなこと私は認められないな、って思っていました。
「その地球より重い命が70億個あるんですけど。それがあらゆる命になったら、あらゆる命の重さが軽くなるってことなんじゃないんですか!」と。
だって、いつまでも日本が世界が豊かとは限りません。天変地異のような大災害が来て、あるいは戦争が起こって、明日食べるものもないという事態に陥らないとも限らない。現に豊かじゃない国だってたくさんある。
ジョージ秋山の衝撃作『アシュラ』のような世界になった時のことを想像すると、彼らはそれでもペットを飼うのかしら、と考えたりして。自分がアシュラの立場になったら、あるいは自分の子供が飢えて死にかけていたら、その辺の動物を食べたり食べさせたりしないの?
今の日本が『アシュラ』のような世界になるとは思わないけど、私は保守的といいますか、比較的本質を大事にしたい方だから、「もしそうなったら」とは考えてみるわけです。
「今は違うでしょ」という人もいると思いますけど、私は本質は変わらないと思うし、できるだけ時代や世間の流行に流されないように生きたいと思っていたのです。
しかし「負けを認める日」がやってきた
大げさに言ってますけど、それが大した話ではないんですよw 恥ずかしいんですけど。
つい最近、2013年制作の映画『マン・オブ・スチール』を見直したんです。『スーパーマン』のリブート作品です。
見ていて「は!!!」となりました。
それは以下の場面です。
滅びる惑星クリプトン星から地球に飛ばされたクリプトン人の生き残りカル=エルが、地球人の夫妻に助けられて育てられ、結構大人になりました。カル=エルは地球ではクラーク・ケントという名前で暮らしていて、拾ってくれた夫妻を地球の両親として愛してます。大きくなると自分が桁外れの能力を持っていることに気づいて、なんと自分が宇宙人だと知ります(驚きですね)。
そんなケントたちの暮らす田舎に巨大な竜巻がやってきて、人々は命がけで逃げ惑います。ケント一家は車で逃げるのですが、車だと車ごと竜巻に巻き上げられてしまいます。なのでみんなで橋の下に逃げようとするのですが(竜巻回避の定番です)、なんと飼い犬を車の中に置いてきてしまうんですね。
クラークは不死身のスーパーマンですから、自分が犬を助けに車に戻ろうとするんです。でもそれをパパ・ケントは止める。パパ・ケントはクラークの超人的な能力が他の普通の地球人に知れると不幸になると知っているので、能力を隠すよう言いつけていたのです。「無知と偏見からの差別を経て排除へ」の流れは鉄板です。パパはそれを恐れていた。
なのでパパ・ケントは「俺が行くからお前はママと橋の下で待ってろ」みたいなことを言って、竜巻迫るマイカーへと向かうのです。車のドアを開け、飼い犬を外へ出し、自分も改めて逃げようとするのですが、なんと足が車に挟まって動けないというお約束と共に、パパ・ケントは車ごと竜巻に巻き込まれて命を落とすのでした。
・・・・・というわけで、そのシーンを見た時、私は「犬と父親とどっちが大事やねん!」と思いました。
あのシチュエーション、もう竜巻が目の前に迫っていて絶対無理ですよ。可能だとしてもギリギリです。もし私がクラークの立場だったら、父親なり母親が「ポチがー」ってなっても「ムリだよ、諦めよう」って言います。もし私がパパ・ケントの立場だったら「お前スーパーマンなんだからお前行け(ただし飛んだりしないで目立たないようにな)」って言うか、やっぱり諦めます。
ママ・ケントは「厳しい判断は男たちに任せるわ」ってわけでもないんだろうけど何にも言わずに見てるだけだし、私は「みんなどうなってんの?」と思いましたね。
犬ですよ、犬。命と引き換えに犬を救出。パパより犬を優先ってどうなってんの。私にはわからん。
でも、そこで「はた」と思い至ったわけです。
そうか。この人たちにとって「ペットは家族」は本気なんだ。心の底から「ペットは家族」だって思ってるんだ。じゃないと命がけで救いに行ったりできるわけがない。
今の世の中はそういう感じなんだ。常識が変わったんだ、って。
・・・ということはこの人たちは、もし他人である私が溺れていて、隣で彼らのペットの犬が溺れていたら、私ではなく犬を助けに行くんだ。
そうだったのかーーーー。やっとわかった。
と、スーパーマン映画『マン・オブ・スチール』を見て悟ってしまったのでした。
割とあっさりと負けを認めた理由
でも、最初は「変だ」と思ったけれど、ちょっと考えてみれば分かるような気がしてくる。だって私は彼らになんら良いことをしていないんだもん。他人だから。知り合いでもなんでもないんだもん。
喜ばせるわけでも慰めるわけでもなく、助けてあげたこともない。彼らの役に立っていないんだもん。
するとペットは確実に彼らを慰めてるし、喜びを与え、孤独から救ってるわけだから、そりゃあ彼らは他人である私なんかより犬を救うよねえ。
そうかあああ、そうだったのかあああ、確かにそりゃそうだわ。なるほどねー。
もう人間だというだけではアドバンテージはないんだなあああ。人間であるっていうだけで尊いとか、動物よりも価値があるなんてことはないんだ。たまたま人間として生まれただけで、その偶然に胡坐をかいていてはいけないんだーーーー。
厳しい世の中になったなあああああ。でも理屈は分かるなあああ。納得だなああああ。
と、負けを認めるに相成ったのでした。
でもモヤモヤする。理屈は分かる。合ってると思う。分かる、分かるんだけどさああ。でもなああ、、、ううううーん。いいのかこれで。
なんか反論してやっつけたい気持ちはあるけど、私なんかの脳みそじゃ反論できないのが悔しいなああ。
こういう考え方の人が普通に増えていて、これからも増え続けるんだろうなああ。気が重い。
そしたらメンタリストDaigo登場
と、こういう記事が書きたくて書き始めていたら、書いてる途中でメンタリストDaigoというYoutuberがとんでもない発言をしたというので炎上していると知りました。8/7の動画とのことなので、なんかもう結構古いんですね。
私はさらっと発言をスマホで読んだだけだけど、それだけで具合が悪くなるほど不愉快になりました。彼の動画は過去にいくつか見たことがあるけれど、やはりなんとも言えず微妙な気持ちになるのでもう見ていません。今回も文字起こしを読んだだけで具合が悪くなるくらいだから、動画を見たら本気で具合が悪くなりそうなので見たくないです。削除されたらしいので見なくて済むので良かった。
文字起こしされた彼の発言を要約すると、冒頭にもあげたけれど『生活保護とかホームレスの命なんて俺のかわいい猫以下。俺には関係ない。死んでいい。』という内容で、それを心の底から本気で語ってしまった、というところ。
引用:
曰く「僕は生活保護の人たちに、なんだろう、お金を払うために税金を納めてるんじゃないからね。 生活保護の人に食わせる金があるんだったら猫を救ってほしいと僕は思うんで。生活保護の人が生きてても僕は別に得しないけどさ、猫は生きてれば得なんで」
曰く「自分にとって必要のない命は、僕にとって軽いんで。だからホームレスの命はどうでもいい。」
曰く「どちらかというといない方がよくない、ホームレスって? いない方がよくない?正直。 邪魔だしさ、プラスになんないしさ、臭いしさ、ねぇ。治安悪くなるしさ、いない方がいいじゃん」
曰く「もともと人間はね、自分たちの群れにそぐわない、社会にそぐわない、群れ全体の利益にそぐわない人間を処刑して生きてきてるんですよ。犯罪者を殺すのだって同じですよ。犯罪者が社会の中にいるのは問題だしみんなに害があるでしょ、だから殺すんですよ。同じですよ」
(すべてメンタリストDaigo氏によるYoutubeでの発言)
これなのよこれ! これなのよ!私がもやもやしてたのは!!!(急に怒ったなw)
こういう人が増えそうで嫌だなあって。考えたくないなって。
人を人とも思わず、人の心がまったくわからず、自分を頭いいと思っていて、これほどの思い上がった発言をしてもぜんぜん気が付かない想像力の欠如っぷり。
これほど自分本位の考え方ってある?!
自分さえよければいいの?! 自分を気持ちよくしてくれるものだけが身の回りにあれば、他の人はどうなってもいいのお?!
自分を気持ちよくしてくれないものは抹殺されて当然ってどういう感覚なの? ひとりホロコーストなの? だいたいメンタリストってどういう仕事なの? そんな稚拙な考え方で人の心を操れるの?
なんか一回謝って、それを取り消して「もう一度謝らせてください」って言って謝罪動画を上げなおしたら、それが「ぼくのままがほーむれすだったらってかんがえてみた」とかなんとか言いだして涙ぐんだらしいじゃん。
もうやめてよー。いきなりの小学ちぇい。なんかがっかりだな。
謝らずに悪の道を突き通せばよかったのに。
私、君みたいに考えてる人って結構いると思うのよ。後半は論理が飛躍してるから共感を得られにくいと思うけど、前半の「自分に関係ない人間の命より自分が飼ってるペットの命の方が上」の部分は共感している人、そこいら中にたくさんいると思う。
メンタリストDaigo自身は今回底が割れたというか、これは致命的な失態だったと思うから消えていくと思うので、彼のことはもういいの。
一番の問題は、今回の件をナチュラルに「わかるわかるー」とか「わかりみがはやいw」とか言ってる人が相当数いるだろうと思われること。メンタリストDaigoみたいな感覚が、デフォルトとなりつつあることだと思います。
どんどん嫌な世の中になっていくなあ。
【記事内に出てきた参考書】
☟ジョージ秋山の衝撃作、漫画『アシュラ』
繊細な人は読まないでね。メンタルが強い人だけ読んでください。
☟kindle だと、kindle unlimited 加入者は全3巻合本が読めます。
☟映画『マン・オブ・スチール』
DVDからBD、4K Ultra HD まで沢山バージョンがあります