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映画「オーメン」 幼きダミアンはパート1のラストで笑うべきだったか、あるいは複雑な思春期のこと

 

 
 
 
mです。

先日、映画『オーメン』シリーズ5作に関してのまとめ記事をあげました。
 
この中で「パート2で描かれるダミアンくんのフクザツな乙女心の男の子版(思春期ぶり)に関しては別記事を立てる予定です」と書きましたので、今回はそれと、パート1でダミアンくんは笑うべきだったかについて書こうと思います。

とは言っても特別難しいことが言えるわけではなくて、前回はまとめ記事だったので個人的な感想は控えめにしようと思ってだいぶ端折ってしまったので、その分をこちらで存分に書くつもりです。


 
 

おことわり


この記事は、「すでにオーメン視聴済み」の方をターゲットにした記事です。中でも正規シリーズである『オーメン』『オーメン2』『オーメン3』のダミアン三部作から、『オーメン』『オーメン2』のみが対象です。

『オーメン3』はたぶん触りません(まとめ記事の方で割と書いたので)。それから『オーメン4』は主人公がダミアンくんではないですし、『オーメン666』はダミアンくんが主役ですけど、ただのリメイクに過ぎないので対象外です。なので『オーメン』『オーメン2』さえ見ていれば話は通じると思います。

でも、もう忘れちゃった、という方のために復習がてら「オーメン基本情報」を簡単に記載して、それから本題へと展開したいと思います。「忘れてなどおらん」という方は飛ばしてください。

本稿の流れは、基本情報 → パート2でのダミアンくんのフクザツな思春期の男の子っぷり → ダミアンくんは誰を殺したのか → ダミアンくんはパート1のラストで笑うべきだったか → 笑うべきではなかった、という結論に至る予定です。
 
 
 

映画『オーメン』とダミアンくんの基本のキ


映画『オーメン』は1976年に公開された、超有名オカルト映画です(原作はありません)。1978年に『パート2』が、1981年に『パート3』が作られて完結しますが、その後1991年に続編ともリメイクともつかない『オーメン4』が公開され、さらに2006年にも『オーメン666』という題名でリメイクが制作されています(詳細は当ブログのまとめ記事を読んでください)。

映画『オーメン』は、新約聖書のヨハネ黙示録に出てくる「獣のしるし”666”」を持つ悪魔の子ダミアンが、人間社会で育てられて成長し、悪の化身として覚醒し、悪を成そうと画策し、最後は神と対決する、という「悪魔の子成長物語」です。

『パート1』では幼少期が、『パート2』では10代の思春期が、『パート3』ではいきなり飛んで中年期が描かれます(リメイクとかするくらいなら、この空白の青年期をやってほしい)。

 
☟ 今回取り上げたい『パート1』と『パート2』のあらすじはこんな感じです。

パート1である『オーメン』のあらすじは、長いこと子供が出来なかった外交官ソーン夫婦に待望の赤ちゃんが授かり、出産したら死産だった、というところから物語がスタートします。ソーンは、神父に勧められるままに「実の息子と全く同じ日、同じ時間に生まれた、どこの馬の骨とも分からない男の子」を自分の子として育てることにします。まんまと外交官の息子に収まったダミアンは、何不自由なく成長しますが得体のしれないところがあり、何一つ病気をしないばかりか、教会を怖がるなど聖なるものへの拒否反応を起こしたりします。そのうちソーンの身のまわりで、家政婦が首を吊ったり、目がイッちゃった神父が現れたりと、不審なことが続きます。自分が引き取った子供が「悪魔(サタン)の子」であると確信したソーンは、ダミアンを亡き者にしようとします。


続くパート2である『オーメン2』のあらすじは、前回父親を失ったダミアンは金持ちの叔父に引き取られ、実の子同様に育てられます。同い年のいとこのマークがいて兄弟のように仲良く育ち、何一つ不満はありません。ところが叔母が死んだのを皮切りに、軍学校に入ってからダミアンの周りでは次々と忌まわしい事件が起こります。サタンがダミアン教育に使わしたメンターなんかも出てきますが、ダミアンくんはまさか自分がサタンの子だなんてこれっぽっちも思っていません。でも、とうとう自分が呪われた悪魔の子であることを自覚する時がやってきます。最初は戸惑うダミアンですが、徐々に自分の運命を受け入れていくのでありました。

と、だいたいこんな話でした。
 
 
 

映画『オーメン2』でのダミアンくんの ”自覚のなさ” と ”思春期ぶり” のこと


パート1で、ダミアンくんの周りでは次々と人が死んでいきます。乳母がふたり、神父、ジャーナリスト、ソーン夫妻、これだけで6人。もっと言えば本物のダミアン、それから実の母親である山犬も死んでいます。

その上でダミアンくんがラストに見せるのが、あの不気味な笑顔。あの笑顔は映画史に残る名シーンのひとつになりました。


それ程の「ニヤッ」を見れば「ダミアンくん=悪の子!」という印象を与えるのに、パート2でのダミアン君は普通の少年すぎて悪の子としての自覚が全く感じられないので、ちょっと違和感を感じます。
 

まるで自覚のないダミアンくんが、突如覚醒するのですが、どのタイミングで覚醒するのか、そしてその時どういう心境だったのかを辿ってみたいと思います。


まずは覚醒への流れですが、パート2では12人くらい死んでいるのですが、死んだ順を並べてみますと、
 
① ブーゲンハーゲン(とそのお友達考古学者)
② 伯母さん(父ロバート・ソーンの妹で、叔父リチャード・ソーンの姉・・・かな?)
③ 伝記作家ジョーン・ハート
④ ソーン産業の社長
⑤ ソーン産業の社員パサリアン(とその部下)
⑥ ダミアンが普通ではないと気づいて検査しようとした医者
⑦ いとこのマーク
⑧ ソーン美術館館長ウォーレン
⑨ リチャード・ソーン
⑩ リチャードの後妻(ダミアンとマークの継母)

と続きます。固有名詞が誰だか分からない人や、死に方を知りたい人は映画をみてね。


この流れの中で重要な出来事は、④のソーン産業社長の死のあと、学校の先生であるネフ軍曹(実はダミアンの支援者でメンター)から「聖書を読め!読んで自分が何者か知れ!」とかなんとか言われて黙示録を読み、自分の身体に「獣の数字666」を見つけてダミアン君びっくり、という流れです。

自分が「悪魔の子」だと知ったダミアンくんはどういう心境だったのか。

この時のダミアンは、本当に心の底から驚いてました。もう驚愕です。それも自らに突きつけられた真実を受け止めきれず、「うわああーん」みたいに学校を飛び出して海を眺めるというありさま。70年代の青春ドラマみたい。

この驚愕ぶりとうろたえ方は、ダミアンくんは心底「自分が悪魔の子だとは思っていなかった」としか考えられません。


そしてそのあとに死ぬのが⑤のソーン産業社員のパサリアンです。

驚くことに、このパサリアンの死に対してダミアンはまるで動揺することもなく、悪に目覚めた全能感あふれる表情で、次期社長の座を射止めたポールを冷徹に見下ろします(この社長に成り上がったポールもダミアンの支援者でメンターです)。

なので一見すると「おや? ダミアンがパサリアンを殺ったのかな?」と思わせます。


続いて、⑥ダミアンの血液を調べていて、ダミアンの驚くべき秘密を掴んでしまったために消される医者を経て、いよいよ ⑦いとこのマーク殺害が描かれます。


映画制作の演出意図を考えれば、ここで「ダミアン覚醒!」としたい、大事な大事な一番大事なクライマックスです。ここに映画のピークを持ってくるためには、仲良しいとこのマーク殺害シーンはうってつけだと思うのです。

自分が悪魔の申し子だと自覚したダミアンは、大好きなマークを「一緒に天下取ろうぜ!」と誘うのですが、ダミアンは普通じゃないと気づきはじめていたマークに拒絶されてしまい、ダミアンは怒り心頭、思いっきり自ら手を下します。「手を下す」と言っても触りもしませんが。念力ですよ、念力。

ここは間違いなく「キター(゚∀゚)!! ダミアン、覚醒!」というシーン。


・・・のはずなんだけど・・・なんか弱いんですよね・・・。もっとインパクトがあっても良かったのに、「キター(゚∀゚)!!」という感じにはなっていなかった。弱い。

なぜか。

それはやはり、自分の身体に666を見つけた時、あんなに驚いて「うわあああん」みたいに学校を飛び出していき、海岸で海を眺めながら「びっくりしちゃったボク・・・これからどうしよう」みたいに悩んで見せたあと、次のバサリアン死亡のシーンではすべてを知って受け入れた佇まいで現れる、その間の心境の変化が全く描かれていないからだと思います。


だって、元々のダミアンは、④のソーン社長が死んだとき(湖の氷が割れて落ちます)、必死になって助けようとしたのに助けられなくて、でも必死になって助けようとしたような、心優しい男の子だったんです。

そんないい子だったダミアンが、自分が悪魔の子であると知ってしまった場合、相当苦悩すると思うんですよね。そしてそれを乗り越える葛藤みたいなものがあったはずなので、そこをもっともっと重く丁寧に見せてくれれば説得力が増して、その後のマーク殺害も「ああ!ダミアン! とうとう覚悟決めたんだね! 乗り越えたんだねえ! 立派な悪の子になってね・・・」と感動が生まれ、自然に喜べたかもしれないのに・・・。

だいぶテンポが良すぎた。


監督の方に「まだあと3人も殺さなきゃいけない! 時間がない!!」みたいな、ケツカッチン感があったのかな。娯楽作だからドギツイ殺害シーンがあればいいと妥協しちゃったかな、と思いました。

せっかくもっと面白くなりそうなシリーズなのに、実にもったいなかった。
 
 
 

パート1でダミアンくんは誰を殺したのか


という具合に、ダミアン君がこれ程までに悪魔の子としての自覚がなかったとすると、パート1のあの笑顔、「全部ボクがやったんだもんね」と言わんばかりのあの笑顔はなんだったのかと思いました。

あれは明らかに悪魔の笑顔でした。


でも、実際よくよく考えてみると、パート1で殺された人たちは別にダミアンが殺したわけではなかったのだなあと思い始めました。

ダミアンの行く手の邪魔になりそうな ”小石” を、何者かわからないけどたぶん悪魔が ”せっせと取り除いている” という感じ。ダミアンを何者かが守っている感じで、確かにダミアンは実行犯ではなさそう。

育ての母キャサリンが、二階から吹き抜けを落ちて全身打撲だか骨折したときはダミアンがやったかのように見えたけれど、きっとそうではなかったんでしょう。ダミアン的には三輪車をキコキコ漕いでいただけで、母親が「やめてダミアンやめて」と叫んではいたけれど、ダミアンが突き落としたわけではなかったのかもしれません。

乳母がふたり、神父、ジャーナリスト、ソーン夫妻、本物のダミアン、実の母親である山犬。ぜんぶダミアンではなかった。

なんだダミアンじゃなかったんだー。


・・・となると、なんで乳母たちは死ななきゃならなかったんでしょう(笑) 特に最初に首を吊る乳母1なんて、あれ、なんで首吊ったんでしょ。

「見て! ダミアン! あなたのためにやるのよ!!」 → ダイブ!!

なぜ。一体何のために。


神父とジャーナリストとソーン夫妻は、ダミアンの正体を嗅ぎまわっていたので、父なる悪魔が「あいつ邪魔」って殺したのは分かります。本物のダミアンは死産してくんないと入れ替われないし、母親の山犬はいてもしょうがないからお役御免というのも理解できます(映画に出てくる黒犬の代わりに母親の山犬が入り込んでダミアンを見守る、でも良かったと思うけど)。

でも乳母×2は、ダミアンを見守る側なので、別に死ぬ必要がなかったのではないかしら。ずっと大人になるまで見守っていても良かったのでは。両脇に常に控えていても良かったと思いました(&山犬の母親も入れて、女3人が守り続けるとかもありかと)。


・・・やっぱり乳母の死は良く分からなかったです。

 


ダミアンくんはパート1のラストで笑うべきだったか

 
そう考えてくると、パート1でのダミアンは「まだ誰も殺していなかった」のでした。


・・・となるとパート1で最後ダミアンが「ニヤッ」と笑ったことが、これらの矛盾を生み出した元凶といえます。

あそこでダミアンくんが笑わず、まだ身の回りで起こっている出来事の意味がまったくわかっていないと思わせる表情であれば、そのままパート2の「無自覚ダミアンくん」へスムーズに入って行き、「黙示録と自分の体に666発見で自覚」からの「親友マーク殺害で覚醒」の流れがキレイだったと思われます。


実際、パート1の監督リチャード・ドナーはラストシーンの撮影で、「笑わないようにね」とダミアンに演技指導したのに、ダミアンが笑ってしまった。そして結局、あの「笑った方のエンディング」を採用した。

つまりNGシーンを採用したわけです(それくらいダミアン役の笑顔は秀逸といえば秀逸だった)。


その結果、あの最後の笑顔は観客たちに、「ダミアンは自覚しているような印象」を間違いなく与えてしまいました。だって絶対やった顔だもの。全てを知ってるって顔だったもの。あの笑顔にミスリードされちゃったなあ。


リチャード・ドナー監督は踏ん張って、予定通り「笑わないエンディング」にするべきだった!!! 振り向く必要すらなかったかも。ただ無表情で去って行けばよかったのではないかなあ。

そうすればパート2では、「自分が悪魔のような存在である自覚のない幼気な子が、次回いよいよ悪魔の申し子であることを自覚し覚醒していく!」みたいな感じになって、自然だったのではと思われる・・・。残念。


というわけで、ダミアンはパート1のラストシーンでは「笑うべきではなかった」という結論でした(どうでもいいことだけど)。


最後にお願い:個人的には『オーメン』シリーズ好きなので、リメイクなんぞをするのであれば、これらの矛盾を解決し、さらに空白の青年期を追加していただきたいです。


おしまい。

 

 

 

 



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