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【映画】「自転車泥棒(1948)」時の流れは残酷。映画のテーマが変わってしまった、戦後直後の大名作。




おすすめ度 ★★★
題名 自転車泥棒(原題:Ladri di Biciclette )
監督 ヴィットリオ・デ・シーカ 
制作 ヴィットリオ・デ・シーカ
出演 ランベルト・マジョラーニ 
音楽 アレッサンドロ・チコニーニ 
上映時間 93分 
制作年 1948年
制作国 イタリア
ジャンル ドラマ、社会派、戦争、敗戦、貧困、モノクロ



イタリアといえば日本、ドイツと同じ枢軸国で、第二次での敗戦国。日本、ドイツと比べるとイタリアはちょっと存在感が薄い気がするが、彼らもしっかり負けました。

そのイタリアが、敗戦直後(3年目)に公開したのがこの『自転車泥棒』。ネオリアリズモと呼ばれて名作の誉れ高い、世界中の映画製作者たちに多大な影響を与えた一作。出てくる登場人物がみんな本職の役者ではないところも見どころ。

 
話はいたって簡単で、戦争に負けて仕事が無くとても貧しい男が、ようやく見つけた仕事で使う自転車を盗まれてしまって探すが見つけられず、犯人を見つけるが証拠が無くて相手にされず、途方に暮れて自分も自転車を盗んでしまう、という話。

 

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By Ladri di biciclette, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=50783553

 


あらすじ

第二次世界大戦後のイタリア。敗戦の混乱で職が無く、2年間も仕事にあぶれているアントニオは毎日職安へ通う日々。ついにありついた仕事は街のビラ貼りだったが、家族手当もつくし、制服も制帽も貸し出してもらえるとあって、今のアントニオにとってはこれ以上ない仕事だ。仕事につける条件はたったひとつ。自転車を持っていること。

自転車は持っているが質屋にあずけていて手元にない。そこで妻が家じゅうのシーツを剥いで質に入れて自転車を取り戻してくれたし、ぶかぶかの制帽も直してくれた。息子のブルーノも自転車を磨いてくれた。

仕事初日。制服を着て制帽を被り、お弁当を片手に意気揚々と仕事を開始する。梯子をかけてちょっとエッチなポスターを壁に貼っていると、壁に立てかけていた自転車を帽子を被った少年に盗まれてしまう。すぐに追いかけるが見失ってしまったアントニオが警察に行くと、自分で探せと突っぱねられる。犯人を見つけたら警官を呼べ、と。

アントニオは仲間の手助けを得て、自転車の盗品がバラされて売られている町の広場にやってくる。息子のブルーノも一緒に探すが見つからない。途方に暮れていると、広場の向こうで自転車に乗った犯人らしき男が小柄な老人と話しているところを見つける。しかしまたもや犯人を見失ったため、アントニオは老人の方を追うことにする。

ようやく老人を捕まえ問い詰めるが、老人は知らぬ存ぜぬの一点張り。しかもそのうえその老人まで見失ってしまう。父の不手際を責める息子ブルーノの顔を、アントニオは思わずぶってしまう。泣くブルーノをなだめるために身分不相応なレストランに連れて行く。他のテーブルの少年が食べているものを食べたがるブルーノに、アントニオは同じものを頼んでやる。

ブルーノのためにも何としてでも自転車を取り戻したいアントニオは、軽蔑していた占い師まで頼る。しかしやはりインチキ占い師だった。

その帰り、街で犯人の少年を見つけたアントニオだったが証拠がない。そのうえ少年はてんかんの発作のふりをして倒れ込み、母親や仲間内の反感を買ってしまう。ブルーノが呼んで駆けつけた警官が家探ししてくれるが自転車が出てくるはずもなく、結局証拠不十分で諦めざるを得なかった。

帰り道、無数の自転車が行き交う広場でふたりで途方に暮れていると、ぽつんとひとつ、離れたところに自転車がある。アントニオはブルーノに市電代を渡して先に帰らせ、その自転車を盗む。しかしあっという間に取り押さえられてしまう。持ち主が同情して警察沙汰はまぬかれるが、その一部始終をブルーノが見つめていた。アントニオの目から涙がこぼれ、ブルーノと手をつないで去っていく後姿でエンディング。


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By Unknown author - cinema 1953, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=39603650



映画を観た感想

海外でも日本でも極めて評価の高い作品のひとつで、数々の映画ランキングで上位に入ってくる名作中の名作。昭和時代、これを褒め称える映画評論家は多かった。もしかするとけなす人はいなかったのかもしれないレベル。
 
私も昭和の高校時代、映画雑誌などで褒め称えられている記事を読んでは「そうなんだ、偉い映画なんだなあ」と思っていたし、後年見た時は「真面目な映画だな」と思った。

確かに「ネオリアリズモ」という感じ。ドキュメンタリーではないからフィクション(作り物)に決まってるのだが、でも作られた感じが少ない。オールロケと言っていいので当時の町や人々の様子がありありと分かる。これがリアリズムというものか。

それになにより、登場してくる俳優陣が全員シロウトなのが良い。これが有名俳優とかスターとか、えらく男前とか美女とかだと、このリアリティな感じは出せないのだろうと思う。

やっぱりスターは非現実的が売りなのだな。こういう風景に溶け込むような映画ではスターは邪魔になる。彼らは私たちの日常には溶け込まない。溶け込んだらそんなのスターじゃない。


話はいたって簡単で、「自転車を盗まれた男が、困窮して自分も犯罪に手を染めてしまう話」。シンプルで現実的。なのに見ていて飽きない脚本。子役も可愛い。テーマは戦後のイタリア人の生活そのもので、人生の悲哀が感じられる。

妻はシーツを売ってくれるし、帽子も直してくれるし、朝はお弁当も持たせてくれた。息子は自転車を磨いてくれるし、そんな家族の期待を背負って、家族の幸せのため、未来のため、希望を胸に自転車を漕ぐ。ビラ貼りの仕事は悪くないし、息子に美味しいものを食べさせてやれるかも。なのにそれを打ち砕く現実。

真面目な、良い映画。文句などあろうはずがない。
 

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By Unknown author - ECO DEL CINEMA - anno 1952, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=50413815

 

・・・あろうはずがなかったのだが、現実というものはさらに厳しかったらしい。

今回、ン十年ぶりに見てみたら、全く感動しない私がいた。

感動どころか「いるんだよなあ、間が悪いというか、運の悪い人って・・・」「ダメな人って、なにやってもダメなんだよなあ・・・」と思ってしまった。



生活が苦しいから自転車を質に入れているのはいい。分かる。私も20代の時、お金に困って母が買ってくれた真珠のネックレスを質に入れ、質札を持ち歩いていた時があった(マジかよ)。この経験で、借金をするとはどういうことか、借金を返済するといことはどういうことかを学んだ。いい勉強になったと思っている。ちなみに質草はちゃんと取り返した。

自転車を盗まれるのも、まあそういうこともあるだろう。みんなが貧しいから、きっとすぐ盗まれちゃう社会なんだろう。だいたいあのシチュエーションで、一体どこに自転車を停めておけばいいのか。私だって自分の近くに置いておくと思う。

戦後で、敗戦国で、国全体が貧しいのも分かる。

でもどんな時代でも仕事にありついている人の方が多いと思う。戦後の復興期である。2年経ってるのである。仕事何かないのか。なぜに主人公は2年間も仕事にありつけないのか。真面目で善良そうだし、別にアントニオ自身に大きな問題がありそうでもないのだが、その辺の説明は映画ではまったくなされていなかった。

だから推察するしかない。


そして自転車探し。あんな、30年前の中国みたいなレベルで自転車が氾濫している中で見つかるとは到底思えない。でもアントニオは一生懸命探すのである。

彼らが真っ先に探しに行った、盗品が出回る広場では完成品も売られていた。盗品を一旦バラしてあれこれと組み合わせたシロモノなのか、それとも盗んだまま売っているのかは分からないし、デザインもみな似たり寄ったり。白黒映画なので色は分からないが、よほど特徴的じゃないとあそこから探しだせるものじゃない。ペダルの部分に傷がある描写があったが、とても目印になるような特徴ではない。

自転車には管理番号が振られているようで、ちゃんと届出しておく制度もあったよう。でも、自分の自転車の乏しい特徴とその番号を頼りに、あの膨大な自転車の中から探すのは奇跡に近いのではないか。

おまけに相談した仲間のリーダーによると「すでにバラされて盗品市場で売られているだろう」とのこと。そしてそのリーダーは捜索隊に「お前はシャーシ、お前はタイヤ、お前はベルを探せ」と指示していた。それみつからなくないか?

息子のブルーノは「ベル担当」になって健気にベルを探すのだけど、露店のテーブルの上に30個くらいは並んでいる「ベルだけ」を見て、「これ父ちゃんのだ!」って分かるかな? その露店だってたくさんあるのである。自転車からタイヤをはずして、タイヤだけを見せられて「これ私の自転車のタイヤです!」って、言えるのか。

当時の人たちは「パーツだけを見て自分のだと見分ける能力」を持っていたのか。


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By Unknown author - ECO DEL CINEMA E DELLO SPETTAC- anno 1952, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=50414208



そして案の定探せない。

犯人を二度も取り逃がし、代わりに追いかけた明らかに足の悪い老人までをも取り逃がし、途方に暮れて占い師を訪ねて「見つかる時は見つかるし、見つからない時は見つからない」と言われてしまっている主人公。

なにひとつ証拠がないのに、「帽子が同じ」という根拠だけで犯人と思しき少年のテリトリーに突進し(実際犯人なのだが)、犯人の仲間に囲まれても必死で突進し、結局追い返される羽目になった主人公。

そしてとうとう追い詰められ、最後は自分も自転車を盗むという暴挙にでて、自分の方はあっという間に取り押さえられてしまう主人公。

そのみじめな姿を一部始終、息子に見られている主人公。


悲惨。


この映画を観た私が、「家族の期待を背負って追い詰められたアントニオが、自転車を盗む行為に出るまでの事情と心情を、敗戦後という時代性を鑑みたうえで理解し、その悲哀に感じ入る」という感想を持たなくてはいけないのは分かる。倫理の授業。

でも私はそんなアントニオの姿を1時間半見ていて、「いるんだよなあ、こういう人って。いい人なんだけどなあ。なんか裏目裏目に出るというか、何やっても上手くいかないっていうか、どん臭いというか、要領が悪いというか、運の悪さが集まってくるというか・・・仕事だってあるやつはあるし、自転車だって盗まれない人は一生盗まれないのに・・・」と思ってしまったのだった。

ダメなやつは何やってもダメ。うだつが上がらない人(女も一緒)。

なにが足りないのかなあ。


この現代にあっては、戦後の不幸は遥か彼方。私たちには私たちの問題がある。私たちの社会はアントニオの社会と比べれば十分豊かで、個々の無能が問われる時代。自己責任が叫ばれる時代。もうアントニオには同情できない。私たちは別種の不幸を抱えているのだ。

時代の流れと共に映画の印象が変わってしまう。アントニオにとってはそれも気の毒なことなのだった。

 


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