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【映画】「来るべき世界(1936)」 この未来はユートピアなのか、ディストピアなのか

 
おすすめ度 ★★★★

題名 来るべき世界(Things to Come)

監督 ウィリアム・キャメロン・メンジーズ
制作 アレクサンダー・コルダ
脚本 H・G・ウェルズ
原作 H・G・ウェルズ 「Shape of Things to Come」1933年
出演 レイモンド・マッセイ、エドワード・チャップマン、ラルフ・リチャードソン、セドリック・ハードウィック、モーリス・ブラッデル、デリック・デ・マーニー、マーガレッタ・スコット、アン・トッド
上映時間 92分
制作年 1936年
制作国 イギリス
ジャンル SF、近未来、予想、ディストピア、ユートピア、全体主義、モノクロ
 
 
 
 
・・・これ、どう考えたらいいんだろう。どう理解したらいいんだろう。

映画を観た後、なんだかすごく混乱するというか、難しいというか、考えさせられる結果になった。

一言で言えば、ウェルズのメッセージがなんなのか、何が言いたいのか、私にはさっぱりわからなかった。ディストピアなのか、ユートピアなのか・・・・難解。


その分からない理由が、私が馬鹿だからなのかそれとも制作者が馬鹿だからなのか、その辺もはっきり分からなくて混乱する。感想を書きにくい。


とりあえず3パートに分けて詳細なあらすじを書いてみる。それから色々考えたいんだけど、あらすじを読みたくない方は④まで飛ばしてください。

 
 

あらすじ(前半)

1940年、イングランド南部のエブリタウン市、クリスマスの夜。ジョン・キャベル宅のクリスマス・パーティ。世界情勢は混沌としており、ジョン・キャベルは未来に悲観的な意見を持っている。客のひとりである若き医学博士ハーディングは共感するが、もう一人の客ピッパ・パスワーシーは「戦争になどならないし、なったとしても人類の進歩が加速する」と極めて楽観的だった。と、そこへ空襲警報が鳴り響く。いよいよ世界大戦がはじまったのだ。動員令が出され、ラジオは英国が劣勢であると伝えていた。

空軍パイロットになったジョン・キャベルは、毒ガスをまく敵戦闘機のパイロットを撃ち落とす。撃墜された敵のパイロットは幼い少女が瓦礫から出てきたのを見て、自分のガスマスクを少女に与える。ジョン・キャベルは自分の拳銃をパイロットに与えて少女と立ち去る。毒ガスが広がる中、銃声が轟く。

戦争は1945年になっても、1955年になっても、1960年になっても続いていた。世界は廃墟となり、経済は崩壊し、科学技術も失われ、感染症が蔓延していた。ハーディング博士は治療法を長年研究してきたが、研究どころか基本的な医薬品すらない。社会は感染者を射殺することでしか感染症を根絶する手立てがない。

1967年、まだ戦争と疫病は続いている。感染した者は全員死んだ。
 
 

あらすじ(中盤)

1970年。エブリタウンでは、感染した者を全員射殺することで感染を止めた ”ザ・ボス” が独裁政治を敷いていた。この長引く戦争になんとしても勝ちたいザ・ボスは、まともに飛ぶ戦闘機を切望している。メカニックのリチャード・ゴードンが壊れた戦闘機の修理に取り組んでいたが、この社会にはその知識も材料も燃料もない。

そこへ今まで見たこともない流線型の飛行体が飛んでくる。中から出てきたパイロットはやはり流線型のヘルメットを被っていた。彼はジョン・キャベルと名乗り、戦争で生き残ったメカニック集団がイラクのバスラに新文明を興したことを告げる。「ワールド・コミュニケーションズ」と呼ばれるエンジニアとメカニックの生き残りが、イラクのバスラに拠点を置く新文明「ウィングス・オーバー・ザ・ワールド」を立ち上げたのだ。

ジョン・キャベルは争いをやめて自分たちとともに世界を再建するよう提案するが、ザ・ボスは瞬時に却下する。ザ・ボスによって捕えられたジョン・キャベルは複葉機の修理を命じられる。ザ・ボスは近くの部族 ”丘族” から石油を奪い、時代遅れの複葉機を飛ばすことにようやく成功する。

メカニックのリチャード・ゴードンは修理が終わった複葉機に乗って脱出。一路バスラのウィングス・オーバー・ザ・ワールドへ向かい、ワールド・コミュニケーションズに自国の惨状を密告する。ワールド・コミュニケーションズたちは数機の巨大な飛行体に乗り、ジョン・キャベル救出のために大挙してエブリタウンへ押し寄せ、町に「平和ガス」をまき散らす。ガスを吸った人々は眠りに落ち、ザ・ボスだけが死亡する。

舞台は変わって、バスラのウィングス・オーバー・ザ・ワールド。帰還したジョン・キャベルは新世界の構築に向けて動き出す。
 
 

あらすじ(後半)

時は遥か未来に移る。2036年のエブリタウンは科学技術が発展し、整然とした計画的地下都市となっていた。英雄ジョン・キャベルの孫のオズワルド・キャベルが大統領を務めており、いよいよ月に人類を送り込もうとしている。しかし彫刻家のテオトコプロスはこの機械文明に不満を抱いていた。すべてが手探りだった昔の方が、今より楽しんで生きていたに違いないと考え、無意味な宇宙進出にも反対だ。

月探索メンバーの募集には多数の応募があったが、志願してきたオズワルド・キャベルの娘キャサリンと、レイモンド・パスワーシーの息子モーリスの二人が選ばれる。

テオトコプロスはこの進化への馬鹿げた妄信を止めようとラッダイト運動を呼びかける。人々の中にも漠然とではあるが現代社会への疑問を持つ者もいて、テオトコプロスは熱狂的な支持者を獲得する。大統領のオズワルド・キャベルはテオトコプロスの反政府活動を静観し、人類の未来を人々の判断に委ねることにする。

民衆は月探検用カプセルの発射台である ”スペース砲” を破壊しようと大挙して押し寄せていた。オズワルド・キャベルはスペース砲が破壊される前にキャサリンとモーリスを発射する。

宇宙空間をゆく子供たちを見つめながら、オズワルドとレイモンドは人類の行く末を議論する。レイモンドは自分の行為に迷いや不安があるが、オズワルドの考えは揺らがない。オズワルドは自分の哲学を熱く語り、夜空を見上げながら人類の進歩の果てしない可能性に思いをはせるのだった。


👇 5分ほどで映画の雰囲気を味わえる(日本語字幕付き)

www.youtube.com

 
 

原作者H・G・ウェルズのおさらい

まず前提として、原作と脚本を担当したH・G・ウェルズのおさらいを私なりにしておく。

ウェルズといえば『タイムマシン』とか『宇宙戦争』とか『モロー博士の島』など、代表作がたくさんある超有名な人気作家。「SFの祖」とも言うべきお方のひとり(もう一人はジュール・ヴェルヌ)。

でも彼の書く作品は「人類の未来はお先真っ暗」という感じで、未来に対して悲観的な作品が多い。そしてグロくてエグくて精神的にやられる感じ。

例えば『タイムマシン』は、タイムマシンを発明した主人公が向かった先は80万年後で、そこでは人類が2種類に分かれている。地上に暮らす人間は見た目は美しいものの白痴化しており、地下に暮らす人間は貪欲で見た目も醜悪、夢も希望もない畜生以下の暮らし方に堕ちていた、という話だし(このあと行くもっと未来の恐ろしさと言ったら!)、

『宇宙戦争』は、地球を征服しようとやってきた火星人によって地球が壊滅状態になり、人類全滅の危機にさらされるという話だし(それに地上が真っ赤になるし)、

『モロー博士の島』は、孤島で人体実験をして改造人間を大量に作り出している博士の話で、”ドクター・モロー” といえばマッド・サイエンティストの代名詞ともなっている程の狂いっぷり。


こんな風にいつも「お先真っ暗なディストピアな未来を描くお方」として私はウェルズを記憶している。同時代のSFの祖、ジュール・ヴェルヌの明るく屈託ないポジティブな未来観とはまるで逆。私は両方好きだけど、どっちか一方を選べと言われたらジュール・ヴェルヌを選ぶ。


そんなウェルズが書いた未来小説『Shape of Things to Come(1933)』を元に、ウェルズ自身が脚本まで手掛けた作品がこの映画。

はたして今回もやっぱり悲観的なのか、それとも打って変わって明るい未来なのか。

そしたらどっちなのか分からなくって混乱するという結果に。
 
 

ジョン・キャベルとオズワルド・キャベルのこと

本作の流れを乱暴にものすごく簡単にしてしまえば、

「愚かな人類は戦争に向かっていき、延々と戦争をし続けてせっかく積み上げてきた文明を破壊してしまった。しかし一部の人類は賢く立ち回って科学技術を発展させることに成功。月に人類を送り込むまでになり、人類の未来は明るいね、よかったよかった、めでたしめでたし」

という展開だ。


そしてその人類の明るい未来を切り開いたキーパーソンが、映画の主役であるジョン・キャベルとオズワルド・キャベルの二人。

この二人は祖父と孫の関係なのだが同じ俳優が演じていて(レイモンド・マッセイの二役)、孫のオズワルドは祖父ジョンの思想をそのまま受け継いでいるからほとんど同一人物と言ってもいい。

それで二人とも「善良で賢い正義の人」を代表している。

そんで、私がこの映画を観て「モヤッ」とするのはなぜかと言うと、この善良で賢い正義の二人が、もの凄く胡散臭く描かれているからなのだった。「歌舞伎俳優が映画に出ても歌舞伎俳優しちゃった」みたいな感じで、大仰。クサイ。

そして二人のキャベルが目を輝かせて語る人類の未来がまた胡散臭い。

万一これがユートピアなのだとしても、私はとても納得できない。
 
 

まずはジョン・キャベルについて

まず、最初のジョン・キャベルを演じた俳優レイモンド・マッセイのセリフのクサさが不可解だった。

映画が始まった当初のジョン・キャベルは「戦争反対」「暴力断固反対」というくらいの、いたって普通に善良な、個性のない人物として登場する。

でもすでに自己陶酔的なセリフ回しで演技がクサい。登場したばかりなのに、早くも胡散臭さは始まっている。でもまだまだ、こんなものじゃない。


ジョンが次に出てくるのが開戦後の空軍パイロットとして登場する。毒ガスが充満する中、ジョンは自分が撃ち落とした敵パイロットにガスマスクをつけてあげようとするけれど、敵パイロットは「(助からないから)自分にはもう必要ない」と言って、近くにいた幼い少女に譲る。そんな彼にジョンは自分の拳銃を、自決用にと ”ぽい” と渡して少女と去っていく、というシーン。

ここはセリフもほとんどないので特に気になるところはない。


んで! 次に登場するのが戦争が始まって30年もたったある日のことで、壊滅状態と言っていい故郷エブリタウンに、まるで未来から来た未来人みたいな風貌で、流線型の飛行機に乗って、電球みたいなヘルメットをかぶってジョンは現れる(ガスマスクなのだそう)。



 


この時のジョン・キャベルは、それはもう堂々と自信満々、声も張っちゃって、自分に対して疑いや迷いはまるで無し!といった、別人のようにエリート然とした人格として登場する。

ずいぶん自信つけたじゃん。いったい何があったの。

でもこの30年、ジョンに何があったのかは空白で、映画では語られない。


比較的控えめだった佇まいから、超絶自信満々エリートへ。

そんなキャラ変したジョンが、エブリタウンを支配している粗野な男 ”ザ・ボス” に向かって言い放つセリフがこれ。
 
 
引用:
キャベル「戦争だと?まだそんなことをやっているのか。いい加減にしないか」
ザ・ボス「どういう意味だ。戦争が何が悪い。お前は誰だと聞いているんだ!」
キャベル「私は正義だ」
ザ・ボス「わたしが正義だ!」
キャベル「私はまともな正義だ」
 
 
何様!! (; ・`д・´) まともな正義なんてあんのか?

そしてザ・ボスをなんだかよく分からないガスで亡き者にしたあと、ジョン・キャベルが言い放つセリフがこちら ☟
 
 
引用:
「悪しきものは去り 平和な新世紀が始まるのだ
まったく哀れな男だった
馬鹿げた世の中は終わりだ
新しい時代の幕開けだ」

 

 
このセリフを、階段の上からザ・ボスの遺体を見下ろしつつ言い放つのだ。

演劇か!!まったくもって自己陶酔もはなはだしい。

ポーズがクサい、シチュエーションがクサい、カメラワークやカット割りもクサい、アングルがクサい。

もう何もかもがクサくて、ここまでクサいが重なると、たぶんわざとなんだと思えてくる。

そしてヤツ(もう ”ヤツ” と言ってしまうけども)はエブリタウンの ”悪” を倒して、気持ちよく自分の国へ帰っていくのだった。はいはいよかったね。
 
 

次にオズワルド・キャベルのことを

そして過ぎ去ること60年以上。2036年のウィングス・オーバー・ザ・ワールドではジョン・キャベルの孫のオズワルドが大統領になっているのだが、これが祖父ジョンの生き写しのような人物でねえ(同じ俳優だからではなく)。

まるでクローンのような後継者。どうやら成長の過程で、祖父に対して微塵も疑問を持たずに生きてこられたらしい。後継者の鏡。教育のたまもの。

まあ彼は祖父が(そしておそらく父親も)構築してきた、すでに完成した体制の維持発展を担っているのだろうから、模範的になるのは仕方がないかもしれない。優秀なんだろう。

その優秀なオズワルドは、人類のさらなる発展を目指していよいよ人類を月に送り込もうとしている。


そんな危険な冒険に、なんとオズワルドの娘キャサリンと、友人レイモンド・パスワーシーの息子モーリスが立候補してくる。

するとオズワルドは「そういうと思っていたよ、誇らしい」という感じでもろ手をあげて賛成するのだけど、レイモンドの方は息子の命を心配しておろおろと反対する。

そのレイモンドの心配は、月面に行くその行き方が「巨大な鉄の弾丸に乗った二人を巨大な大砲で月に向かってぶっ放す」という、いわゆるジョルジュ・メリエス監督の映画『月世界旅行(1902)』方式だから、という意味ではない。

親として、一人息子が危険な目に遭うのが心配だからに他ならない。


👇 『月世界旅行(1902)』にて、大砲で人を月に打ち込むの図。
今作『来るべき世界』もこれとほとんど変わりがありません。

 

 
しかしオズワルドの方はまったく反応が違う。実に誇らしげで、娘が行くのは当然と思っている。実に対照的な二人だ。


その対照的な二人が映画のラストで、一人娘と一人息子が人類初の宇宙船に乗って月に向かうのを見つめながら言うセリフがこれ。長いけれどフルで引用する。
 
 
引用:

オズワルド「いたぞ!あそこだ! あのきらめきだ」

レイモンド「恐ろしいことをした」

オズワルド「いや、何とも崇高なことだよ」

レイモンド「戻ってこれるかね?」

オズワルド「当り前さ 行き続けるのさ 人類が月に立つまで まだ始まったばかりさ」

レイモンド「でももし私たちの息子や娘が戻ってこなかったら?」

オズワルド「そうしたら他の人間がまた行けばいい」

レイモンド「何だと! 心配でたまらんよ」

オズワルド「心配事があるくらいがちょうどいいんだよ 安息や休息ばかりじゃ死んでるのも一緒だ 人々には休息や終わりなどない ただ進むのみだ 征服に次ぐ征服あるのみ 最初はこの小さな惑星も自然しかなかった そして法による抑制 困難な時代を乗り越え、そして遂には・・・広大な宇宙へと旅立つ そしてこの地球が深遠な宇宙や時空世界をも征服しても それでもまだ始まりでしかないんだ」

レイモンド「でも・・・私たちはちっぽけな生き物でしかない 弱くて傷つきやすい哀れな人間だよ か弱い動物だ」

オズワルド「か弱い動物か か弱い動物に過ぎないなら、幸せの欠片を奪い合い、悩んで生きるしかない だが他の動物がしてきたような、いざこざはもう沢山だ 何てことはない 全宇宙か、はたまたゼロか どうなるであろう、パスワーシー 我々の未来は」

 

 

私は「なんて恐ろしい考え方なんだろう」と思った。

まあ、迷いなく娘の命を差し出すのはいいとしよう。彼の子なのであって、私の子ではないから勝手にしてくれたまえ。月にでも太陽にでも、好きなところに打ちこめばいい。

でも、そのあと続くセリフはちょっと・・・。

要は「私たちは選ばれし人間なのだ。我々は全宇宙を手に入れよう。征服に次ぐ征服を重ねよう。そして全てを征服するか、負けて滅ぼされるか、行くとこまで行くぞ」ってことでしょ。

そして遥か彼方を見つめて自己陶酔に陥るオズワルドの顔のアップで映画は終わる。「はいカット! いいよーオズワルド、決まってるぅ~」って声が聞こえるよう。


わたしゃ、こんなヤツに支配されたくないと思ったね。「どうなるであろう、我々の未来は」って他人事かよ、まったく。

自分を神だと思ってるんだろうね。物腰柔らかく、インテリ風(かぜ)をふかし、物わかりの良さそうな、暴力とは無縁な感じで、善人ヅラして、それでいて周りを支配して、自分がしている残酷さに気付こうともしない。

そういうとこなんだよ、西側諸国は。
 
 

ザ・ボスのこと

それに引き替えザ・ボスの方はずっと人間味のある男だった。

俺の欲望!っていう感じで、逆に好感持てる。ザ・ボスは自分が悪だって自分で分かっていると思うもん。自分は必要悪だって認識していたと思う。だから自分でも苛立っていたし、粗野にもなるのよ。

感染を食い止めるために市民を皆殺しにしていたから一見非情に見えるけど、ここで流行しているのは「かかったものは必ず死ぬ」ような感染症だから。

で、それを誰一人阻止できずにいた中、ザ・ボスだけは決断した。

決断して、徹底した。だからボスになれた。当然だと思う。

これはもう手段の善悪は関係ない。誰にもできなかった決断をした男なんだから、ぐずぐずと決断できない奴が文句を言う筋合いはない。

で、社会がだいぶ落ち着いて平和になったら人々は文句を言う。過去にまでさかのぼって罪を問う。「あの時のやり方は間違っていた」と。凡人とはそういうもんだ。それが世の常。


だいたいジョン・キャベルはザ・ボスのことを、人がアリを観察するような、神のごとき視線と表情で見つめてる。「愚かな者よ。私はすべてを理解している」っていう顔。

虫唾が走る。あんな目で見られたら誰だって怒りで発狂する。ばかにすんなよお!


自分を正義で潔白だと思い込んでいるジョンやオズワルドより、自分の限界を感じてジタバタしているザ・ボスの方が、私はずっと好きだ(ファッションも良かったし)。
 
 

対照的なテオトコプロス

ところでこの映画にはもう一人、キーパーソンが出てくる。それが彫刻家のテオトコプロスだ。

どっかで見た俳優だな、どこだっけ、ああそうだ『ノートルダムのせむし男(1939)』のフロロ伯爵だ。あれは難しい役どころだったね、、、

というのはさておき、この彫刻家テオトコプロスは二人のキャベルが作った現体制に対して不満を持つ反乱分子として登場する。

個人的にはぜひとも頑張って革命してもらいたい人物なのだが、これがちょっと頼りない。

だって彼の論理は「科学も進歩もあまりにも行き過ぎている! 俺たちはそこまで望んでいない! 宇宙になんか行かなくていい!! 進歩しないで少し休んだっていいじゃないか!」程度のもので、某蓮舫議員の「二番じゃダメなんですか」とほとんど変わりがない。

これだと革命は無理そう。

でも映画では大衆の心に響いたようで、暴動に漕ぎつけることに成功する。そしてテオトコプロスとその一行は、スペース砲と呼ばれる宇宙船(?)の発射台に向かって大挙して押し寄せ、発射を阻止しようとするが、タッチの差で失敗してしまう。

このスペース砲に、キャベルとパスワーシーの子供たちが乗っていて、宇宙を行くスペース砲を眺めながらうっとりと自己満足に浸るオズワルドの自己陶酔イベントに突入してしまうので、この後のテオトコプロスや同調者たちがどうなったのかは分からず、人類の未来の結末も分からず、映画は終わる。

私がヒーローになってほしかったテオトコプロスは、いまひとつ当たりを引けずに終わってしまった。
 
 

フィクションなのに現実になりつつある

というわけで、何年か前に初めてこの映画を見た時、現実世界ではテオトコプロスの革命が成功するとは思えなかった。テオトコプロスのあの程度の持論と行き当たりばったりの計画だと、たぶん無理だろうと。実際映画でも失敗していた。

でも・・・あれから数年が経ったら、現実世界の方が一変した。そうしたらテオトコプロスに対しての見方も変わってきた。


数年前は「思想が浅いから革命出来ないのでは」と思ったテオトコプロスだけれど、もしかするとこのやり方で革命、可能かも。

実は小難しい理屈が大衆を動かすのではなく、この程度の分かりやすい主張だからこそ人々を動かすのかも。

彼はもしかしたら今話題のガーシーや立花隆なのかもしれない。


私は、N党の立花隆はインテリで相当クレバーなお方だとお見受けしてる。彼は奇襲攻撃と変化球で日本をぶっつぶすだろう。

でもガーシーはインテリとは程遠い。ただしダーク・ヒーローになれる可能性を秘めている。

フィクションの登場人物であるテオトコプロスの方が現実的でつまらなくて、現実のガーシーや立花隆の方が漫画的で、見ていてワクワクする。

二人はゴジラなのだ。

壊し屋の二人が今の日本をぶっ壊してくれたら、誰か別の人がそこに新しく建設していけばいい。建設まで二人にやってもらおうなんて図々しすぎる。そこまで丸投げじゃ、他の日本人がいらないじゃん。


そんな風に現実のガーシーや立花隆をみていたら、もしかしたらテオトコプロスにも出来るのかも、と思い出した。

必要なのはただただ、ひたすらの「心の底からの魂の叫び」なのでは。

テオトコプロスもあんな小理屈ではなく、心の底からの魂の叫びだけで良かったのでは。そしたら革命が起こせたのでは。

・・・なんとか起こせないかなあ。


この未来はディストピア

結局・・・H・G・ウェルズや制作陣が、この未来を良い未来として描いているのか、それとも批判的なのかが、私にはよく分からなかった。

先に引用したように、子供たちが乗るスペース砲を見つめながら自己満足に浸るオズワルドに、友人のパスワーシーが「でも、でも」って盛んに言い返していたところを見ると、作者のウェルズは二人のキャベルに批判的なのかもしれない。

でもあまりにも自信満々なオズワルドの姿を見ていると、自信満々なのはウェルズのようにも見えてきて、確信を持てなくなる。


でも、映画の解釈として正しいか分からないけど、私はこの映画が描く未来はディストピアだと思う。私は二人のキャベルがつくったこの未来は好きじゃない。

だからやっぱりテオトコプロスにはぜひ、革命を頑張ってもらいたいし、現実でもガーシーや立花隆に期待してしまうのだった。


 

👇 日本版は(たぶん)DVDのみ 

 
 
 
👇 Youtube 英語なら全編Ver.もある
 
 
 
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