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【映画】「アラバマ物語(1962)」アティカスの善人ぶりが胡散臭い、アメリカ映画の大傑作

 
おすすめ度 ★★★★

題名 アラバマ物語(To Kill a Mockingbird)
監督 ロバート・マリガン
制作 アラン・J・パクラ
脚本 ホートン・フート
原作 ハーパー・リー「アラバマ物語」1960年
出演 グレゴリー・ペック、メアリー・バダム、フィリップ・アルフォード、ジョン・メグナ、ブロック・ピーターズ、ロバート・デュバル
音楽 エルマー・バーンスタイン
上映時間 129分
制作年 1962年
制作国 アメリカ
ジャンル ドラマ、モノクロ、社会派、法廷もの、

受賞 アカデミー脚色賞、アカデミー主演男優賞
 
 
 
時は1932年。世相は世界大恐慌の真っただ中で、そして人種差別の目立ちやすいアメリカでも特に黒人差別の嵐が吹き荒れていたアメリカ南部が舞台。

テーマは重いが難しい物語ではないし、構成がうまくできていて南部の町や大人たちの様子が「子供たちの目線」で描かれているためスムーズに世界に入り込める。


原作は1960年代のベストセラーであり、この映画も名作の誉れ高い。

これで主演のグレゴリー・ペックがアカデミー主演男優賞を取り、脚本がアカデミー脚色賞を取った。

さらにスカウト役を演じた女の子メアリー・バダムがアカデミー助演女優賞にノミネートされたが、これは当時史上最年少ノミネート(10歳)だった(このノミネートは妥当)。

黒人差別の問題について本を読んだりするのはエネルギーがいるし敷居が高いが、本作はアメリカの黒人差別の歴史の一端を知る入門としてうってつけだと思う。
 
 

あらすじ

1930年代のアラバマ。兄妹のジェムとスカウトは弁護士の父親アティカスと3人暮らし。家には通いの黒人家政婦キャルがいて、二人の面倒を見てくれている。近所は子供たちの好奇心をそそられる人々ばかり。中でも隣の家のラドリーさんの家には、鎖で繋がれた身長が2mもある頭のおかしな男がいるともっぱらの噂だ。みんなはその男を ”ブー” と呼んでいるけれど、誰も姿を見たことがない。


そんな毎日の中、白人女性が暴行を受ける事件が起こる。容疑者である黒人トムの弁護を引き受けることになったアティカスだが、それが原因で近所と軋轢が生じてしまう。ある晩などは被害者の父親ユーエルさんを筆頭に、町の白人男性たちが徒党を組んで黒人トムの自宅を襲おうとする。アティカスが説得するが、暴徒を阻止したのはスカウトの存在だった。

裁判の日。被害者の父ユーエルさんはトムが犯人で間違いないと激しく主張。しかしアティカスの反対尋問によって、ユーエルの証言の矛盾点が明らかになっていく。

そしてトムが証言台に立ち、自分は無罪であると主張。アティカスの最終弁論のあと、陪審員たちは審議に入る。しかし下った判決は「有罪」。アティカスはトムに「希望を失わないよう」話す。しかしトムは護送車から逃亡し、射殺されてしまう。

ジェムとスカウトは学校のハロウィン・パーティに参加する。その帰り道、二人は何者かに襲われれる。スカウトを守ろうとしたジェムは気絶するが、そこへ男が現れ二人は救われる。襲ってきたのはユーエルさんで、救ったのはブーだった。

ユーエルはナイフで腹部を刺されて死んでしまうが、ブーの正当防衛は明白だ。しかし家から出ずに生活する ”ビッグ・シャイ” なブーを裁判に引きずりだし、世間の好奇の目にさらすのは反対だと保安官は主張し、スカウトもそれに同調。アティカスも同意するのだった。





Di Moni3 - Transfered from en:Image:Atticus_and_Tom_Robinson_in_court.gif,version of 00:45, 14 February 2008, Pubblico dominio, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3560213



暴力シーンの演出について

この作品には暴力的な黒人差別の描写というのは非常に少ない。

 
あえて言えば、ラストでジェムとスカウトがユーエルさんに襲われるシーンくらいだけれど、直接的な描写は避けているようで、ユーエルさんはナイフで刺されるけれど、その映像はない。

なんなら喧嘩っ早いスカウトが一番暴力的だったくらい。

この作品はそういった、単純で直接的な暴力ではなく、不公平さや理不尽さといった精神的な暴力に焦点をあてているところが特徴なのだろうと思う。

その理不尽さは、後半の裁判シーンに凝縮されている。
 
 

黒人差別と映画での描き方について

まず裁判所の傍聴席は、1階が白人、2階が黒人に分かれている。そして陪審員12名は全員が白人で、黒人は一人もいない。トムを犯罪者にしようとするのはたった3人の白人で、しかもそのうち2人は本人と父親だ。

彼らの証言は矛盾に満ちているし、被害者が嘘を言っていることなど明白。だからアティカスに矛盾点を突き付けられると取り乱してヒステリックに叫びだす始末。

そんな体たらくなのに12人の陪審員たちは2時間の協議の末、トムの有罪を選択する。
 
理屈も正義も真実もあったもんじゃない。トムが狂ったように逃げ出すのも当然だ。こんな理不尽な目に遭って正気でいられるはずがない。

はずがないけど、そういう理不尽に長年さらされてきたのがアメリカの黒人たちなのだった。
 
 
でも救いもある。
 
裁判を見ようと駆けつけたジェムとスカウトが黒人牧師に連れられて2階席で傍聴することになるが、二人はまったく当たり前のように黒人牧師に話しかけ、黒人牧師も自然に席を与えている。ここでの彼らは同じただの人間だ。
 
 
さらにアティカスの家で家政婦をしている黒人女性のキャルは、差別的な扱いを受けるどころか、まるで二人の子供の母親のように振る舞っている。子供たちも懐いているし、キャルも全然遠慮しない。
 
 
たとえば、スカウトはとても率直な女の子で、思ったことをすぐに口に出して相手を傷つけることがあるのだが、ある日とても貧しい家の少年が学校にお弁当を持ってこられないことを巡ってケンカになり、止めに入ったジェムがその少年を夕飯に誘うシーンがある。

アティカスの家にやってきた少年は、無邪気にも「牛肉なんて久しぶりだよ。いつもウサギや鳥を銃で撃って食べてるんだ」と言い、さらに「シロップが欲しい」と言って、キャルが運んできたシロップを、肉や付け合わせ、パンなど食事全体に大量にかける。それをスカウトは「信じられない」という顔で眺め、「それじゃ食事が台無しよ」と言う。
 
すると黒人家政婦のキャルは台所にスカウトを呼びつけて、「彼はお客様よ。尊重しなさい。お行儀よくできないのなら台所で食べなさい」と強く叱るのだ。


これらの例でも分かるように、この映画は黒人差別をテーマにしているが、映画からは黒人差別を感じなかった。


 


Di Totorosan1 - screenshot catturato da Totorosan1 dal blu-ray., Copyrighted, https://it.wikipedia.org/w/index.php?curid=5154324

 
 

アティカスの人間性について

アティカスはたいへん立派な人物だと思う。
 
ジェムやスカウトが町の黒人たちと自然に対等に接しているのはアティカスの教育のたまものだし、キャルと子供たちの関係も雇い主としてのアティカスの人間性がなせる業だ。

根強い黒人差別が渦巻く南部で、アティカスは夜になるとキャルを家まで車で送っていったり、子供たちに危険が及びそうなときは泊まってもらったりしている。

そしてそれを申し出るアティカスはいたって紳士な態度だし、キャルの方も卑屈さがなく、対等に振る舞っているように見える。
 
インテリで、理想や正義の炎は内面に静かに燃やすタイプで、暴力を嫌い、スカウトの喧嘩っ早い性格を優しく厳しく戒め、ジェムに銃を持たせることにも慎重な良識派だ(ジェムは早く持ちたくて仕方ないけど)。

ジェムから「フットボールの試合に一緒に出てほしい」とお願いされても年齢を理由に断り、おまけにジェムにもフットボールでのタックルを許可しない。徹底的に暴力を否定するアティカスなのだ。


一方で、狂犬が出てジェムらが危険にさらされたとき、アティカスは最初こそ保安官に射殺を任せようとするが、彼が射撃が得意ではないと知ると、アティカスはためらいながらも一発で犬を打ち殺す。その時息子のジェムは、今まで見たことのない、いわゆる ”男らしい” アティカスを初めて見てすっかり見直すという出来事が起こる。

アティカスはそういう風に、自分の能力をひけらかすことがない男でもある。
 
能ある鷹は爪を隠す的なヒーロー。なんて立派なのかしら。グレゴリー・ペックだから当然イケメンだし、非の打ちどころがないじゃないか。

でも私には、アティカスの聖人君主ぶりがちょっと引っ掛かるのだった。
 
 

アティカスの人間性が引っ掛かる

最大に引っ掛かるのが裁判での最終弁論のシーンで、容疑者トムを弁護するアティカスが言うセリフの一部。

非常にモヤモヤして、自分の中で上手く整理できない。やや長いがそのセリフを引用してみる。
 
 
引用:「彼女の行動を動機付けた要因を私は罪と言った。彼女は犯罪を犯してはいない。世間にある戒律を破ったに過ぎないのだ。これを破った者は社会から疎まれ追い出される。彼女にはその証拠を消す必要があった。
 
その証拠とは何であるか・・・トムという人間である。彼女にはトムを消し去る必要があった。トムが生きている限り過去を思い出してしまう。
 
過去とは何か?  白人であるのに黒人を誘惑した。この社会では口にもできぬ汚れた行為。黒人との接吻。しかも老人でなく強く若い黒人男性だ。気にも留めなかった戒律が彼女を苦しめ始めた。」
 
アティカス最終弁論より

 

 
彼女は犯罪者ではないが、人としての罪がある。そしてその罪とは、無実のトムに濡れ衣を着せて有罪にしようとしていることではなく、黒人を誘惑しキスしたことにあると言っているのだ。しかも「口にもできぬ汚れた行為」とまで言っている、すさまじいまでの言いぶり。

私は極めて差別的だと思った。表面は善人ぶって人格者ぶっているけれど、極めて差別的じゃないか。「こいつ何言い出してんの?」って思っちゃった。
 


私はアティカスが自分で「自分には差別主義的な部分がある」と認めているんならモヤモヤしないのだと思う。「積極的に有色人種を差別したり攻撃したりはしないけど、自分の中に人種差別的感情があることを自覚して認めている。でも理性で差別しないように努めています」と言うのであれば、まあいい。私は許す。誰にだってそういうことはあるし、そういう努力は大事なことだ。

でもアティカスは自分が差別主義的であると自覚していないと思う。自覚しているようには描かれていないと思う。まさか自分が差別主義的だなんて、夢にも思っていないのではないかしら。

 
私の感覚では、アティカスのような無自覚で自己欺瞞に満ちた奇麗ぶった偽善者よりも、「何が悪い!差別するにも理由がある!俺はあいつらが嫌いなんだ!!」って全力で叫んでしまうような、自覚した差別主義者の方が好きだ。人間として信用できるような気がする。話も合いそうだ。

それなのにこの作品が「反差別主義の名作」みたいに扱われて、アティカスが一種の理想のアメリカ人みたいに扱われていることが、私にはなにやらモヤモヤして納得できないのだった。


というわけで、私はこの作品から逆に人種差別の根深さを感じて、「良かったです!感動しました!」なんて、言えない。
 
ただぐるぐるぐるぐる考え込むのだった(ノスタルジックな、いい映画、傑作名作だとは思っているが)。


・・・ついでにもうひとつ、引用したセリフの後半、「黒人との接吻。しかも老人でなく強く若い黒人男性だ」というのもなんだろう。私には意味がさっぱり分からない。老人ならいいの?
 
どういうことなの。
 
 

ブーについて思うこと

ところで話は一転してブーのことだけど、彼は今でいうところの自閉症系のひきこもりなのだと思う。そしてショタっぽいところもありそうだし、結構ヤバいヤツなんじゃないの。
 
あの木の幹におもちゃを入れていたのはブーだろうし、ブーがおもちゃをあげたい相手は女の子のスカウトではなく、どっちかというと男の子のジェムの方なんじゃないかと思う。
 
実際、最後二人が襲われた時、二人を救ったブーは、いかに怪我をしていたとはいえジェムを抱えて一目散に駆けていって、スカウトの事なんて一瞥もしない。


映画は、ブーは「実はいい人」みたいな、「障害を持つ者の方が心が奇麗だよね」みたいな、心温まるいいエピソード、いい思い出、みたいな終わりかたしてたけどホントかな。それで大丈夫?

私にはブーが一番やばいヤツで、アメリカの田舎の狂気を秘めているように感じられて、映画では描かれない後日譚を想像すると「ああこわい」と思う(演じたのはロバート・デュバル)。


考えすぎかなあ。
 
というわけで、現代にも通ずる「人間の闇」をいくつも感じさせて、この映画は終わるのでした。おしまい。
 
 
 
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