おすすめ度 ★★★ 3500文字
題名 タイム・マシン(The Time Machine)
監督 ジョージ・パル
制作 ジョージ・パル
原作 H・G・ウェルズ 「タイム・マシン」(1895)
出演 ロッド・テイラー、アラン・ヤング、イヴェット・ミミュー
上映時間 102分
制作年 1960年
制作会社 MGM
制作国 アメリカ
ジャンル SF、タイムトラベル
「慌てなくていい 世界中の時間が君の物だ」
親友フィルビーのセリフ
超有名なSF作家、H・G・ウェルズの小説「タイム・マシン」の映画化作品。
古き良き19世紀末のアメリカ風俗と、極めて美しいタイム・マシンの造形、そして「時が飛んでいく」特撮が印象に残る、タイムトラベル映画の傑作。
「ミニチュア・タイムマシン作る方が難しくね?」とか「マッチを擦ってるけど、さっき水に飛び込んでたような・・・」とか「薪もまた随分と一か所に集まってるなー。しかもえらくキレイな薪だな」とか思ってはいけません。
そういうことは気が付かない事にして、この映画は楽しみましょう。
あらすじ(長い)
1900年1月5日。発明家ジョージは、自分が企画した夕食会にも関わらず約束の時間に現れない。招かれた友人たちは主人抜きで夕食を始めようとする。そこへ、破れた衣服、汚れて疲れ切った姿のジョージが部屋に飛び込んでくる。驚く友人たちに、ジョージは大晦日からこの5日間に経験した、驚くべき冒険譚を話はじめる。
時は少しさかのぼって1899年の大晦日。ジョージは友人達を招いて夕食会を催していた。彼はその席で友人達に「タイム・マシンを発明した」と宣言、ミニチュア模型を使って実験して見せる。模型は跡形もなく消え去り、ジョージは「100年後の未来に旅立ったのだ」と自慢げに語るが、友人たちは誰も信じず、呆れて帰宅してしまう。
ただ一人残った親友フィルビーは「過去や未来になど行くべきではない。人の分を越えている」と諭すが、ジョージはフィルビーを帰し、1月5日のディナーの段取りをしたあとで、自らが発明したタイム・マシンに乗り込み未来へと向かう。
1917年、1940年、1966年を経て、ジョージが到着したのは80万年後の世界だった。地上は緑に覆われ、果実がたわわに実り、さながら地上の楽園といった世界。巨大な頭像のそびえる神殿のような建物や、ドーム状の建造物も見える。
川でおぼれた少女ウィーナを救ったことで、ジョージはイーロイと呼ばれる人類の末裔と出会うが、彼らは知的好奇心を失った無気力な人々だった。彼らのコミュニティを見限って飛び出したジョージは、今度は地下に住まう醜悪な、もうひとつの人類の末裔モーロックと出会う。
263年間にも及ぶ戦争で地上は荒廃し、人類は地下と地上に分かれて進化していったこと、地下のモーロックが地上のイーロイを家畜化していることを知ったジョージは、捕獲されたウィーナを救うべくモーロックに挑む。
モーロックに持ち去られたタイム・マシンをとり返したジョージは、遥か過去の自分の時代へと戻っていく。そこで友人たちに事の顛末を話して聞かせた後、再びウィーナのいる80万年後の未来へと旅立っていく。
見どころ(ビジュアル面)
見どころはまず、SF映画界に大きな影響を与えた監督ジョージ・パルのパペット・アニメーションと超低速撮影。
ろうそくがみるみる縮んでいったり、太陽がぐるぐる昇ったり沈んだり、マネキンの着ている服が次々変わっていったり、花が咲いたり散ったり、実がなったり、これでもかと時間が高速で進んでいることを示すアイディアでいっぱい。
最近のCG映画を見ている人から見るとチープに感じるだろうけど、ひとコマひとコマ撮影している手作り感など、タイム・マシンが未来に向かっている描写をどう映像化するかというアイディアや工夫が楽しい。
そしてビクトリア朝デザインのタイム・マシンの造形。
史上最も美しいタイム・マシンと言われているやつです。ドラえもんのとか、キテレツくんのとかとは全然違う。キテレツくんのなんて、木ですからね。
このタイム・マシンの特徴は、デザイン以外にもうひとつあって、それは空間的な移動はできないこと。
時間軸は動けるけど、場所を動くことが出来ないから、ジョージはすごく未来や過去の時間には行けても、今いる場所からは動けない。だから移動先が山の中、なんてことにもなってしまう。
時間旅行に旅立つには不安ですな。私なら乗りません。海の中とかだったら泳げないし(ドラえもんにもそういう描写がある回があった)。
ぜひとも空間移動もできるようにしてもらいたい。
テーマは何か
ところで映画のテーマはなんだろう。
「人類は学ばなきゃダメだよ」ということかな。知性を持って生まれてきたものの責任、というか。
知性のある人類がいなければ、この宇宙はないのと一緒。
例えば夕焼けがあれば、人がそれを「美しい」と認識する。そして例えばそれを絵に描くとすれば、それはその認識を誰かと共有したいからに他ならない。そしてそれが後世に残っていく。すると時代を超えて共有できる。そういう行動ひとつひとつが歴史を作っていく。
それが「ある」ことを認識して、記録するとか、伝えるとか、共有することは他の生物には今のとこ出来そうにない。こういうことができるのは、私達人類しかいない。
それが人類に生まれた私たちの使命、責任なんだと思う。
美しいイーロイはすべてをドブに捨ててしまっていた。これはダメ。ジョージがキレるのも無理はない。
「善とは何か」
小見出しが西田幾多郎っぽくなってしまったが、イーロイとモーロックの取り扱いはあまりにもステロタイプ的でちょっと引っかかるところもある。
地下の人類モーロックは、家畜を飼おうとするくらいだから知性の残滓みたいなものは残されているわけだ。で、地上のイーロイはもう人類とは言えないほど、頭を使うことを放棄している子ども以下の存在。
あれは滅びゆく存在です。私の感覚では、ここまでおバカちゃんなのは、これは悪です。種として尊厳をもって生き延びられないのであれば、そんなものは善ではない。
なのに何気にイーロイの方が善、モーロックが悪、みたいに描かれているのは、やっぱり結局、見た目でしょお。
イーロイは全員が、それはもう美しい。どうやら白人でプラチナ・ブロンドじゃないとイーロイにはなれなかったらしい。
おまけに年を取る前にモーロックに食われちゃうから、みんな若い。若くて美しいんだから、これは善であると。
もし、逆に地下のモーロックが白人でプラチナ・ブロンドだったらどう感じるんだろう。ずっと地下にいたから色が白くなっちゃったんですよ、ってことで。
そして地上のイーロイの方が醜く描かれていたら、案外地下の白人モーロックに共感するんじゃなかろうか。醜いイーロイは醜いんだから家畜で当然、みたいな。
結局は共感も見た目かあ。
👇 モーロック(上)とイーロイのウィーナ(下)
頭空っぽなウィーナと、それを演じたミミューのこと
もうひとつ興味深いのはイーロイのヒロイン、ウィーナ役のイヴェット・ミミュー。
彼女の役ウィーナはとても可愛くて愛らしいのだが、頭は空っぽという役。まるで赤ちゃん。もっとも、頭が空っぽだから愛らしいのかもしれないけど。
こんなウィーナみたいに純粋無垢でおばかちゃんな女は、現実にはいない。
だけど彼女を演じたミミューは、本当に頭が空っぽに見える。演技なのか、はたまた素なのか。
他の作品を見られれば分かるのかもしれないが、彼女はあまり有名作には出ていないようなので、私には永遠に分からないでしょう。
ミミュー。この無垢ぶりが演技だとしたら大したもんだ。
👇 本作でのイヴェット・ミミュー
By 20th Century Fox - frontback, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=61823646
映画の良かったところ
映画よりもずっとエグい原作と比べると、映画は多少のアレンジが加わっている。
最も違うのは終わり方で、かなり前向きで活力がある。
原作はディストピア感が強くて、絶望です。
「宇宙戦争」とか「モロー博士の島」もそうだけど、ウェルズは読むと気が重くなることが多い。
一方映画の方は、「本を三冊持ってウィーナの元へ戻る」という前向きな感じで、原作とはだいぶ趣が違う。
ジョージの親友フィルビーが「みなさんならどんな本を持っていきますか」みたいに私たちに問いかけてくるけれど、ジョージがどんな本を持っていったのか考えてみるのは楽しい。
三冊か。
話は代わるが、モーロックって変な人たちなんですよ(見た目ではなく)。
だって自分達は腰巻ひとつの裸同然なのに、イーロイには服を着せようっていうんだから(笑)
へんなの。
👇 DVDはこちら
このDVDには、50分くらいあるメイキングが収録されていて、特撮部分や「タイム・マシン」のデザインなどに関しての制作者や出演者、映画ファンの愛情が伝わってくる。オタク必見です。
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