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割と自己流で生きています

私たちは今、トロッコ問題を解いている

 

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mです。

最近の感染症とその予防薬をめぐって、私は非常に高いストレスを感じています。感染症だけが問題になっていた去年(2020年)よりも、予防薬が登場した今年(2021年)に入ってからの方が、比較にならないほどのストレスを感じています。

予防薬がでてきてからの方がややこしくなってませんか。予防薬接種証明書の話まで出てきて、いよいよ事を複雑にしてはいませんか。ほんとにストレスで一杯です。

予防薬や接種証明書の是非はそれぞれ色々な意見があると思うので、接種は自分の責任で選択をするべきだと思うのですが、私は最近「これはトロッコ問題なのではないか」と思い始めました。

私たちは今、思考実験ではなく、本当にリアルなトロッコ問題を解いているのではないか。全人類が、「あなたは生きるということをどう考えますか。命の重さをどう考えますか。死をどう考えますか。私の命と誰かの命の重さをどう考えますか」ということを考えさせられているのではないか。

21世紀の人類の未来を決める決断を迫られているのではないかしらと思い始めました。


 


トロッコ問題とは

すでにご存じな方、一度は考えたことがある方も多いと思いますが、『トロッコ問題』というのは有名な倫理学上の課題です。

一言で言うと「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるのか?」を考えるというものです。

問題は、
1)あなたは線路のわきに立っています。線路は真っ直ぐですが途中で二股に分かれていて、あなたの目の前にあるスイッチを切り替えると線路の分岐を変えられます。
2)真っ直ぐ行く予定の電車の先には5人の作業員が作業していて、分岐した線路の先には1人の作業員が作業しています。

3)そこへ電車が猛スピードで走ってきます。予定通り真っ直ぐ行くと5人が死にます。あなたが分岐を切り替えると分岐先で作業していた1人が死にます。彼らが電車を避けることはありません。
4)あなたは「何もしない」か「分岐を変える」ことができます。どうしますか。
というものです。
※自分が運転しているバージョンもあります。


これには多くの議論があって正解を出せないでいるのですが、要は
「5人を助けるために1人を犠牲にしてもかまわないのか」ということです。

まず、「分岐を切り替えると5人が助かるのだから、1人の方を犠牲にするべきだ」という考えが出てきます。

でも「もともと電車は真っ直ぐ行く予定だったのに、自分がポイントを切り変えたら本来は死なずに済んだ1人が死んでしまう。1<5 のような数の論理で命を選択するべきではないので、何もするべきではない」と考える人もいます。

倫理上のジレンマです。

ここに「その1人が超重要人物とか、自分の推しだったら」とか「5人の方が5人ともデブだったら」とか、「1人の方が犯罪者だったら」などの細かい設定を加えると、議論はさらにカオス化します。


さらに線路ではなく、歩道橋だったらという問題もあって、こちらは「歩道橋の上にあなたと、ものすごくデブな友人が立っていて、歩道橋の下に5人の作業員がいます。電車が走ってきて5人の命が脅かされますが、あなたがデブの友人を歩道橋から突き落とすと電車は止まります(それくらいのデブという設定です)。あなたは友人を突き落としますか」という問題です。

すると、線路の時には「1人よりも5人の命の方が数が多いから、分岐を切り替えて1人を殺し、5人を救うべき」と回答した人が、歩道橋問題になると「友人を突き落とすべきではない」と回答する人が増えて「さっきは1人を犠牲にするべきだと言ったのに、今回はなぜ?」という矛盾が出たりします。




今の予防薬をめぐるジレンマはこの「トロッコ問題」だと思う

私は今、人類が置かれている状況は、この「トロッコ問題なのだ」と思います。

いま私たちが置かれているジレンマは、
1)世界的に広がっている感染症で、多くの命が脅かされている
2)予防薬を打つと感染症で死ぬ可能性が低くなるが、予防薬を打つと低確率かもしれないけれども死ぬことがある。

つまり、「大勢が予防薬を打つことで全人類が助かるかもしれないが、その予防薬のせいで感染症では死ななかったかもしれない少なからぬ人が死ぬ」という選択を迫られているわけです。

分岐を切り替えれば(予防薬を打てば)、関係なかったかもしれない人が大勢死ぬのです。

あなたは分岐を切り替えますか?と。


ここに「そもそもその予防薬の有効性次自体があやしい」とか「そこまで致死率の高い感染症ではない」とか「検査そのものが信頼性に欠ける」とか「予防薬より治療薬を」など、様々な要因が絡んで議論がカオス化します。


そして予防薬だけでなく接種券の方も、「全体の利益のためには、多少の犠牲者を出してもよいかどうか(予防薬を拒否する人は社会から排除してもよいかどうか)」という意味で、トロッコ問題なのだと思うのです。


私は「分岐を切り替えたくない」方です

私は運命論者というほどではないけれど、多少は「強引な力で運命を変えるべきではない」と考える方です。「自然な抵抗はありだけど、不自然に大きな力を加えるべきではない」と思います。

とはいえ「じゃあどこまでが自然で、どこからが不自然なんだ」と問い詰められれば「そうですよね・・・分かりません」となって、脳みそがあんまり根気がないので疲れちゃって、「そこまでは決められないけど、でも私はそう思うんで・・・」って言って、自説を曲げない頑固ばばあになるだけです。


トロッコ問題で言えば、もちろん結論を出しているわけではないですが、比較的「そのまま自然に任せて、何もせず、5人が死ぬ方」を選びたい。

そして「あの時私は分岐を切り替えるべきだったのかもしれない・・・」と、死ぬまでずっと悩み続けるのです。

もしかすると「自分の手を動かして分岐を切り替えるという、積極的に物理的な行動に出て1人を殺す」ことの重圧に耐えられないだけかもしれません。少なくとも「何もしないで5人が死んだ場合」は、私は自分に「それが運命だったのだから」と言い訳をすることができる。デブの友人を突き落とせないように、分岐も切り替えられないのです。

弱さなのかもしれません。



でも今回直面している問題に関しては、他にもやれることがあると思うんです。

全員で予防薬を半強制的に打たせて、打ちたがらない人をジワジワ追い詰めて、接種証明書を配って、さらに打ちたくない人を追い詰めて・・・って、そんなことまでしなくても、今回の感染症って収まると思うんですよ。

医療体制も手を付けることが一杯ありそうだし、治療薬の方にはあまり力を入れていないようだし、マスコミの報道の仕方にもメスを入れるべきだし、感染症の分類を見直すべきだと思うし、やることはまだたくさんあると思います。

なのにそういうことはほっといて、「とにかく全員に予防薬を打つんだ!! 打たない奴は無責任だ!」みたいな極端にはついていけません。私は全体主義な生活、たぶん耐えられない。

だから非力だけど、いま精一杯時間稼ぎをしています。

まだまだ粘るつもりです。



参考動画など

ja.wikipedia.org

www.youtube.com

www.youtube.com